第59話 白犬
やるべきことは尽きたかに思え、状況はまさにお手上げだった。
「すこーし、嫌われたようですねえ」
「少しどころじゃないな。国王なのに。ひどいものだ」
「王様の力、使わないほうがよかったかもですねー…」
「…い、いまさらそんなこと言うな」
「すみませんー……」
二人は深いため息をついた。
うなだれる二人の前に、いつの間にか白い犬が寄ってきた。
「おっ、犬だ」
ルチアーノがぽつりと呟いた。
その犬は人懐っこい様子でルチアーノに近づき、ふさふさした尾を振っている。
ルチアーノは自然に手を伸ばし、犬を抱き寄せると、その頭を優しく撫でた。
「白犬は好きなんだよ」
ルチアーノの口元には、少しだけ微笑みが戻った。
白犬は老犬らしく、どことなくよぼよぼとした印象を与えたが、目にはまだ力があり、毛並みはよく手入れされていて美しく輝いていた。首にはしっかりとした首輪がつけられており、野良犬ではないことが一目でわかった。
ルチアーノがその犬をじっと見つめ、微笑み呟いた。
「アルボに似ているな」
「アルボ?」
ケニスが不思議そうに尋ねる。
「ああ。昔、カリナとタリアが飼っていた犬なのだ。賢くて、人懐っこくて、よく舐める犬だったな」
「舐めるんですかー?」
ケニスが首をかしげる。
「そうなのだよ。犬というのは人を舐めるものだ――そのことを余に教えてくれたのがアルボだ」
ルチアーノが微笑みながら語る様子に、ケニスは半ば呆れたように息をついた。
「そんなにですか?」
「そんなになのだ。アルボはすごかった」
ルチアーノはその言葉に肩をすくめながらも、犬の頭を撫で続けた。
「ちょうどこういう犬種で猟犬のはずだったんだけど、人懐こすぎてね。かわいかったな」
白犬はルチアーノの膝に顔を乗せ、安心したように目を閉じた。その姿を見て、彼の胸の中にかすかな懐かしさがよぎる。
白犬は自然体でルチアーノに近づき、警戒する様子もなく親しげに彼の周りを嗅ぎ回り始めた。
足元から始めて、腰、脇腹、わきの下、首筋、そして頭――犬はまるでルチアーノのすべてを丹念に嗅ぎ続けた。
すると、白犬は短く「わん!」と一吠えし、ルチアーノの顔に向かって飛びつき、その口元を激しく舐め始めた。
「おおお!おいおい、やめてくれ、そんなに舐めなくてもいいだろう!」
ルチアーノは困惑しながらも声を上げる。
「なんだなんだ、おいおいおいおい、はっはっはっあははははは」
嫌がる言葉とは裏腹に、ルチアーノの表情は満更でもなさそうで、くすぐったそうに笑みを浮かべていた。
犬の熱烈な歓迎を、ルチアーノは軽く手で押し返してみたものの、白犬はその手をすり抜け、再びルチアーノの口を舐め回し始めた。
「もう勘弁してくれって!あはは、ダメだって、こいつ、あははははは」
そう言いながらも、どこか楽しそうに犬とじゃれ合うルチアーノ。
その様子を見たケニスは、少し離れた場所から苦笑を浮かべていた。
「犬に舐められる国王陛下……なかなか貴重な光景ですねー」
ケニスの言葉を気にする様子もなく、ルチアーノは犬とのひとときを楽しんでいた。
白犬の親しみのこもった行動に、どこか心が温まるような懐かしさが漂っていたのだ。
ケニスは肩をすくめながら軽く笑い、
「だいぶ慕われてますな、陛下……ここの人間にはだめでしたのに」
ルチアーノも笑みを浮かべて答える。
「はは、まぁ、せめて犬だけでも慕ってくれるものがいてよかったな。なぁ、お前はタリアを知らないか?どこにいるか知っていたら教えてくれないか」
彼が白犬に向けてそう問いかけると、犬は短く「わん」と吠えた。
そして、不意にルチアーノから離れ、少し距離を取った。
「ん?」
「どうした?」
ケニスが首をかしげる中、白犬は再び「わん!」と吠え、ルチアーノたちに背を向けると、森のほうへと向かい歩き出した。
「……お、なんだ急に?どこかいくのか?」
ルチアーノは目を細め、白犬の動きをじっと見つめる。
白犬は一定の距離を保ちながら立ち止まり、再び「わん!」と短く吠える。それはまるで「ついてこい」とでも言うかのようだった。
