第44話 北の砦
暖かい──毛皮の柔らかな感触が心地よい。
タリアはそっと瞼を開いた。
目に映ったのは、石造りの天井と部屋を温める火鉢の灯りだった。
(……ここはどこ?)
状況を思い出そうとするが、頭はまだぼんやりしている。
冬の行軍中にこんな暖かな寝床で目を覚ますことになるとは思いもよらず、タリアは軽く驚いた。
「あ……ここは……」
小さく声を漏らしながら、彼女はゆっくりと周囲を見回した。
石造りの壁に囲まれた小さな部屋だった。
中央には火鉢が置かれ、小さな炎が静かに揺れていた。
そのとき、身体じゅうにじわりと広がる鈍い痛みに、タリアは思わず顔をしかめた。
「……っ」
胸の痛みに加え、頭の奥にも鋭い痛みが走る。魔法を使いすぎた後遺症だ。
戦場で高位魔法を立て続けに使ったことを思い出す。
(……耐えきれずに……倒れたのね)
タリアは曖昧な記憶を辿る。
月天光環、聖療月光、月華白清輝霊祈──あの時、次々に繰り出した魔法が身体も魂も容赦なく削ったのだ。
目の前の穏やかな光景は、どうやら辛うじて逃げ延びることができた証拠なのだろうか。
(魔法……まだ使えるかしら)
重い体を動かせないまま、タリアはそっと聞き耳の魔法を発動させた。
目を閉じ、頭の中で静かに音の波をたぐり寄せる。雑音が混ざり合い、やがてそれらが整理され、遠くのかすかな音が耳に届き始めた──。
ほっとした。魂の器は砕けてはいないようだ。
だが、だいぶ消耗しているのは間違いない。
(まだ、何とか大丈夫ね……)
それよりも、外の様子が気になる。
(……剣の音?)
彼女の眉が僅かに動く。聞こえてきたのは、金属のぶつかる音、咆哮、そして怒声だ。
それは明らかに戦闘の音だった。
タリアは明り取りから外を見る。
(ここ……砦の中なのね……でも、まだ戦闘が続いているなんて)
焦りが胸を突き上げる。
周囲を見回すと、ベッドの横の小机には水瓶と、そのそばに丁寧に置かれた自分の装備が目に入った。皮の鎧、弓矢、狩人のおじさんが作ってくれた燻製肉が入った背負い鞄──どれも揃っている。
水瓶を見た途端、自分の喉が渇いていることに気づいた。
手元に置かれた水瓶を取り、一口含む。
冷たく澄んだ水が喉を通り、少しだけ気持ちが和らいだ。
(本当に……ありがたいわ)
そのまま鞄から兎の燻製肉を取り出し、かじった。
塩気のある味が疲れた身体に染み渡る。
しばらく夢中で食べて飲んだ。
「……ふぅ」
軽く息をつくと、タリアは装備を手に取った。
皮の鎧を身につけ、弓矢を背負う。
「腹が減っては戦はできぬって……本当にそうね」
独り言を呟きながら準備を整えると、タリアは意を決してドアを開けた。
外には誰もいない。防戦に出ているのだろう。
窓へ近寄ると、砦を囲む高い壁の上で兵士たちが必死に戦っている姿が見えた。弓矢を構える兵士や、石を落とす兵士だけでなく、防壁の上へやってくる獣人に剣や槍を振るい押し返している兵士も見える。
(司令官……ハルトヴィン様は無事かしら)
弓を握り直し、タリアは魔法の力を引き出して駆け始めた。冷えた石畳を踏みしめ、通路を疾走する。
戦闘は、思っていたよりは激しくなく、なんとか獣人たちを撃退できている様子だった。
タリアはやや安堵しながら、しばらく砦の中を走り、指揮官の姿を探した。
冷たい石の廊下は戦闘の音を遠くから運び、耳には絶え間なく剣戟の響きが届く。
階段を駆け下りながら、タリアは気配探知の魔法を発動した。
心を集中させて周囲の動きを探る。
目を閉じなくても、周囲に漂う生命の輝きが微かに視界を埋めていく感覚だ。
──北の門のあたり。強い気配が密集している。そこにハルトヴィンがいるかもしれない。
タリアは一気に階段を下りきり、門へと向かった。
やがて、彼女は騒がしい門近くの広場にたどり着いた。煙と汗、鉄の匂いが混じる中で、兵士たちが疲れた顔をしながらも懸命に戦っていた。
「押し返せ!一歩も下がるな!」
鋭い声が響く。
その声を頼りにタリアが目を凝らすと、立派な鎧に身を包んだ指揮官ハルトヴィンの姿が見えた。彼は冷静に状況を見渡し、兵士たちに指示を飛ばしている。
タリアが彼に近づくと、ハルトヴィンは目を見開き、驚きの表情を浮かべた。
「タナ神官殿!もう起きられたのか。無理をしているのではないか?」
「大丈夫です、司令官様。それよりも、状況を教えてください」
「だが……あなたは、わが兵たちを救うため、大きな魔法を使ってとても消耗していると神官が言っていたのだ。本当に大丈夫なのですか?」
「ええ、もう、すっかり大丈夫ですよ。ご安心ください」
