第7話 王妃
王妃は執務室の椅子に座り、今日も国政の書類に目を通していた。
国の動きは常に彼女の手元にあり、病に倒れた王の代わりに国を治めるのは、彼女にとって当然の役目であった。
彼女は有能であり、国政に関する知識も豊富だ。
しかし、最近の政治情勢は徐々に厳しさを増し、息苦しさを感じることも増えてきた。
反抗的な諸侯が増え、小さな法令を守らせるのにも一苦労なのだ。
明らかに王家の力は弱まっている。
原因はわかっている。
王の義理の弟である将軍が一枚かんでいるに違いないのだ。
諸侯の中には王の代理である王妃ではなく、将軍のもとにあいさつに行く連中が増えている。
なんともやりきれない。
国を治め民を安らかにするのが王家の責務だというのに。
王妃が息をつき、目を休めるために視線を窓の外に向けたとき、訪問者が扉を叩いた。
王妃に仕える家臣の中で、彼女が最も信頼する侍女、ロザリナであった。
ロザリナは王妃と同じく西の貴族の生まれで、互いに少女のころから変わらずに仕えてくれている、王妃にとって本当の心の中を明かすことができる数少ない存在であった。
「王妃様、少しお耳に入れておきたい話がございます、今、よろしいでしょうか」とロザリナは慎重な声で言った。
「どうぞ、ロザリナ、あなたの言葉ならいつでも聞くわ」と王妃は優雅に手を動かして話を促した。
ロザリナは周りに聞き耳を立てる者がいないことを確認すると王妃に近づき小声で言った。
「西の伯爵領に非常に聡明で善良な娘がいるとの噂を聞きました。彼女の名はタリア姫。ブラッグマシュ家の三番目の娘で、噂ではその聡明さと美徳から『西の明星』と称されております。領内の人々から非常に高く評価されているとのことです」
「『西の明星』?」
王妃は眉をひそめた。まさか明星とは!その大げさな呼び名が意味するところに興味を引かれつつも、同時に慎重な感情が湧き上がった。
「ええと、そして……」
ロザリナは少し言い淀んだあと、王妃に近づき、より一層の小声でささやいた。
「昨晩、わたくしの夢に先祖が現れ、その娘を王妃様の侍女として迎え入れるよう助言を受けました」
ロザリナが下がった後、王妃はそのまま深い思索に沈んだ。
もちろん、最も信頼する侍女の夢を軽視するつもりはなかった。
彼女からは、昔から重要な忠告を受けて、それが常に良い結果をもたらしてきたからだ。
しかし、今回は夢の話とは。
いったい、自分の夢を忠告として王妃に進言する者がいるものだろうか?
彼女の葛藤はそれだけではなかった。
ロザリナの先祖が勧める西の明星とやらをすぐに侍女として呼び寄せることには躊躇せざるを得ない状況があった。
広く豊饒な領地をもつブラッグマシュ伯爵家は西の諸侯の中でも力のある家の一つで、政治的には王妃の実家であるマウントマウス侯爵家とは異なる派閥に属している。
同じ西の貴族なのでやや友好的ではあるものの、突然王都に娘を差し出せと命じ、従わせるほどの関係ではないのだ。
(伯爵家が素直に応じるだろうか……断られれば王家と伯爵家に溝をつくり、王家の力を弱めることにつながる。その娘を王都に呼び出すことは、果たして正しいのか?)