「……何かあるのかもしれませんね。行ってみますか?」
ケニスが呟くと、ルチアーノは白犬の後を追うように歩き出した。
「……いや、まさか、そんなことがあるのだろうか……だが……」
白犬は森へとゆっくり歩みを進めていく。
互いに顔を見合わせた二人は、大人しくついていくことにした。
森の中を白犬の先導でしばらく進んで行くと、広場に出た。
そこには見張りの兵士が一人いて、二人に気づくとこちらに槍を向けてやってきた。
「おい!貴様ら!とまれ!ここは聖地だぞ!誰も近寄ってはならんことを知らないのか!すぐに立ち去れ!」
「我は、この国の国王、ルチアーノ・アルトスペツィオである!誰が我に立ち去れと言うか!」
ルチアーノは戦場にあっては獣人も逃げ出すと言われた威風を放ち、兵士を怒鳴った。
しかし、その兵士は勇敢にも槍を下すことなく「陛下といえどもここは引けませぬ!ここは聖地!どうかお引き取りください!」と応じた。
「わん!」
白犬が短く吠える。
その声に引き寄せられるように、ルチアーノとケニスの視線は兵士の背後へと向かった。
少し離れた広場の中央に、なにかうずくまる人間ようなものが見え、白犬はその足元に駆け寄り寄り添った。
「……あれはなんだ?」
ルチアーノの声には威厳がこもっていた。
「答えよ」
しかし兵士は口を閉ざしたまま、槍を構えた手を緩めることなく、冷たく言い放つ。
「ここは聖地。お引き取りください」
緊迫した空気が張り詰める中、両者のにらみ合いを破ったのは、別の男の低く穏やかな声だった。
「もうよい、槍を下ろしてよい」
声の主が木立の影から現れる。中年の男性で、落ち着いた風格をまとっていた。
「守衛の役目はここまででよい。下がってよい」
男は兵士に優しい口調で告げると、ルチアーノに深く一礼した。
「陛下、どうか失礼の数々をお許しください。この者はただ職務を全うしておりましたもので……」
ルチアーノはその男に視線を移し、冷静な声で応じた。
「ならば、そなたが答えよ。あれは何だ?」
男はわずかに目を伏せ、静かな口調で言った。
「陛下、あれは……ここを守る者にとって、最も大切なものにございます」
ルチアーノはしばらくその男の顔を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「陛下、わたくしはルカ・ラドミールと申します。この知恵の塔の管理者の一人でございます。どうか、これまでのご無礼をお許しください」
そう言いながら、ルカは深くひざまずいた。
「一体、これはどういうことなのだ?あれはなんなのだ?」
ルチアーノの声には、抑えきれない疑問が込められていた。
ルカは少し目を伏せ、ため息をついた後、慎重に言葉を選ぶように話し始めた。
「……実は、我々はタリアセレステ姫から、このことについて陛下に何もお伝えしないようにと固く禁じられておりました」
「タリアセレステ!?」
その名前を耳にしたルチアーノは心臓が水を浴びたように驚いた。
「はい。ですが、陛下がどなたからも何も聞くことなく、ここまでお越しになったことを知り、もはやその約束は果たされたと考えております。ですので、わたくしが知る限りのことを、すべてお話しいたします」
ルチアーノは驚きと戸惑いの中で言葉を失ったが、やがて視線を中央の動かぬ人間へと向けた。
「話せ……すべて」
ルカは静かに語り始めた。
「陛下……広場の中央にうずくまる人間は石像となったタリアセレステ姫なのです」
ルチアーノは驚きに目を見開いた。
「タリアセレステ姫は、闇の魔導士の力を弱めるため、彼の魂の一部をご自身を囮にして捕らえ、封じ込めるという、命を懸けた決断をなさいました。しかし、このことを陛下に伝えないよう、彼女は我々全員に固く誓わせていたのです」
「なぜ、そんなことを?」
ルチアーノの声には悲しみと戸惑いが入り混じっていた。
「一つには、陛下が北へ行き討伐した魔導士の力は非常に強力で、事前に力を削がねば皆の命が危ういと、タリアセレステ姫は予見したからです。二つには、姫が戦後、王国に訪れる騒乱を予見し、陛下がこの事実に囚われることで、国を治める使命に支障をきたすのを恐れたからです」
