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第45話 結界

再びタリアが目を覚ましたのは、夕方だった。


窓から差し込む赤紫の光が部屋を満たし、辺りは静まり返っている。

タリアはゆっくりと体を起こし、明り取りの窓へ近寄った。

東の空には満月が登り始め、その傍らで金星が輝いているのが見えた。


(満月……)


冬空に浮かぶ美しい月に一瞬心を奪われたが、すぐに現実へと意識が引き戻される。


水を飲み、燻製肉を食べる。

食堂から拝借してきた硬いパンとチーズも口にする。

今晩は長くなるのだ。しっかり食べねばならない。


満月の晩、人間の三倍の力を持つ獣人たちの力はさらに倍増する。

手が付けられない強さとなるのだ。


砦を囲む獣人軍の規模は千を超えると推測され、砦を守る千人を下回る兵士では、この夜を凌ぐことは難しい。


おそらく獣人たちは、満月の力を利用し、短時間で砦を落とし、その後に近くまで来ているグンマ―伯爵が率いる援軍をも奇襲しようとしているのだろう。


この状況を打開するには、選択肢はほとんどない。


(司令官は、逃げてもいいと言ってくれたけど、星はこの砦を守ることが大事だと告げたのよ)


獣人たちの咆哮が聞こえる。

それは飢えた獣の渇望をあらわにしたように聞こえる。

今宵彼らは、血の宴を開くつもりなのだろう。

期待に満ちた遠吠えが何度も繰り返された。


(そうはさせない)

(満月で力を得るのはあなたたちだけではないのよ)


彼女は皮の鎧ではなく、荷物に入れていた月の神官としての衣装を身につけ、砦のてっぺんのセレネリア像の前へ向かった。


砦の中を抜けるとき、守りにつく兵士たちと、避難している住民たちが不安そうな顔で集まっているのが目に入った。

誰もが、この夜が最も危険な時であることを理解し、その表情は絶望に染まっていた。


砦のてっぺんにある祭壇についたときは日が沈み、暗く、風は無かった。

タリアは右の空を見て登り始めた満月と側に輝く金星をもう一度見た。


冬の夜の寒さが身に染みた。

目の前に月の女神セレネリアの像が静かに佇んでいる。


タリアは像の前に跪き、深く息をついた。

そして瞳を閉じ、月の女神に祈りを捧げ始める。


その言葉は美しい声で、まるで歌のようにあたりに響いた。


闇を照らし給う、尊き月の女神セレネリアよ。

貴女は、太陽の命の光を受け入れぬ者たちのためにも、

その慈悲深き輝きを惜しみなく与え給う。

闇を恐れる者には癒しを、

光を拒む者には希望を届けられる、

その御存在は光と闇を結ぶ架け橋なり。


貴女の光は、

闇の中にあってなお、静かに煌めき、

神御自身が織りなす美しき布のごとく、

柔らかに、温もりを湛え、

愛しき命を包み込む御衣となり給う。

その輝きは七つの色に分かたれ、

虹のごとき光を放ちながら、万物を守り給う。


ああ、月の女神セレネリアよ。

願わくば、その御衣を広げ、

この地を覆い、災いを退け給え。

七彩の光をもって敵意を拒み、

その崇高なる輝きにて、

邪悪なる力を浄め給えませ。


天高く満ちゆく月よ、

その尊き煌めきと共に、

我らを慈愛の力で護り給え。


──月煌天織虹輝聖結界


祈りを終えた瞬間、光が満ち、天に昇る満月の光が砦全体に降り注いだ。

その光は虹色に輝き、砦を包むように結界を張った。


タリアの全身に強い負担を感じた。

(くっ……なんて重さ……でもここからが本番よ。結界を維持する祈りを続けなくちゃ……)


