第51話 知恵の街
タリアとアルボの旅は、村を離れてからゆっくりとした歩みで始まった。
途中、各地の月の神殿を訪ねながらハイランドへと向かった。
月の神官たちはどこでも温かく迎え入れてくれ、宿を提供し、彼女の疲れた心と体を癒してくれた。
夜の祈りに参加しながら旅を続ける日々は、タリアにとって月の女神セレネリアに仕える喜びを改めて実感させるものだった。
ハイランドがある、高い山の深い森に入ると、険しい山道が彼女たちを待ち受けた。
難所をどう乗り越えるかと頭を悩ませていたところ、偶然にも親切な商人たちの一団に出会った。
彼らは食料品や薬草、布地などを運んでおり、犬を連れて東国から来た旅の神官を気の毒がって、荷馬車に乗るように勧めてくれた。
タリアは迷わずその申し出を受け、彼らと共に山道を進むことになった。
「旅のご無事を祈りましょう。月の女神に見守られていますように」と、商人のひとりが言うと、タリアは心から微笑んだ。
「ありがとうございます。月が私たちの道を照らしてくれるでしょう」
商人たちとの道中では、街道沿いの噂話や商いの秘訣などが語られ、お返しに、タリアは月の女神の祈りの言葉を美しい声で歌ったりしたため、たいそう喜ばれた。
そして彼女たちは、深い森を抜けた先でようやくハイランドの街の入口にたどり着いた。
ハイランドは、まるで秘められた宝石のような街だった。
街全体が深い森に囲まれ、さらにその奥にそびえる高い山々に守られている。
秘密の街として知られるこの場所だが、それなりに外部との往来はあり、学術の街として知識を求める者や商人が足を運ぶ活気も感じられる。
街の中央にはいくつもの高い塔がそびえており、それらは防壁に囲まれていた。
この塔には、この国最大の量と言われる古今の貴重な蔵書が収められており、それらの管理を担うのは街を支配する魔導士たちだった。
塔に立ち入ることができるのは、厳しい条件を満たした許可された者だけだと聞き、タリアはその神秘的な景観に心を奪われた。
「なんて不思議な場所……必要なものが見つかるといいのだけど」
タリアは小声でつぶやき、心を引き締めた。
商人たちに礼を述べて別れると、彼女は月の神殿を探して歩き始めた。
商人から聞いた場所に向かい、月の神殿に到着した。
入口には小さな花壇があり、夏の日差しを浴びるよう白い百合の花が並んでいた。
月の女神セレネリアが好む花である。
タリアはその佇まいに少し安心しながら、中に入り神官に挨拶をした。
「タナと申します。グンマ―から参りました。師匠の名前はソファーです、ソファー」
軽く頭を下げると、神官は不思議そうな顔をした。
「ソファー師ですか、珍しいお名前ですね。椅子みたいです」
「ええ、ほんとに。椅子みたいですね、うふふふ」
タリアは笑いながら答えた。実は、以前、謹厳な師匠ソフィアの名前を咄嗟に「ソファー」とごまかしたことがあり、それ以来、親しみを込めてそう呼ぶのが癖になってしまっていたのだ。
「では、タナさん、何日くらい泊まるおつもりですか?」
「ええ、実は、この街で調べものがありまして。長く滞在したいのですが、この神殿の神官長様に相談させていただきたいと思っています」
神官は快く頷き、神官長が知恵の塔に出かけていること、夕方には戻るだろうことを教えてくれた。
そして、寝所や井戸、台所の場所を案内しながら、薪や犬の扱いについて簡単な説明をした。
「アルボ、大人しくしているのよ」とタリアは愛犬に言い聞かせながら寝所へ向かった。
寝所には十二のベッドが並び、その半分ほどに荷物が置かれている。空いているベッドを選び、荷物を置くと旅の埃を落とすために井戸へ向かった。
井戸で水を汲みながら、タリアは暑さに汗ばんだ服と下着を洗い始めた。
かつては魔法で簡単に済ませていた作業も、今では手で地道に行わなければならない。
魔法を使うことに対する不安が彼女の心を支配しているのだ。
(どのくらい魔法が使えるのかわからない……たくさん使えるかもしれないし、一度使えばまた魂が壊れてしまうかもしれない。安全に試す方法を見つけなくちゃ……)
洗濯をしていると、他の神官たちが井戸に集まり、タリアに話しかけてきた。
その会話の中で、この街には蒸し風呂屋があると聞いたタリアは驚いた。
(サウナがあるの?!)
さすが学術の街である。
ここには大都市でもないと見つからない蒸し風呂屋があるのだという。
タリアは、蒸し風呂に入って、限界まで我慢して、その後に冷水風呂に入るのが大好きだった。
まさか、ここにあるとは!