その言葉に、ルチアーノは言葉を失った。
「そしてタリアセレステ姫を石に封じたのはカラディア殿下です」
「カリナが?!カリナがタリアを封じたというのか?!」
その言葉にルチアーノの表情が揺らぐ。
ルカは静かに頷いた。
「はい。魔導士の魂を封印できるのはカラディア殿下だけでした。そして、その封印を解けるのもまたカラディア殿下だけなのです」
「で、では、なぜ封印はまだ解かれていないのだ?」
ルカの言葉はさらに重く響いた。
「カラディア殿下が魔術師との戦いで魂を傷つけ、大きな力を失われたのはご存じかと思います。彼女は、封印を解く魔力が出せなくなってしまったのです」
「……カリナはあの戦いで皆を救うため犠牲となったのだ……カリナが身を捨てて守ってくれねばあそこで皆死んでいたのだ……」
「カラディア殿下は、これまでに何度もここへ足を運び、封印を解くべく儀式を試されました。月の神殿に伝わる第七位階の浄化の大魔法です。しかし、その試みはすべて失敗に終わりました。なんとしても魔力が足りなかったのです。……殿下は失敗のたびに深くご自分を責めておられました。そして、いまも封印を解くための方法を探し続けておられます」
「……」
ルチアーノはしばらく目を閉じ、深く息をついた。
「石化の封印を解くには、月の女神の魂の器となることが出来る、清らかで特別な魂に莫大な魔力を注ぎ込む必要があります。しかし、それに耐えられる月の巫女の魂は……カラディア殿下の魂が傷ついた今、もう、この地上には存在しないのです」
ルカの声は、悲しみに満ちていた。
「……そうか。カリナは余を裏切っていたわけではないのだな」
ルカはその言葉に、胸を撫で下ろしたようにほっとした表情を浮かべた。
「その通りです、陛下。カラディア殿下は、タリアセレステ姫との約束を何よりも優先されたのです。どうか、殿下をお責めになりませぬようお願い申し上げます……」
「……」
「ソラン殿も、ソフィア殿もまた、同じ想いでございました。どうかお許しいただけますようお願い申し上げます……どうか」
ルカの言葉に、ルチアーノは黙ったまま再び目を閉じた。その表情には、深い悲しみと同時に揺るぎない決意が浮かんでいた。
「許さぬことなどない。すべて余と国を思ってのことなのだから、許さぬことなどあり得ない。……ずっと、みなに辛い思いをさせていたのだな。この件で、誰も責めぬことを約束しよう」
ルチアーノの静かな声には、決意と優しさが滲んでいた。
「はっ……寛大な思し召しに感謝いたします」
ルカは深く頭を下げた。
「……タリアは死んでいるわけではないのか?」
ルチアーノが静かに尋ねると、ルカは曖昧に首を横に振った。
「はい、死んではいません。ただ、生きてもおりません。今は……石となっているのです、陛下」
その答えに、ルチアーノは目を閉じ、深くうなずいた。
「タリアと……話がしたい。」
「承知いたしました」
ルカは立ち上がり、背を向け、衛兵とケニスに目で合図を送る。
アルボだけをその場に残し、ルカ、衛兵、そしてケニスの三人は聖地を静かに後にした。
広場には、石像となったタリアと、その前に立つルチアーノだけが残った。
清涼な風が木々の間を通り抜ける音が響く中、彼はゆっくりとその石像に歩み寄り、そっとその手に触れた。
(タリア、ここにいたんだね、やっと会えたね)
ルチアーノは、タリアの石像の前にひざまずいた。
タリアの石像は、胸を押さえ苦しげな表情をしていた。
(タリア、苦しいのかな、ごめんね、くるのが遅くなって)
ルチアーノはまるで生きているかのようなタリアの肌や服に触れた。
石像とはいっても、見た目はまるで生きているかのようで、不思議なことに、髪や肌だけでなく、着ていた服や靴もその時の色と質をそのままに、ただ、冷たい石となっていた。
(最後に会った時より、もっと痩せてちゃってる。肌の色も悪い。髪も乱れてぼさぼさだ)
