第33話 帰路
タリアがゆっくりと目を開くと、なめらかでいい香りがする寝具が肌に優しく触れ、自分の顔に暖かな陽光が微かに差し込んでいることに気づいた。
上質なベッドに、繊細な刺繍が施されたシーツ、やわらかな枕が揃い、山間の極貧生活で長く忘れていた心地よさが彼女を包んでいた。
もう何年もこうした寝床で朝を迎えることなどなかったが、贅沢な安堵感を再び味わい、彼女は自然と薄い微笑を浮かべた。
ふと、手のひらで寝具の柔らかな感触を確かめながら、儀式での出来事を思い出し始める。
あの夜、彼女は「月天蒼光浄祓詠」を唱え、全身全霊を込めて侯爵の息子キヴァーローヒュの呪いに挑んだ。
しかし、その呪いは尋常な力では解けるものではなく、結局、タリアの魔力だけでは限界が訪れ、彼女はルチの太陽神の加護にすがることとなった。
(やっぱり……力が足りないんだわ)
彼女は胸の奥でつぶやいた。
自分の魂が不完全であることは、セレネリアから聞いていた。
ようやく人間の形をとれるくらいのちっぽけな魂に過ぎないことを、あの瞬間に改めて痛感した。
多くの魔力は備えていても、魂自体が小さいのだ。そのため神々の大いなる力、真に必要な強さを発揮することができなかった。
自分には足りない力。
それは、ルチとおそらくカリナに備わっている。
やはり、二人こそが、神々の希望で、この国の未来を切り開くための存在なのだ。
そして自分は、その道を指し示すために呼ばれてきたのだ。
その時、部屋のドアが開き、ルチが飛び込んできた。
「タリア!」彼は満面の笑みを浮かべ、勢いよく彼女に抱きついた。
愛おしい気持ちがこみ上げる中、タリアは軽く彼の背中を叩いた。
「おはよう、ルチ。今は……?」
「今日で二日目の朝だよ!」ルチはすぐに答え、嬉しそうにタリアを見つめる。
「タリアはまる一日寝ていたんだよ、体は大丈夫?おなかは空いてない?何か持ってこようか?」
矢継ぎ早に尋ね、タリアが思わず微笑むほどの勢いで心配してくれる様子が伝わってくる。
彼の幼さと成長の兆しが重なり、彼女の胸は温かな切なさで満たされた。これから彼に何を託すべきかを考えた時、その重みが胸を押しつぶしそうであった。
ふと、タリアは気がついた。村から着てきた服が清潔な肌着に替えられている。部屋の隅には、以前の服が丁寧にたたまれて置かれていた。
ルチもまた、侯爵家から与えられた上質な簡素な服を身にまとっており、まだ幼さは残るものの、品格のある若き貴公子の風格が漂っていた。
見つめるタリアの視線に気づいた彼は照れくさそうに笑いながら、屋敷の者が彼女を部屋に運んだ後、侍女たちが着替えさせてくれたのだと話した。
「そういえば、侯爵の息子のキヴァの呪いは無事に解けて、いまは薬師や神官が体調を整えているんだって!今朝は少し話せるようになったみたいで、僕も少し話したんだ」と嬉しそうに語るルチの目が輝いている。
「やっと楽になったみたいだよ、ずっと苦しかったって……」
その後、ルチはタリアに尽くすように、食事を運んでくれた。
野菜と柔らかく煮込まれた肉のスープに香ばしいパンと赤ワイン。
さすがは大貴族だ……口にした瞬間、あまりの美味しさに、タリアはしばし感動に浸る。
数年来、こんな濃厚な味を楽しむことなどなかったのだ。
隣で見守っていたルチが満足げに微笑んでいるのを見て、タリアもまた微笑んで返した。
やがて、食事を終えた頃にソラン神官が姿を現した。
「お目覚めになられましたか、タリア殿。この度は本当に感謝いたします。侯爵様も大変感謝しており、お会いしたいと申しております。どうぞお供させていただけますか」
タリアとルチはソランに連れられ、広間を抜け、案内されるまま向かう。
そこはおそらく執務室で、調度品や書簡が整然と並び、豪奢ながらも静謐な空気が漂っていた。
侯爵に向かい合うと、タリアは思わず、無意識のうちに貴族としての礼を取っていた。
王妃の有力な侍女として勤めていて身についた所作は美しく、威厳が自然に現れていた。
気がついた瞬間、タリアは「しまった」と心の中で思った。
庶民ならひざまずくべきであったのだ、挨拶を完全に間違えてしまった!