獣人たちが門を叩き、壁を越えようと攻撃を開始したその時、輝く結界の幕が美しい織物のように砦を覆ったのだ。


敵意を持つ者がその光に触れると、肉体が焼かれ、激痛が襲いかかる。


獣人たちは叫び声を上げ、次々と弾き返されていった。

その光は強大で、獣人たちの侵入を阻み続けた。


獣人たちは悲鳴を上げ、一度光から離れた。

守兵たちは、みな驚き、天を見上げ、周囲を見回し、光の結界を見た。


獣人たちは怒りの咆哮を上げ、何体もその光を越えようとしたが、そのすべての者が身体を焼き、弾き返された。

しかし、あきらめたわけではなかった。


獣人たちは行動は粗雑で野蛮だが愚かではない。


大きな砦を丸ごと覆う、これほどに強い結界が長く持つはずはないのだ。

必ずこの結界は消え失せる。


獣人の軍は、それを待つことに決めた。


その一方で、砦の内部は驚嘆の声に満ちていた。


「奇跡だ」

「神の加護だ」


砦の守将である男爵も、救援軍の司令官であるハルトヴィンも、騎士も従士も、傭兵も民兵も、みな、その奇跡の光を見て感動し、神への感謝を捧げた。


「ハルトヴィン様……」と神官と魔導士がハルトヴィンに近寄ってきた。


「おお、お前たち、見たかこれを、これは奇跡か、なんなのだ。魔法なのか?」

神官と魔導士は顔を見合わせ答えた。


「ハルトヴィン様、我々はこんな魔法は見たことがありません。高位魔法の第五位階の魔法で聞いたことがありません。長老しか知らない第六位階の魔法でも聞いたことがありません。砦の全体を覆い、敵兵の侵入を拒む魔法だなんて聞いたことが無いのです。どんな魔導書にもどんな神殿にもこんな魔法が伝わっているとは聞いたことがありません」


「なんと……では、やはり奇跡なのか、神の……いや、違うな。そんな都合の良い話はない。タナ神官か」

「……タナ神官に違いありません。神の御業に等しい威力の、誰も知らぬ魔法であるならばこれは第七位の魔法です。おそらくは、古から伝えられている秘密の技だと思われます」


「第七位だと?すごいな!なんという力だ」

「恐るべき威力の魔法です。ですが、彼女は、一昨日の戦いで身体だけではなく魂も消耗していました。このような大魔法を使って、彼女の魂は無事なのか心配なのです」


「魂か……今日、見た彼女はひどく消耗していた。どこにいるだろうか」


「砦の上に、久しく誰も使うことが無かったセレネリア神の祭壇があります。そこかもしれません」


ハルトヴィンと魔導士、神官たちが祭壇に向かうと、そこには光に包まれ一心に祈りを捧げ続けるタナ神官の姿があった。


七色の光に包まれたタリアが月の女神セレネリアへ捧げる祈りは美しい歌のようであった。

透き通るような声が、冬の冷たい空気の中に美しく響き渡っていた。


「おお…」

神官が思わず、ひざまずいてしまうほど、そこにはあふれるほど強い神気が満ち、圧倒的な力が行使されているのがわかった。


「これは、なんという力だ……」

ハルトヴィンはこのような光景を見るのは初めてであった。


「なんと凄まじい……いまは、とても手が出せません。彼女の邪魔をすれば神気が暴発し、彼女を大きく傷つけるでしょう」


「どうすればいいのだ?」


「彼女自身がこれをやめるまで、見守るしかありません」


しゅうしゅうと周りの空気が音を立てるほど、強い力が集まっている。


「ハルトヴィン様、この後どうなってもいいように、彼女を寝かせて看護する場所をすぐ近くに用意しましょう。それと、彼女を癒す神官を何人も。わたくしたちもこんな大きな魔法を見たのは初めてです。人の身でこんな大きな祈りの力を受け止めることが出来るのか……彼女の魂がどうなるか、わからないのです」


彼らは、この場所の近くの小部屋にベッドを運び入れ、火鉢を置き部屋を暖め、水も食事も薬も、できうる限りの備えをして彼女の祈りの終わりを待つことにした。


それからも獣人たちは、砦に立ち入ることが出来ず、石を投げたり吠えかけたりしていたが、何もすることが出来ず、防壁の周りをうろつくだけであった。


ついに、日の出が近づき月が沈むと獣人たちが悔しげな咆哮を上げ、森の中へ引き上げた。

それを見届けたように、月神が織りなす美しい七色の結界も役目を終えて消え去った。


砦の中に生色が戻り、人々は歓声を上げた。

兵士は武器を掲げ、民衆は家族と抱き合い生をかみしめた。


タリアの魔法の結界は、北の砦を守り切ったのだ。

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