4.壊れた均衡
教室の空気が、いつになく重かった。
ある昼休み、クラスの中心で言い争いが起こったのだ。
発端は、文化祭の出し物に関する意見の食い違いだった。
「だから、ポスターのデザインは先に決めたほうがいいって!」
「でも、それだと背景の装飾とズレる可能性あるじゃん! 先に飾り付けのイメージ固めないと意味ないだろ!」
クラスの二人── 池田 と 西野 が言い合いを続けていた。
当初は普通の意見交換だったが、次第に互いの主張を曲げずにヒートアップし始める。
「そもそも、最初に『ポスターから決める』って言い出したの、お前だったじゃん!」
「は? そんなこと言ってねえし!」
「いやいや、俺はちゃんと聞いてたから」
「嘘つくなよ!」
……よくある、些細な言い争い。
ただの口論で、適当なところで誰かが「もういいよ」と言えば収まるような話だった。
──そのときだった。
「証拠なら、あるよ」
ユウの声が響いた。
クラス全員が、その場にいた彼のほうを振り向く。
「……え?」
「僕は、この議論の最初からずっと聞いていた。会話の流れ、使われた言葉の順番、話し方のニュアンス……すべて記憶しているよ」
ユウは落ち着いた声で言った。
「誰がどのタイミングで何を言ったか、整理すれば簡単に分かる。……結論として、この議論の原因を作ったのは、間違いなく池田だよ」
その瞬間、教室の空気が凍りつく。
指名された池田は、顔を強張らせた。
「な、なんで……そんなこと……」
「君は最初に『ポスターから決めるべき』と発言した。その後、西野が『それだとズレるかも』と言ったとき、君は『そんなこと言ってない』と否定した。でも、僕の記憶では、確かに君はその案を最初に口にしていた。証拠として、他のクラスメイトの反応も考えれば、発言の順序は間違いなくそうだった」
淡々と、論理的に。
ユウは「答え」を導き出していく。
──そして、それを容赦なく突きつける。
「もう、言い逃れはできないよ」
池田の顔色が変わる。
「待って……そんな、別に……俺、そんなつもりで……」
焦ったように言い訳をしようとする池田を、ユウはじっと見つめた。
「じゃあ、なぜ嘘をついたの?」
冷静な声だった。
疑うことなく、ただ事実を確かめるための問いかけ。
「……えっ?」
「嘘をついた理由を知りたいんだ。もしかすると、僕が見落としている要素があるかもしれない。教えてくれる?」
池田は完全に追い詰められた。
「……あの……」
もはや、言葉が出てこない。
池田の視線が泳ぐ。
他のクラスメイトも、静かに成り行きを見守っている。
──いや、違う。
みんな、見守っているんじゃない。
「この場の空気」をどうするべきか、戸惑っているんだ。
そして、その沈黙を破ったのは、西野だった。
「……ユウ、もういいよ」
それまで無言で成り行きを見ていた彼が、静かに言った。
「池田が言ったことが本当かどうかなんて、もうどうでもいいだろ。文化祭の準備の話だったんだしさ」
「そうだよ。こんなことで責めても、意味ないよ」
数人がユウをなだめるように言う。
ユウは、その言葉に目を瞬かせた。
「でも……解決していないよ?」
「解決とかじゃなくて、もうこれ以上はやめようって話」
ユウは、一瞬戸惑ったような表情を浮かべた。
彼にとっては、「対立を収束させること」が目的だった。
しかし、今クラスメイトが求めているのは、「正しさ」ではなく「雰囲気を元に戻すこと」 だった。
──そして、ユウはようやく、自分のやり方が「間違いだったかもしれない」ことに気づく。
「……わかった」
ユウは、小さく頷いた。
だが、その瞬間には もう取り返しのつかない不和が生まれていた。
池田は震えるように俯いていた。
西野も気まずそうに視線をそらし、クラスメイトたちは、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。
──何かが、決定的に変わってしまった。
誰もがそのことを感じ取っていた。
「……じゃあ、次の話し合いは放課後にしようか」
誰かがそう言い、形式的にこの場は収束した。
しかし、ユウに向けられる視線が、今までとは違っていた。
*
その日を境に、ユウは少しずつクラスの中心から外れていった。
直接何かを言われたわけではない。
ただ、彼に話しかける人が減った。
ふと教室を見回せば、ユウはこれまでと同じように、クラスメイトと会話している。
でも、そこにあるのは、微妙な距離感だった。
「ユウ、これ、ちょっと手伝ってくれる?」
「いいよ」
いつも通り、穏やかに応じるユウ。
けれど、それに対する反応が、どこかよそよそしい。
「あ、うん……ありがとう」
微妙な間ができる。
それはほんの数秒の沈黙だったが、明らかに「以前にはなかったもの」だった。
文化祭の準備中、何人かが笑い合っている輪の中にユウが加わる。
しかし、彼が話すと、一瞬の間が空く。
「……うん、まあ、それもありかもね」
誰かがそう言って話を続けるが、なぜかユウの意見はあまり深く拾われない。
会話の流れの中で、彼が発言することに、ほんの少しの「ためらい」が混ざる。
それは些細なことの積み重ねだった。
ユウがいる場での笑い声が、どこか遠くなっていく。
──クラスメイトたちは、「ユウを避けているわけではない」。
それでも、以前と同じ空気は、もうそこにはなかった。