第36話 月の神官
村の朝は、いつも静かな穏やかさに包まれている。
静かな朝は、神への祈りから始まる。
タリアとカリナはひざまずき、月の女神セレネリアに祈りを捧げ一日を始める。
二人は、正式に師匠と弟子としての契りを交わし、共に学びと修練の日々を送っていた。
カリナはタリアから、月の女神の祈りや祭礼の作法、そして身を守るための魔法を学び、目を見張るほどの速さで成長している。
もう少しすれば、貴族としての礼儀作法も教えねばならない。
覚えることが多いのに、頑張っているように思える。
カリナはルチの件で拗ねたことを謝ってきた日から、とても素直になった。
彼女は幼いながらも呑み込みが早く、何事にも真剣に取り組むその姿は、かつての自分自身を彷彿とさせた。
この様子なら大丈夫だと思い、ある夜、タリアはカリナを呼び寄せて告げた。
「明日は狩りに出るわ」
月の女神セレネリアは狩人の守り神でもある。そのため、地方の神官の中には狩りを行う者も多い。
タリアはソフィアと、ソフィアが連れてきた手練れの狩人から何年も教えを受け、森での狩りの十分な技量を持っていた。
狩りと、それにまつわる山の中で生き抜く術を身に着けたことは、王都から脱出するときにも、いま、この東の地で暮らすことにも大いに役立ったため、カリナにも身につけて欲しいと考え、村の狩人のおじさんとともにカリナを仕込んでいたのだ。
カリナとは何度も一緒に山へ行っているが、九歳にしては筋がよく、村の狩人から弓の腕を褒められることもあった。
また、身体を強くする魔法も覚えたため、山歩きもまず問題なくこなす。
動物を追跡しつつ自らの痕跡を消す技術はまだまだだが、それこそ実地で訓練を行うのが上達の近道だ。
「明日は、私は手を出さないで後ろから見ているわ。カリナ、あなたが自分で獲物を探して、自分で仕留めるのよ。いいわね?」
タリアがつきっきりでいるなら、このあたりの山であれば危険もなく大丈夫だろう。
「わかった」
短く返事したカリナは、少し緊張しながらも楽しみにしている様子だった。
その夜、カリナは念入りに道具の手入れをし、荷物を確認して寝床に入った。
日の出前に家を出て、まだ夜が明けきらぬ森の中を、二人は音を立てずに奥へと進んでいった。
カリナは獣の痕跡を技術で探るだけではなく、「聞き耳」の魔法や「遠目」の魔法を使い、通常では聞こえない音や気配を感じ取りながら獲物を探した。
もちろん、それでいいのだ。
魔法を実地で使うことも訓練の一環だ。
そもそも、そうでなければ九歳の少女が狩りなどできるはずもない。
自らの気配を消し、目標を見つけ、相手に気づかれぬままに仕留める――そうした狩人の技と魔法の技を、カリナに身につけて欲しいのだ。
カリナが念話でそっと語りかけてきた。
(いた。狙うわ)
前方の奥に鹿の群れを見つけたのだ。
こちらは風下だ。カリナは気配を消し、音を立てないようゆっくりと近づく。
じっと息を殺す。
カリナの弓では少し遠いと思ったが、彼女はさっと狙いをつけ、思い切りよく弓を放った。
その矢は見事に鹿の首を貫いた。
群れの他の鹿が一斉に逃げ出し、撃たれた鹿だけが倒れた。
「遠いと思ったけど、よくやったわ」
タリアが笑顔を向けると、カリナは少し照れながら微笑んだ。
カリナはすぐに近寄り、鹿にとどめを刺す。
鹿を美味しくいただくには、すぐに処理しなければならない。
血抜きと冷却のため、急ぎ、近くの川へと向かうのだ。
カリナは体の力を強くする魔法を使い、九歳の小さな身体でよいしょと鹿を担ぎ、河辺へと向かった。
あと何度か一緒に行けば、一人でも狩れるようになるだろう。
……獲物を察知できるようになれば、自分を狙う敵を察知し、身を守れるようになるだろう。
それこそが、真に彼女に身につけて欲しいことなのだから。
もう少しだ。
