信仰の旅
多くの村人たちが見守る中、アメンヘテプは白い布を肩から羽織り、
「燃える山には、わたし一人で登らねばならない」
と言って、神の待つ燃える山へ登りはじめた。
アティはアメンヘテプがとても心配で、エジプトの高官やパフラの姿が、広場から去ってしまうのを見計らい、王子の後を密かに追いかけようと思っていた。
そのときパフラが姿を現し、
「アティ、この杖をアメンヘテプさまへ」
自分のアカシアの杖をアティに手渡した。
「祭司さま」
アティは跪いて杖を受け取り両手でしっかりと握りしめる。
「アメンヘテプさまにこの杖を手渡したならば、おまえは山の中腹で王子さまをお待ちするのだ。決して一緒に山頂に登ってはならん」
パフラは厳しい表情でそう申しつけた。
「はい」
「早く行きなさい」
パフラは手を大きく振る。
アティはすぐに駆けだし、アメンヘテプの後を必死に追いかけた。
燃える山へは幾度となく登っているアティだったから山道には慣れている。王子を無事に山の中腹まで導けるのは自分しかいないのだ。
そのころアメンヘテプは、神に会いたい、そのことだけで頭が一杯で、ひたすら険しい山道を登り続けていた。まさか小さなアティが杖を持って自分の後を追いかけているとは思いもせず。
「何て荒々しい山なのだ」
山肌は徐々に盛り上がり、切り立った断崖が幾つも連なっている。先へ進むと幾つもの険しい山や切り立った谷が行く手を阻む。
樹木が生い茂り山々から染み出た小川が幾筋も流れていた。
アメンヘテプはイチジク、ブドウ、カウなどの木の実を口にし、小川の清らかな水で喉を潤す。
焼け付くように激しい太陽光線がアメンヘテプの全身を貫く。
肌は日に焼け真っ黒くなり、頬は削げ、髪も髭も長く伸び、焼けた大地のせいで足の皮は石のように硬く厚くなった。
だが、アメンヘテプの心と魂と肉体は、自然という神の子宮に抱かれ、魂の傷も心の闇も肉体の穢れも浄化された。
アメンヘテプは母なる神から、今まさに、新たに生まれようと胎動していたのだ。
「神さま」
アメンヘテプはようやく燃える山の中腹辺りまで辿り着いた。
「すっかり日が傾いている」
山は闇に覆われはじめ、山頂付近の山肌が時折赤く光る。
「ここで夜を待つとするか」
アメンヘテプは岩場の少し開けた場所に作られた洞穴に身を隠した。すると洞穴の入り口付近の小さな木が燃え始めた。
「火が」
アメンヘテプは驚き、じりじり後ずさりしていると、
「アティがそなたの後を追っている。その火を持ってここまで連れてきなさい」
神が思いがけない事を指示した。
「アティが、まさか」
すぐに燃える木の枝を手に取り、アメンヘテプは山を駆け下りた。
獣道すらない険しい岩ばかりの山道を神の火を頼りに走り続ける。すると遠くから少女のすすり泣く声が聞こえてきた。
「アティ」
アメンヘテプが松明を大きく振ると、
「アメンヘテプさま」
アティの震える声が響いてきた。
「直ぐに行くから」
声のする方へ早足で近づこうとすると、アメンヘテプを複数の光る目が睨んだ。
「……」
オオカミの群れだった。
「アティ、そこでじっとしているんだ」
オオカミから視線を外さず、アメンヘテプは自分の顔がよく見えるように松明を近づけた。
アティの前からオオカミの群れが動き出し、アメンヘテプを取り囲んだ。
王子は、オオカミのボスに違いない、最も大きな白銀の毛のオオカミに視線を合わせ対峙した。
アメンヘテプとオオカミの睨み合いが続く。
オオカミのボスがじわじわと距離を縮めてくる。
アメンヘテプはオオカミが近づくにつれ後ずさりするどころか、じわじわと腰を屈め地面に両膝をついた。
アメンヘテプの目の前までオオカミのボスが近づいた。
アティは恐ろしさのあまり血の気が失せ、顔は真っ白になった。
ラモーゼとカフタもアメンヘテプが心配で後を追ってきた。二人は、途中、獣道に迷い込み、いまやっと王子に追いついたところだった。
(アメンヘテプさま)
カフタが王子の所へ飛び出そうとするのを、
「待て」
ラモーゼが制止した。
その時だった、
「グルル」
オオカミのボスが小さく唸り声を上げ、王子の鼻がしらを舌でぺろぺろ舐めた。
「僕らは友人だ」
アメンヘテプは微笑みオオカミの頭や体を撫でた。すると他のオオカミたちもアメンヘテプに近づき頬や手や腕を舐める。
アメンヘテプは怯えて座り込んだままのアティの所まで歩いて行き、
「大丈夫か」
優しく話しかけると、
「わあぁ──」
アティは泣き声を上げながらアメンヘテプの腰に抱きついた。
「もう心配ないよ」
腰に顔を埋め泣き続けるアティを両手でしっかり抱きしめながら、アメンヘテプはアティが握って放さない杖に気づいた。
「この杖は……」
「パフラ祭司さまからこの杖をお渡しするようにと」