「それならばよいのですが……」
ハルトヴィンは短く息をつき、タリアを壁際に誘導した。
「こっちで話しましょう。立ち話ですみません。獣人たちは相変わらず押し寄せてきているのです」
タリアは頷き、彼の言葉に耳を傾けた。
「一昨日、奇襲を受けた我々は、あなたの魔法のおかげで持ちこたえ、辛くも獣人どもを撃退し、この砦に退避したのです。ですが、われわれ救援部隊は大きな打撃を受け二割を失ったし、それよりも多くの馬を失ってしまい、作戦行動どころではなくなってしまったのです」
ハルトヴィンは続ける。
「我々はどうやら嵌められたらしいのです。獣人たちは最初の報告で聞いた五百体どころではなく、もっとずっと多かったのです……倒した数を差し引いても、まだ千体以上がこの砦を包囲しています。どうやら五百と少なく見せかけて、援軍をおびき寄せこちらを倒す罠だったようです……」
「そんな…」
「父上の救援軍の本体三千が明日にはここへ着くはずなのです。伝令を出して父上にこの状況を知らせたいが、砦の外は獣人の縄張りです。鼻の利く彼らに見つかれば、伝令は確実に討ち取られる」
ハルトヴィンの目は険しく光った。
「今はただ、父上が援軍を率いてくるのを待つしかない。しかし、援軍が来るとしても明日だ。この砦で踏みとどまるしかないのだが……」
ハルトヴィンは首を振りながら言葉を続けた。
「おそらく、奴らの狙いは今宵の満月なのです」
「あっ……」
「恐るべきことに今晩が満月なのです。満月の光を浴びた獣人は二倍の力を出す。やつらは、満月の力を使い、この砦を落とし、そのあと、父の援軍も打ち破るつもりかもしれない。各個撃破というやつです。最初からそういう罠だったのかもしれない……」
タリアは、彼の言葉に耳を傾けながら考えを巡らせた。
どうしたらいいのだろうか。
「……あなたが目覚めてくれてよかった、タナ神官、昨年に引き続き、またあなたに助けられた」
「昨年?」
タリアは精一杯、不思議そうな表情をしてしらばくれようとした。
昨年の北の砦の戦いで、タリアは女神の加護を与える大魔法を使って、グンマ―伯爵軍を勝利に導いたことがあったのだが、名前を偽っていたし、戦後はさっさと帰ってしまいどこの誰だと追及されないようにしていたのだ。
「私は昨年の砦の戦いも、そこにいたのですよ。タナ神官。ありがとうございました」
口ごもるタリアを見てハルトヴィンは微笑した。
「タナ神官殿、どうか、いまは休まれよ。昼は大丈夫です。いまは獣人も本気で仕掛けてきていません。それに、あなたはとても消耗していると聞いた。あなたの看護をした神官の話では、あなたの……魂はとても弱っていると。強い魔法を無理して使ったからだと聞いている。どうか、休んで欲しい」
「……」
ハルトヴィンはタリアに身を寄せ本当に小さな声でささやいた。
「そして、もし、そんなことが可能ならばだが、あなただけでも逃げて欲しい。ここは死地なのだ」
彼の真剣な声で告げたので、タリアは彼を励ますべく力を込めて言った。
「司令官様、この砦こそが東の要です。ここを落とされるわけにはいきません。わたしは死力を尽くします。どうか、頑張りましょう」
ハルトヴィンは、何とも言い難い表情をタリアに向けた。
「元気をお出しください、女神様がついておりますから」
「ああ、そうですね、わかりました。すみませんでした」
ハルトヴィンの元を離れ再び部屋に戻る前に、タリアは砦の中を歩き回ることにした。
廊下には近隣から避難してきた住民たちがおり、みな疲労し、怯えた目でうずくまっていた。胸の前で腕を組み祈りを捧げる者の姿も多い。
壁際では、手の空いた者たちが防衛のために石や熱湯の準備を進めていた。
(よかった、あった)
砦のてっぺんまであがると、屋根のない小さな円形の場所があり、そこに古びた月の女神セレネリアの像が置いてあった。
(グンマ―伯爵は代々セレネリア様を守護神にしているからあると思ったわ)
セレネリアの祈りの魔法を強く使うのに必要なのは、空なのだ。この場所なら申し分ない。
女神像の近くに、儀式を行うための十分な場所もある。
(女神さまの左手が東、正面の南を見据えている。配置もばっちりだわ、よかった)
タリアは月の女神セレネリアの像の前に膝をつき、目を閉じた。
(女神セレネリアよ、どうか私たちをお守りください……)
祈りを捧げた後、タリアは再び部屋に戻った。
火鉢の炎が揺れる中、炭を足し、彼女は装備を傍らに置き、服のひもを解いてベッドでそっと目を閉じた。
休息が必要だ──次に訪れる激しい戦いに備えるために。