ソフィア先生がそうしてくれたように、自分がカリナに生きるための力を与えるのだ。
ここ数年を村で過ごしたタリアの神官としての働きに喜んだ村人たちが、タリアたちが住んでいる木こりの小屋の隣に、少し大きめの小屋を建ててくれた。
そこは祠と呼ぶほどのものではないが、ぎゅうと詰めれば三十人ほど入れる広さの建物で、奥には月の女神セレネリアの小さな木像が作られて置かれていた。
木像は村で一番器用な男が彫ってくれたたもので、なかなかよいお表情をしている。
そこは、タリアや村の人々が祈りを捧げたり、タリアが女神の教えを話したりする、小さな祠と集会場を兼ねたような場所となった。
そして、そこで、タリアはカリナに月神の儀式や祈りを教えるようになった。
月神の祈りは歌のように美しいものが多いため、二人が練習をしていると、村人がその様子を見に来て聞きほれていることもあった。
さらに、歌の祈りに聞きほれた村人の中で器用な者が、二人のために楽器を作ってくれた。
それはシトールと呼ばれる木製の弦楽器で、小さくて抱えて鳴らす四本の弦を持つものだった。
カリナは神官のたしなみとしてソフィアから少し楽器の手ほどきを受けていたため、この素朴な楽器を喜び、すぐに使えるようになったし、もちろんカリナの一緒に練習を始めた。
二人は仲良くシトールを奏で歌い、その様子がまた村人たちを楽しませた。
音が出るようになると、新しい曲を演奏したくなるものだ。
タリアは少しだけ「インチキ」をして、日本で星空だったころに覚えた楽曲をアレンジし、カリナに教えた。
それは名曲と呼ばれるクラシック音楽や、大ヒットした歌謡曲をもとにしたものだったため、当然のようにカリナの心を打った。
異世界の名曲とは知る由もないだろうが、タリアから聞く楽曲の数々を、練習するのも演奏するのも大好きになったので、カリナは暇さえあればシトールと歌の練習をして、村人たちの前でそれらを披露することも増えた。
それは娯楽の少ない村人たちを喜ばせ、近隣の集落からも二人の歌を聞きに来る者が増えるほどだった。
このシトールの練習とそれに合わせて歌うことは、のちのちまで二人の心の癒しとなった。
癒しと言えば、二人は犬を飼い始めた。
近くの集落で生まれた子犬を分けてもらったのだ。
タリアは、いつ村を離れることになるかわからないため犬を飼うことに反対したが、カリナはルチがいなくなった寂しさもあったのか、どうしても飼いたいとねだった。
カリナがこれほど強く執着したのは初めてだったので、タリアも了承せざるを得なかった。
犬の名前は、カリナが「アルボ」とつけた。
白い毛を持つアルボは賢く、カリナとタリアによく懐いた。
猟犬の血を引いているとのことで、カリナは狩人のおじさんに教わりながら一生懸命しつけを行い、狩りを仕込んでいった。
アルボはカリナにとって弟のような存在となり、大切な家族の一員となった。
ある晩、村の老人が天へ旅立ったため、タリアとカリナは神官として葬儀の儀式を行うことになった。
タリアは厳かな面持ちで儀式の準備を整え、カリナもその横で一心に準備を手伝っている。
「はじめるわよ」タリアが静かに告げると、カリナは真剣な表情で小さく頷いた。
月神の葬礼の一つで、夜に行う死者への弔いの祈りである。
この夜は二人で儀式を執り行うことになった。
タリアはかつて師のソフィアから学んだように、月の女神の教えを、今こうしてカリナに伝えていることに満足を覚えていた。
二人は村人たちに見守られながら祭壇の前に立ち、タリアの合図に合わせて穏やかで清らかな歌声を響かせ始めた。
魂は天へと還りゆく
輝く星の間に眠り
涙は拭いて 静かに見送り
女神はやさし 安らぎ授けむ
夜空に響く祈りの調べ
新たな命宿るところ
月の光に抱かれながら
愛しき人のもとへ還りぬ
もしや その身の願い叶わば
魂はまた 星降る夜に