「祭司も無茶なことを」
そのとき岩場の陰から、
「アメンヘテプさま」
ラモーゼとカフタが姿をあらわした。
「おまえたち」
「我らも心配で追いかけてまいりました」
「みんなありがとう」
アメンヘテプは側にいるオオカミを見てそれが神の使いに違いないと思った。
「アヌビス神がこのオオカミを使わしたのだ」
アメンヘテプは彼方に紅海が広がる西の方を向いて、
「神さま、どうか船の遭難で亡くなった多くのエジプトの船員たちの御霊をオシリス神の元へお導き下さい」
そう言って手を組み黙祷した。
その姿を見たラモーゼもカフタもアティも、王子と同じように、海の藻屑となった人々の彷徨える御霊に黙祷を捧げるのであった。
「少し登ったところに洞穴がある。そこで夜を過ごそう」
アメンヘテプは自分の松明から火を分け、ラモーゼ、カフタ、アティに与え、険しい山道を再び登りはじめた。
「さっきのオオカミが」
アティが恐ろしさに震えアメンヘテプの右腕をギュと掴む。
「大丈夫だよ」
四人から少し距離をおいてついて来たのは、さっきのオオカミのボスだった。
「恐いわ」
「オオカミはアヌビス神の化身なのだ」
「アヌビスとはエジプトの神さまですか」
「そうだよ。死んだ人間の守護神で、死者の安らかな眠りと来世をサポートしてくれる神さまだ」
「アヌビス神にアメンヘテプさまの優しいお心が届いたのでございましょう。これで此度の事故で肉体を失ったエジプトの同胞も心安らかな眠りにつくことが出来るでしょう」
ラモーゼの言葉に四人は頷きアメンヘテプは目頭に涙を浮かべた。
四人がしばらく歩くと突然開けた岩場に着いた。
「ここだ」
アメンヘテプは岩場の陰に洞穴を見つけ中に入って行く。
後の三人も慌てて後を追う。
「ここなら安全だ」
岩場の壁に背をもたれアメンヘテプはさっさと目を閉じた。
入り口を入って直ぐの所にラモーゼとカフタは向き合って座り、交互で見張りをすることにした。
アティは、洞穴のすぐ近くで門番を始めたオオカミのボスが気になりながらも、アメンヘテプの隣にきて同じように岩の壁に背をもたれ目をつぶった。
夜空には無数の星が煌めいていた。
夜明け前、アメンヘテプは洞穴の入り口から流れ込む一陣の風に頬を撫でられ目を覚ました。
「もうお立ちになりますか」
寝ていなかったのかアティがすぐに王子の微かな動きに気付いた。
「神に誘われた」
「私も一緒に行きます」
二人のやり取りを聞いていたラモーゼも起きてきて、
「我々もお供させて下さい」
アメンヘテプの前に来て頭を下げる。
「それはだめだ」
「しかし」
「一人で来いと仰せなのだ」
「アメンヘテプさま、わたくしもお伴させて下さい」
王子とラモーゼのやりとりを聞いていたカフタも加わってくる。
「みんなを起こしてしまったな」
「わかりました。我らは此処でお待ちしております」
「ラモーゼ」
カフタが信じられないといった風にラモーゼを見つめる。
「頼んだぞ」
アメンヘテプは心配そうに自分を見つめる三人に微笑み立ち上がった。
オオカミのボスは、洞穴から出てきたアメンヘテプに気づき、すぐに王子のくるぶしに頬を擦りつける。
「おまえが案内してくれるのか」
アメンヘテプは、愛犬のように懐いたオオカミの、首や顎や頬を背中を優しく撫でてやった。
「ラモーゼ、カフタ、アティ」
「はっ」
「何日かかろうとも、山頂で何が起ころうとも、決して私を探しにきてはならない。よいな」
「それは……」
「よいな」
アメンヘテプは強く命じると三人に微笑んだ。
「か、畏まりました」
ラモーゼもカフタもしぶしぶ同意する。
オオカミのボスは嬉しそうにアメンヘテプの手を舐めていたが、いよいよ出立の時間が来ると岩場の断崖まで走り、白みはじめた空を見上げながら、輝く三日月に向かって「アオーン」と吠えた。
月に照らされた白銀のオオカミのシルエットが神々しく輝く。
「おまえを、ヒラール、と名付けよう」
アメンヘテプはそういいながら銀色に輝くオオカミをなでた。
その時、パチ、パチ、とラップ音が無数に木霊した。
「な、なんだこの音は」
びっくりしてカフタが周囲を見渡す。だが、なにも生き物の気配は感じられない。
「死んだ船員の御霊がアヌビス神に誘われて天に昇っているのだ」
「あのオオカミはアヌビス神の使いなのか」
カフタがあらためて銀色に輝くヒラールを見つめる。
「そうであろう」
アメンヘテプはカフタにそういって、天を仰いだ。
「星々が美しく煌めいています」
アティも目を輝かせ天を仰ぎみる。
「美しい……」
ラモーゼが黙祷した。
アメンヘテプもしばらくの間黙って天を仰ぎみていたが、
「行ってくる」
そう言って三人に微笑み、アカシアの杖を片手に歩き出す。
オオカミのヒラールも王子と一緒に山頂を目指し歩きはじめた。