タリアは急いで場所を聞き、洗濯をそこそこに切り上げると、教えてもらった場所へと向かった。
蒸し風呂屋は小さいながら清潔で心地よい場所だった。
(さすが学術の街、進んでいるわね……)
銅貨三枚という手頃な価格で利用できるのも良かった。
そして冷えた甘い瓜も銅貨二枚で売られていた。
それを堪能したタリアは蒸し風呂屋を後にした。
(また行こう。明日も行こう。ここに来て本当に良かったわ)
タリアは心から満足し、神殿へと帰路についた。
山の向こうに夕日が沈めば、夜空には金星が輝き出すだろう。
穏やかな夕暮れを迎えていた。
ハイランドでの初日は、タリアにとって非常に良い印象を残すものだった。
静かな月の神殿に戻ると、最初に挨拶を交わした女神官が笑顔で声をかけてきた。
「タナさん、神官長が戻っていますよ」
タリアは感謝を伝え、奥へと進む。
祈りの間に入ると、姿勢の良い女神官が静かに祈りを捧げている後ろ姿が目に入った。
「失礼します、お初にお目にかかります。タナと申します、本日やってまいりました」
タリアが丁寧に頭を下げると、女神官は振り返り、穏やかで温かな笑みを浮かべた。
「ようこそいらっしゃいました、聞いていますよ。お師匠はソファー様だそうですね、遠くから大変でしたでしょう、はっ」
「……はっ?」
お互いに顔を見つめ合う。
「……久しぶりです。覚えていませんか?」
思いもよらない言葉に、タリアは驚いた。
記憶の奥から蘇るその顔。
当時はまだ王妃付きの侍女だったタリアが、行事の相談でソフィア大神官に会いに行っていた際、何度も顔を合わせていた女性。
彼女は王都の月の大神殿で幾度も目にしていた、ソフィアの妹弟子で、タリアにとても優しくしてくれていた……
「もしや、ヘレナ様でございますか……」
タリアがその名を口にすると、女神官は喜びながら深く頷いた。
「そうよ、タリア……。ああ、よかった。私たちがどれほど心配していたか……本当によかったわ……」
ヘレナ神官長の温かな言葉に胸が熱くなりながらも、タリアは促されるまま神官長の部屋へと足を運んだ。
神官長の部屋は、質素な木製の机があり、棚には古い書物や巻物が整然と並んでいた。
小さな燭台をともす。
「話をしましょう、お互いに」
ヘレナ神官長が微笑みながら言う。
彼女の話によると、タリアたちが王都を脱出した後、ソフィア大神官をはじめとする王家と親しかった神官たちは、大事をとって西国の神殿へと身を移していたという。
みな無事であり、その後、タリアたちの行方を懸命に探していたが見つからなかったそうだ。
「私たちは、月や星の中にあなたの行方を追い求めていましたし、各地の月の神殿にも人をやって探したのですが、ついに見つかりませんでした。そして、ある星観の神官が苦労して、このハイランドにあなたが現れるかもしれないということを突き止めたのです。それで、あなたを知っている私がここに赴任してきたというわけなのよ」
さらに、東国軍を率いるルチアーノ王子が、ギーフ伯爵領で将軍の軍と対峙していることも語られた。
「もしやと思って、各地の神殿にソフィアを師とする神官が現れたら協力するよう、ひそかに手を回していたのよ」
その言葉に、タリアは驚きを隠せなかった。
「そ、そうなんですか?」
「それが……まあ、ソファーとはね。似ているけれど、その名前じゃ報告は上がってこないわね」
ヘレナ神官長はくすくすと笑った。
「ねえ、タリア。知っています?ソフィアお姉さまは、椅子呼ばわりされるのをとても嫌っているのよ」
タリアの顔が青ざめる。
「えっ!そ、それは……まずいでしょうか」
「うふふふ。ええ、まずいでしょうね。でも、大丈夫よ。言わなければばれないわ。むしろ、その慎重さのおかげでここまで無事に来られたのだから」
タリアは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。でも……椅子呼ばわりをしていたわけではなくて、ただ……その、すみません」
「ふふふ。あとは、この街にも将軍派の手が伸びているかもしれないから、くれぐれも気を付けてね。しばらく椅子呼ばわりは続けるしかないわね」
「……はい」
話が一区切りついた後、ヘレナ神官長はタリアに真剣な眼差しを向けて尋ねた。
「悪の発見の祈りは使えるのかしら?いま、あなたは魔法を何も使っていないでしょう。どうかしたの?」
その問いに、タリアは少し迷った後、すべてを打ち明けることを決意した。
自分の魂が一度砕けたこと。
ルチの祈りで回復したものの、魔法の力は以前のように使えないこと。
セレネリアの魂のかけらをカリナに授けたため、今は自分には何の力もないこと。
そして、最後に悪魔を召喚しようとしている魔導士を探すために、このハイランドを訪れたこと。
ぽつぽつと話すタリアの話を聞き終わるとヘレナ神官長は涙を浮かべていた。
そして、深く頷き、静かに言った。
「本当に、よくやってくれたのね。ありがとう。本当にありがとう」
そう言うと深く首を垂れた。
「わかったわ。もちろん協力するわよ。知恵の塔の魔導士や古文書が目的なのでしょう?月の神殿の力を存分に使いなさい。そして、あなたが出かけるときは、私か、腕の立つ護衛を必ず同行するわ。ただし……」
「ただし?」
「この神殿から、あまり出ないようにしてね。大丈夫よ、必ず将軍派から守るから安心しなさい」
あまり、というのはどの程度なのだろうか。おそるおそるタリアは聞いてみた。
「えっと、その、あの……蒸し風呂屋とかも、だめなのでしょうか?」
「蒸し風呂屋……?いいわけないでしょう。あんな無防備でたくさん人が出入りするところに行かせられるわけがありません。絶対に一人で行かないように」
「……はい」
あまりにも残念そうにするタリアを気の毒に思ったのか、蒸し風呂屋の件は何とかするよう考えてくれるとは言ってくれた。