そなたの側に姿を変えて
変わらぬ月が 道を照らさむ
待ちわびる者の夢に宿り
やさしき光巡り往かむ
女神の腕に 抱かれて眠る
新しき魂いざ旅立ちぬ
二人の歌声は、小さな祠いっぱいに広がり、夜空の星々へと届くかのようだった。
村人たちはその美しい歌声に心を奪われ、ただ静かに耳を傾けている。
亡き人の魂が安らかに旅立てるようにと祈りを込め、タリアとカリナは天へと想いを捧げた。
歌が終わると、村人たちの間から静かな感嘆の声が漏れた。
タリアとカリナの歌声は村人たちの心に深く刻まれ、彼らは二人の美しい祈りに感謝の言葉を述べた。
そのようにして、ルチが村を離れ、タリナとカリナが師弟として修行をして過ごし始めて三年ほどが経っていた。
タリアとカリナが日々を過ごす村に、静かな秋が訪れようとしていた。
カリナはタリアより十二歳年下で、この秋に十一歳となる。
カリナはだいぶ大きくなり、幼さは消え美しい少女へと姿を変えていた。
彼女はタリアの教えを受け、強く賢く育っていた。
また、タリアが彼女を愛するように、カリナもタリアを深く愛してくれていて、二人はまるで本当の姉妹、時には母娘であるかのように過ごしていた。
このまま、何事もなく暮らせればどんなに幸せかと、思うこともあったが、タリアはそれを忘れたことは無かった。
この秋、タリアの胸には重い予感が広がりつつあった。
数ヶ月前の春に夢の中で見た光景がある。
予知夢の中では、陽が射さずに枯れかけた畑と、色を失った果樹が映り、さらには夏の嵐で地に散らばる実が無残に転がっていた。
さらに、何度も星観を行う中で、タリアはこの秋冬に飢饉が起こる可能性があることを読み取っていた。
危惧の通りなら、この秋の収穫は少なく、村人たちは冬の備えに不安を募らせるだろう。
タリアはひとまず村や近隣の村に備蓄を進めていたが、ふと忌まわしい記憶が蘇った。
今から何年も前のこと――王国を襲った大不作で、大規模な飢えた獣人たちの襲撃があった。
いくつもの村が壊滅し、多くの人々が犠牲となった時のことだ。
飢饉で苦しむ村を、北からやってきた獣人たちが容赦なく村々を荒らし、糧を求めて人々の生活を破壊していった。
「どうか、あの時のような惨劇が再び訪れませんように」タリアは心の中で祈っていた。
ある秋の夜、タリアはカリナを伴い夜更けに村のはずれにある小高い丘で星観をした。
天を仰ぎ、無数に輝く星々をじっと見つめる。
星たちは物言わぬ光の中で、未来の兆しを教えてくれる。
タリアはカリナと共に静かに目を閉じ、息を深く整え、月の女神に祈りを捧げた。
目を開いたタリアの瞳に、夜空の星々が鮮やかに映り込む。
ふと、星座のひとつがいつもと違う色で輝き、異様な光を放っているのに気づいた。
その光こそは、北からやってくる獣人を示すものだった。
いくつもの無数の星が見えた。
今までの星観では見えなかった兆しが現れてしまったのだ――凶兆である。
タリアは、荒野を駆け、谷を飛び、山を越え、何もかもを食い荒らしながら迫ってくる獣人たちの群れを想像した。
かつてタリアは一度だけ獣人と戦ったことがある。
その時は一体だけだったので、とっさに放った稲妻の魔法で倒すことができたが、もしあの強さを持った人食いの獣人が何十、何百も一度にやってきたら……。
タリアの胸が不安で高鳴る。
(また来るのね……どうしよう……)
星空を見つめたまま考えを巡らせる。
カリナを守らねばならない。
それに、貧しいながらも温かく迎えてくれた村も守りたい。
守るのか。
それとも逃げるべきか。
隠れるのか。
戦うのか。
星は道を示すが、どの道を行くか決めるのはタリアだ。隣でタリアの星観を学ぶカリナが、心配そうにタリアの表情を見つめていた。
タリアは大きな不安を胸に、さらなる兆しを探して、星空を見つめ続けた。