王妃は心の中で自問した。
病床にある王の病は癒えず、体力が失われるのを遅らせることしかできていない。
王妃は国と王家のため、王子が成長するまでの時間を少しでも稼ぐために、進むべき道を慎重に選ぶ必要があった。
(しかし、今の状況はますます厳しくなっている。王座の周りには不穏な動きが多すぎるのだ……)
彼女は心の中で重い息をついた。
数日たっても、侍女を呼び出すことについて、王妃は何度も心の中で決断を揺らして決めかねていた。
念のため人を使って調べたところ、ロザリナの言う通り、ブラッグマシュ家の三番目の子供であるタリアは、たいそう賢く、また善良な娘であるという評判が確かにあった。
領内、近隣で彼女が称賛を込めて『明星』と呼ばれているのも事実であった。
そうでないという評判もあったが、そうだという評判に比べると具体性がなく、悪口のようなものであった。
西の明星が、評判通りの輝ける星だとして、しかしその年齢は若い。
まだ十二歳だというではないか。
そんな彼女に過酷な運命を負わせることができるのだろうか。
それに信頼できる侍女の助言とはいえ、夢の結果を頼りに、呼び出し、召命を断られれば王家の力を弱めるかもしれないという危険を冒していいものだろうか。
果たして、呼ぶだけの価値があるのだろうか。
しかし、ロザリナは、一度も嘘をついたことはなかった。
余計なことを言わぬ賢さがあり、昔からずっと信頼してきた、身分を超えた親友であり姉妹のような存在
であるのだ。
いかにすべきか。
王妃セルビナリカは、悩んだ。
ある夕方。
ふと、王妃は窓の外を見やった。
西の空には山際に太陽が沈みゆく光景が広がっていた。
日が沈むと月が浮かび、そのそばでひときわ強く輝く明星が見えた。
王家の守護神は太陽の神である。
その象徴である太陽が、夕日となり、まるで今の王家そのもののように輝きを失い沈んでいった。そして、訪れた闇の中で美しく輝く明星に、彼女の目は引きつけられた。
「沈みゆく太陽……そして、そのそばで輝く明星……」
王妃は、まるで天からの啓示を受けたように感じた。
タリアこそが、沈みゆく王家を支える存在なのではないか。
彼女が、今ここに来ることで、王家を守る星となりうるのではないか――。
彼女は決心した。
タリアを王都に召し出し、侍女として迎え入れるのだ。
「ロザリナ、書状を用意しなさい。タリアセレステ姫を妾の侍女として迎え入れるための召命を出すわ」
「かしこまりました、王妃様」
そばに仕えていたロザリナは喜んで深々と頭を下げ、もっともよい使者を選ぶべく立ち去った。
王妃は再び窓の外に目をやり、日が沈んだ後の空に浮かぶ月と明星を見つめた。
その星の輝きはなぜだか王妃の心を強く打った。
そして、たとえどのような運命が待ち受けていようとも、彼女は王家を守り抜く決意を固めた。それはまだ幼い王子と生まれたばかりの王女――王の血を引く子供たちを守ることでもあった。
「どうか、その少女が王家を支える星となりますように……」
王妃は星に向かって静かに祈った。
しばらくして、王都にある月の大神殿に、タリアが王妃からの召命を受けたという伯爵領からの報告が伝わった。
「タリア姫が王都に召し出される……」
神官たちは月詠みの儀式を行い、タリアが王都に来ることが吉となるか凶となるかを占った。
結果は、吉凶混合の難解なものだった。
王家にとっては吉運がもたらされるが、タリア自身には恐ろしい災厄の前触れとなる可能性がある。しかしそれは確たるものではなく、結果は闇の中に揺らぎ、見えないのだ。
「王家を救うためには彼女が必要だが、彼女自身にとっては大きな試練が待ち受けている……といったところか」
年長の神官たちは深い皺を寄せながら、やや悲しげな表情でそうつぶやいた。
「まだ十二歳の少女だというのに……あまりにも早すぎる」
「それだけ危機が進んでいるということであろうか……」
神官たちは心を痛めた。タリアの運命を知りつつも、それを止めることができない無力感が彼らを包んでいた。
しかし、運命は避けられない。彼女は既にその渦に足を踏み入れているのだ。
「ソフィア師を王都に呼び戻す手配をせねばなりません」
若手の神官が言った。
ソフィアは教師としてタリアに多くの教えを授けた神官であり、最も近くにいた存在だった。彼女がタリアの運命に寄り添うべく王都に召喚されるのは、必然の流れだった。
「その通りだ。ソフィアには、タリア姫の運命を支える重要な役割がある。王都で彼女を支える準備を整えさせねば」
神官たちは、ソフィアを王都に召喚し、彼女がタリアを守り導く手助けをするよう手配を急いだ。そして、月の女神に祈りを捧げた。
「どうか、タリアセレステ姫にセレネリア様のご加護がありますように……」
月の神殿の神官たちは一夜、夜の祈りの儀式を行い月の女神に一心に祈りを捧げた。
その祈りのささやきは、夜の闇の中で静かに響いた。