貴族的な部屋で起きて、さらさらの良い服を着ていたので、つい間違ってしまったのだ……
ところが、侯爵はそのことに触れることなく、タリアの振る舞いを受け止めた。
そして侯爵が一歩前に進み、穏やかな声で彼女に語りかけた。
「……旅の神官殿、感謝いたす。息子の災厄は、あなたのおかげで去った」
タリアは静かに首を振り「これは神の導きです、侯爵様の日頃の行いに神が応えたのです。どうか感謝なさらないでください」と答えた。
その言葉に侯爵は僅かに頷き、ちらりとソランへ目配せをした。
「されど私はこの地の領主である。然るべき功を評し、礼を示すのは私の務めだ。どうか、何か望みがあれば申されよ。秘術の魔法を使ったあなたと、その少年が望むものを、力の及ぶ限り与えよう」
タリアは言葉を失い、ほんの少しの間、迷って、そして決心して口を開いた。
「では、侯爵様、お願いがございます」
「よい、申せ。望むことがあれば、何なりと」
「わたくしの従者であるこの少年に、最良の教育をお与えください。騎士としての技、歴史や政治、そして神官が使う魔法の教えも、どうか……」
ルチが驚いた顔でこちらに視線を送る。
でも、これこそが今一番必要なことなのだ。
侯爵はしばしの間、黙考していたが、やがて口を開いた。
「つまり、最良の教育というならば、我が息子と同じような教育を施せということか?」
タリアは頷いた。
「はい、まさに。どうか彼にご子息と同じような教えをお授けください」
「……わかった。その願いを叶えよう。領内の騎士の息子や、神殿騎士見習いが、領主の息子について一緒に過ごすという慣例はよくあることだ。そなたの望み通り、その少年を我が息子と共に学ばせるとしよう。年も十一と聞いたが、ちょうどよい年頃だ」
侯爵の言葉に、タリアは喜び心が躍ったが、同時にこれから訪れる寂しさに、胸が切なく締め付けられた。
ルチは無言で頭を下げている。
彼が静かに全てを受け入れる姿を見て、彼の成長を感じずにはいられなかった。
「城で最も優れた騎士が、指導するであろう。ソラン神官もそれでよろしいか」
「はっ、わたくしも城に来て、太陽神の祈りや作法を授けます」
侯爵はそれを聞きうなずいた。
そして最後にもう一度尋ねた。
「その少年への褒賞は、それで決まりとしよう。それで旅の神官殿、あなたの望みを申すがよい」
「それだけで十分です。感謝いたします、侯爵様」
「まことか?何でもよいのだぞ?」
「ありがとうございます。ですが、それで十分でございます。モチのこと、なにとぞよろしくお願いいたします」
「……うむ、わかった。少年のことは任せるがよい。旅の神官殿よ、あなたの今後の旅路に幸運があらんことを祈ろう。必要な助力があれば、我が力を惜しまぬつもりでいる。では、どうかこれからも健やかであれ」
侯爵の言葉は毅然としており、タリアに対する深い尊重が感じられた。
彼女は目を伏せ、深々と礼をした。礼を終えたタリアが顔を上げた時、侯爵が見せたのは柔らかい微笑だった。
タリアとルチの別れは、あまりにも短くあっけないものだった。
必要とわかっていることとはいえ、彼女の胸には言いようのない寂しさが広がった。共に旅を重ねた日々のことを思うと、言葉を尽くして別れを告げるべきかと思いもしたが、
最後まで耐えたのはルチの方だった。
ルチは泣きもせず、ただ真っ直ぐな眼差しで彼女を見つめた。
気丈に振る舞うその目に宿る強い意志が、タリアに言葉を失わせた。
彼がここに留まり、侯爵の元で学びを得ることこそ、彼自身の運命と理解したのだろう。
ルチが最後にタリアを抱きしめたとき、その抱擁には幼かった彼の面影はなく、まるで彼が守る存在になったかのように彼女を包み込んでいた。
別れの瞬間、彼は確かに、少年から青年へと成長していたのだ。
タリアは微笑を浮かべ、静かにルチの肩を抱き返した。
彼がこうして自らの運命を受け入れる姿を見ることで、彼女の胸にあった躊躇も消えていく。
「ルチ、あなたなら大丈夫。きっと強く、立派な王になるわ」
ルチはしっかりと頷き、何も言わずにタリアの言葉を受け止めた。
その表情には一抹の寂しさが残っていたが、決意の色がそれを覆い隠していた。
タリアは一人、静かにリヴァゲイト城を後にした。
彼女の胸中には、様々な想いが渦巻いていたが、それでも足は力強く前に進んでいた。彼女はカリナが待つ村へと向かっていた。
しばらく歩いて、最後にもう一度、振り返り城に向け、短く祈りを捧げた。
彼女にはまだ果たさねばならない使命があるのだ。
ルチとカリナが未来を切り開いていく姿を見届けるまでは、その役目を終えることはないだろう。
冷たい風が吹き抜ける中、彼女は真っ直ぐに前を見据え歩み始めた。