(昔、村にいた時はもう少し健康的だったな)
ルチアーノは、タリアを見ていた。
(そもそも、このローブは、村で着てたものだな。王都から逃げる時からずっと着ているね。古いのを何度も縫って使っていた、いつもの上着だ懐かしい)
(ボロボロだ。もっといい服着ればいいのにって、ずっと思ってたんだけどな、まさかここでも着ているとは)
(物持ちがいいにもほどがあるな、タリアらしいけど)
(この左ひじの継ぎ当ては、カリナが練習で縫ったところだ、と、すると、こっちの肩は僕が針の練習をしたところだ、上手くないな、やり直したいって言ったのに)
(でも、それでもいいって言って、タリアはずっとそのままにしていたんだっけな、まだあったのか)
忘れているだけで、それを見ると思い出す。
ルチアーノは、心に湧いてくるすべてのものを受け止めていた。
(タリア、前に西に行ったときに、タリアの実家にも寄ったよ。海も山も美しい、いいところだったよ)
(タリアの父上も母上も、タリアのことを愛していたよ。ずっと待っているって言ってたよ)
(二人ともとても心配していたんだよ)
(僕には言わなかったけど二人は王家のこと恨んでないかな。娘を返してないから……)
(ごめんね、タリア)
(もしもだけど、もしも、タリアが王家にやって来なければ、あのお金持ちの侯爵に愛された娘として、どこかの良家の子息と縁組して幸せになっていたんだろうね)
(タリアはきれいで賢いから、どこに嫁いでも愛されたろうな)
(こんな、どことも知らない山の中で石になることなんてなかっただろうね)
(もしも、タリアが王家に来なければ……)
(山で木の実を拾って飢えをしのいだり、裏庭の畑を耕したりもしなかっただろうね)
(冷たい水で皿を洗うことも、ごみを運ぶのも、柿を干すのも、屋根の修理も壁の養生も、何もかもやらなくてよかったんだろうね)
(魂を潰すことも、獣人に追われることも、ずっと寒い思いをすることもなかったのに)
タリアの石像の、苦しげに胸を抑える手の先の指を見ると、白く乾燥していて、小さな傷だらけで、それはどうみても田舎の女の手であった。
普段、ルチアーノが王宮で会う貴婦人にこんな手をしている者は誰もいなかった。
(手が荒れてる。昔は薬草を塗り込んでいたね、三人で薬草を摘みに行ったっけな)
(今は、僕の手もカリナの手もきれいになったよ。あれから十年経ったからね)
(ほとんどのことは従者がやってくれるんだ。ご飯の支度も、薪拾いもしなくなったよ)
(タリアは、ずっとここにいたんだね、あの時のままでずっと)
ルチアーノは、自分が泣いていることに気が付いていなかった。
(ごめんよ、タリア。ごめんよ)
ルチアーノは冷たい石像の前にうずくまり抱きしめた。
(タリアがこんなになるまで頑張ってれたのに、僕は何もできないよ。ごめんよ、タリア、ごめんよ)
ルチアーノは声をあげて泣いていた。
(ごめんよ、タリア、ごめんよ)
(何かできることは無いのかな、父上、母上、神様、どうか、タリアを救けてください)
なん粒もなん粒も涙が流れた。
(なんでもします、なんでもしますから、どうか……)
時間を忘れて過ごしたルチアーノは、泣き疲れ、いつしかタリアの石像の横で眠ってしまっていた。
彼はハイランドの聖地で、泣き、願い、祈り、眠ったのだ。
そこでルチアーノは夢を見た。
それは幼き頃に別れた父と母と、美しい女神アリエラが出てくる、温かで優しい夢であった。
その夢の中でアリエラはルチアーノに秘密の魔法を教えてくれた。
朝日が目に入り、目を覚ました時、彼は自身が今まさに神からの啓示を受けたことを知った。
彼は山際から登る朝日に拝礼をした。
「父上、母上、そして我が神アリエラ様、お導きに感謝いたします。ご教授いただきましたことを必ず行います。どうかお力をお貸しください」
そう、はっきりと声に出すと、彼は立ち上がった。
「アルボ、もう少し待っていてくれ。方法がわかったんだ。必ずご主人様を救うから」
ルチアーノは、一晩中、側にいてくれたアルボにそう言うと、急ぎハイランドを去った。




