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第34話 東の明星

「旅の神官」がリヴァゲイト城を去って間もなく、城の執務室に三人の男たちがいた。


侯爵と、侯爵家筆頭魔術師のアバド、そして太陽神殿の神官ソランである。


侯爵は、腕を組んだまま窓の外に目をやり、どこか遠くを見つめている。


アバドが静かに口を開いた。

「侯爵様、旅の神官殿は城から去りました。馬も馬車も断り、ただ歩いて去っていかれました」


「そうか……」

侯爵の短い返事に、執務室には再び沈黙が訪れた。


しばらくして、侯爵が振り返り視線をソランに移す。

「見事なものだな、あれが……『明星』か?」


ソランは軽く肩をすくめ、困ったように微笑を浮かべる。


アバドが間に入るように言った。

「侯爵様、あまりソラン殿を責めないでくだされ。その方の素性を秘密のままにすることを条件に来ていただいたのですから。そして最良の結果となりました。彼女をここに連れてきてくれたことに感謝するのが筋でございます」

アバドは控えめな口調で言った。


「責めてはおらんだろう、聞いただけよ。だが、ふむ、そうだな……ソラン殿、礼を申す。だが、あの女、どうにも不思議でな。馬鹿なのか、それとも欲というものがないのか……」


「それはまぁ、たしかに」アバドがつぶやく。


「てっきり、将軍を討つための軍でも求めてくるかと思っておりましたが……そうしませんでしたな。領地も資金も兵も望みませんでした」


侯爵は険しい表情を浮かべ、再びアバドに目を移す。


「それどころか、名を隠したまま、来た時と同じく静かに去って行った。望みとして頼まれたのは、例の少年に教育をつけてやって欲しいというだけ。軍でも領地でもなんでも望める立場であるのに……侯爵の跡取り息子の命はさほどのものだと思ったのだろうか」


侯爵は再びソランに尋ねた。

「ソラン殿、あの儀式は、容易(たやす)く行えるものなのか?」


ソランは頭を振り、神妙な表情で答えた。


「まさかご冗談を。あの儀式は決して容易いものではございません。あれは、月の神殿にひそかに伝承されてきた、(いにしえ)の聖人が使ったことのある大呪文で、第七位階の魔法と聞いております。まず、その呪文を伝授されること自体が特別な者である証なのですが、第七位階の魔法は誰もが扱える代物ではなく、特別な才能が無ければ発動しないものなのです」


アバドも口を開く。

「さようです。第六位階以上の魔法には、通常の人の魂には、耐え難い重さや大きさがあるのです。そうした強力な魔法を扱うには、強靭で大きな魂を天より授かっている者でなくば、身がもちませぬ」


ソランは、さらに説明を重ねた。

「もし、自らの魂の器に見合わぬ魔法を扱おうとすれば、魂が砕かれ、心を病んだり狂ってしまうことさえあるのです。最悪の場合は死んでしまうこともあります」


「では、あの女は……それを成し遂げたのか。そんな魔法を成就させ、領主の息子の命を救ったというのに何も望まぬということが理解できん」侯爵が目を細め、二人に問いかける。


アバドが神妙に応じた。

「彼女はあらん限りの力を振り絞り、身も心も投げ打つようにして祈りを成就させたように見受けました」


「わたくしにもそのように見えました」ソランが続ける。


「あの儀式が終わると同時に、彼女は力を使い果たし意識を失うほどでした。心臓の鼓動も弱まり、儀式を見守っていた神官たちが駆け寄り、回復の祈りを捧げて、何とか持たせたのです」


「息子も危うい状態であったが……あの場では、彼女もまた危険な状況だったというわけか」侯爵が口元に手を当て、考え込むように視線を落とした。


「その通りです」アバドは侯爵に深く頷いてみせた。


侯爵は再び窓の外を眺めながら、静かに(つぶや)いた。

「命を投げうつような危険を冒して、息子を救ってくれたのか。……西の明星が。なぜだ」


しばらく黙ったまま考え込んでいたが、やがてアバドが口を開く。

「明星タリアセレステ様は、かつて、王と王妃の命を守り続けた、ブラッグマシュ家の姫でしたな」


「たしか十二歳で王妃の侍女となり、それから何年もの間、王妃派として将軍派の謀略を防ぎ続け、あまりに手を焼いた将軍が反乱の暴挙に出ざるを得なくなったという話だ。いまだに将軍は彼女の首に、それに等しい重さの金貨を賞金としてかけていると聞く」


「それも道理かと」アバドが言葉をつなぐ。


「将軍は彼女の働きで、正式に王位を得ることが叶わず、無理を押して王位を奪うしかなくなりましたからな。その結果、将軍派は簒奪者の汚名を受け、中央の支配はいまだに不安定で、西の諸侯からは完全に敵対視され、東の諸侯からは無視されている有様です」


侯爵は腕を組んだまま低く笑った。

「そして、王の血統はいまだに隠され、生き残っているのだから、将軍派は落ち着かぬことだろう」


アバドも微かに笑みを浮かべる。

「そうであるならば、あの姫君が馬鹿であるわけがありません。若くしてこれほどの(わざ)を成した人物ですから、知恵も胆力も並外れているに違いありません。侯爵様にあの場で優雅に挨拶を返す姿など…あの威圧の中で平然としておりましたのは……さすがです」


侯爵は笑みを浮かべ、満足げに頷く。

「他の者であれば、立ったままの礼など思いもよらず、ひざまずくのが当然だろう。だが彼女は涼しい顔で、あれほどの礼を返してきた。いやはや、憎らしいほどであったな。さすがは西の雄、ブラッグマシュ家の出だな……」


「ふふふっ、そこまで侯爵がお認めになるとは珍しい。ほだされましたかな…」


「何を言うか、ほだされてなどおらん。ただ、あの女が示した力と勇気、そして…清らかさに……我が心が少しばかり動かされただけだ」


アバドが「ほだされた」と言ったのは侯爵がタリアに別れ際に言った「必要な助力があれば、我が力を惜しまぬつもりでいる」という言葉のことであった。


それは大領主として重い意味を持っているのだ。


侯爵はとりつくろった。

「それに、我が言葉はただの旅の神官に向けたものだ。タリアセレステ姫に向けたものではない、そんなものはいない、そうだな、ソラン殿」


「はっ、ただの旅の神官殿でございます、侯爵」とソランは胸に手を当て(うやうや)しく答えた。


侯爵は重々しく一つ息をついた。

「あの少年、モチと名乗っていたが……あれは見どころがある。頼んだぞ、アバド。彼をしっかり鍛えてやってくれ。ソラン殿もだ。そなたたちの知恵と力で、あの少年にふさわしい教育を施してやってほしい。それが彼女との約束だ」


「承知いたしました」アバドとソランは揃って返事をした。


「指導する騎士はどなたを?」


「ラーズロに任せるつもりだ」


侯爵の弟のラーズロ子爵は、剛をもってなる東国騎士の中で名が轟く勇猛で高潔な騎士である。


「なるほど、確かにこの上ないご人選です」

アバドとソランは承服の意を示して頭を下げ、執務室をあとにした。


侯爵は再び窓の外を見つめた。

その視線の先には、すでに見えなくなったタリアの背中が映っているようでもあった。


「明星は(あずま)空にも輝くか……」


誰に言うとでもない、その声は低く、執務室の中にゆっくりと溶けていった。

タリアの賞金額の金貨が首の重さと同じくらい 金貨1枚は10万円くらいの価値だと考えてください。


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