第29話 面影
冬の寒さが和らぎ、春の兆しが村に訪れると、山の緑が一気に萌え始めた。
凍てついていた大地も、雪解け水に潤いを取り戻し、春風が新しい命を運んできたかのようだ。
村人たちは目覚める自然に目を輝かせ、土を耕す手を休めることなく春の準備を始めていた。
タリアもまた、立春の日に行った星観の儀式で、しばらくここで暮らすことがよいという未来を読んだので、あらためて、当分の間この村で生活する決意を固めた。
それを聞いた村の人々は、彼女たちが村にとどまってくれることを心から歓迎し、タリアに春植えの野菜の種や苗を分けてくれたり、畑の耕し方を教えたりと手厚く助けてくれた。
「フリオが種を持ってきてくれたから、すっかりこの畑も賑やかになったわね」
タリアは、家の裏手に作った小さな畑を見てつぶやいた。
畑には分けてもらった大根やキャベツの種をまいた畝があり、芽吹く日を待っている。
もう一本、畝を増やそうと鋤を持つと、「タリア、手伝うよ!」と言って、元気よくルチがタリアが持つ鋤を奪って、土を掘り返し始めた。
鋤は彼には少し大きく重いはずなのだが、覚えた魔法を使っているようで、なんなく使いこなし土を掘り返していた。
彼は少しずつ畑仕事に慣れ、それを楽しんでいた。
すぐ近くでは、小さな手で畑の小石を拾っているカリナがいた。
カリナは、初めての土いじりが楽しいらしく、種を植えた畝を日に何度も見に行っていた。
村人たちの手助けを受けながら始めた畑作りは、タリアたちの新しくも楽しい生活の一部となっていった。
もちろん、彼らが野良仕事をしているその間、王族としての教養を教えることはできていないし、歴史も、政治も、計算も、美術も何も教えることはできていない。
それでもいいと、タリアは思っているのだ。
今、ここでこうして過ごしている時間も、彼らにとって大切なことであると思えたのである。
それは自分にとってもだが。
村の子供たちも、畑仕事が終わるとルチやカリナと一緒に遊びに誘ってくれる。
かくれんぼや鬼ごっこをする子供たちの楽しそうな笑い声が、春の陽気とともに村中に響き渡り、村全体が春を祝っているかのようだった。
こうした穏やかな日常が続く中、タリアは近隣の集落にも神官として葬儀や祭礼のために足を運ぶようになった。
タリアが住む集落の周囲には、山道を歩いて二十分ほどで行ける小さな集落が五か所ほどあり、それぞれ五軒から十軒ほどの家が集まって暮らしている。
生きるには厳しい場所である。
村人たちは互いに助け合いながら生きていた。
近隣で唯一の神官であるタリアが月の神に祈りを捧げると、近隣の住民たちから深い敬意と感謝の言葉が寄せられる。
ある日の午後、タリアは村から南に少し離れた集落へ葬儀のために出向いた。
今日は、ルチとカリナは村の子供たちと出かけてしまったので一人で向かった。
特に、カリナは、以前、獣人に襲われて父を亡くした家の娘と年が近いことから大の仲良しとなって、しょっちゅう一緒にいるようになっていた。
タリアが春の陽光を浴びながら静かな山道を進むと、集落の屋根が見えてくる。
タリアは集落の端にある家の前で、すでに集まっていた住民たちと共に、亡くなった年配の女性のために祈りを捧げた。
葬儀が終わり、タリアは集まっていた住民たちと少し話をしていたが、その中でふと耳にした噂話があった。
「この前、王都から来た旅人がこんな話しとったぞ」
村の年配の男が声を落として語り始めた。その周りには、他の住民たちもひそひそ声で話に耳を傾けている。
「なんでも、王都じゃ悪の王妃が討たれたんだとさ」
「王妃は逃げようとしたけんど、仲間ごとつかまって、首は城門にさらされたっちゅう話だよ」
「そんでだ、王妃は病気の王様に代わるっちゅうて政を担うふりしとったけど、実際は民の金を好き放題に使って、贅沢三昧だったらしいわ」
「重い税もみんな王妃のせいじゃとさ。援軍が来なかったのも、王の軍が前に悪さしとったのも、王妃の命令だったって話よ」
「見るに見かねた王の妹の夫の将軍が、そりゃもう義のためじゃ泣く泣く王妃を討って、国に平和をもたらしたってわけよ」
「それにしても、王妃に仕えとった連中はみんな処刑されたっちゅうけど、うまいこと逃げたやつらもおるらしいわな。特に王妃の出身の西の貴族が多いんで、反逆の意思を示しとるって話で、こりゃ戦になるかもしれんてよ」
「王妃様がやらかした後始末のために、税金は相変わらず重いらしいし、西に備えとるってことで軍が配備されとるらしいんだとさ」
別の村人も話に加わる。「そんなんじゃ、また何年か前みたいに獣人が村々を襲っても、援軍なんざ来やしねえだろうよ。王都はもう、わしらなんざ助けてくれんわな」
タリアは、気づかぬうちに手をぎゅっと握りしめていた。
なんと気分が悪くなる話だろうか。
王妃が「悪の王妃」と呼ばれるようになっていたことに心が深く傷ついたのだ。
王妃は贅沢どころか、質素倹約に励み、自らを律し、王国の安寧のためすべてを投げうってきたというのに!何よりも民を大切にしていたのに!
自分が守るべき王と国を誇りに思い、必死に支えていた王妃を知る彼女にとって、この噂はまるで悪夢のようだった。
(王妃様が……悔しい……)
タリアの脳裏には、王妃の姿が次々と浮かび上がった。
王妃の厳しい教え、優しさ、そして家族への愛。
彼女の記憶の中での王妃は、決して噂のような人物ではない。
誰よりも誇り高く、勇気があり、情け深く、強く優しく、国を支えていたはずだった。
タリアは誰にも知られないように目を閉じて涙をこぼし、ただ心の中で王妃の魂の平安を祈った。
帰り道、タリアはひとり静かに森の中を歩きながら、王妃との思い出に想いを馳せていた。
周りには春の草花が小さく芽吹き、風が新しい命を吹き込むように吹き抜けていく。
だがその美しい光景も、今のタリアにはどこか遠いものに感じられた。
村に戻ると、ルチが家の外でタリアの帰りを待っていたらしく、彼女を見つけるなり駆け寄ってきた。
「タリア、おかえりなさい!今日もお仕事お疲れ様!」
無邪気に微笑むルチの顔に、タリアはわずかな温かさを感じ、気持ちを切り替えるようにしてルチの頭をそっと撫でた。
「ただいま、ルチ。ありがとう。おかげで元気が出るわ」
ルチは嬉しそうにタリアを見上げ、「今日はカリナと一緒にリコの畑の水やりを手伝ったんだよ」と誇らしげに言った。
カリナは続けて「あと、フリオの畑にも行った!」と言った。
そこでも小石拾いをして手伝ったそうだ。
「そう。カリナもルチも偉いわね!」とタリアが言うと、ルチはますます得意気にうなずいた。
楽しそうに話すルチは口元が、そしてカリナは目元も口元も王妃に似ている。
彼らは彼女の子供で、その面影を持っている。
必ず、守る。必ず。
そう、タリアは心に強く誓った。




