家族の事情
「お宅のお爺ちゃんがまた騒いだら、あなたに連絡させてもらいます!」
強面の看護師のその宣言通り、私のケータイには翌日さっそく呼び出しの電話がかかってきた。
社長に事情を説明し、いつもより早めに退社させてもらった私は、その足で祖父の入院する病院へと急いだ。
病室で私が来るのを待っていたらしい件の看護師は、眉間に皺を寄せ、不快感をあらわにした口調でこう言った。
「中川さん……、あなたのお爺ちゃんにはホンマにみんな困っとるんやよ。また夜中に火事やって叫んで暴れてな、なだめようとした看護師を叩いたんやで」
「えっ、叩いた? す、すみませんっ! その看護師さんにも後でお詫びさせてください!」
大正生まれで、古い考え方が根強く残る漁村育ちゆえ、言葉の端々に男尊女卑が滲む祖父ではある。しかし、私の知る限り、女性に手を上げるような粗暴な人ではなかった。病気のせいだ。それは分かっている。分かってはいるのだが、ただただ情けなく、ただただ悲しかった。
「お義父さん……、何で看護師さんを叩いたん? そんなことしたらアカンやんか……」
一時間ほど遅れてやってきた母は、心底うんざりした口調でそう言って、背を起こしたベッドでちびちびとお茶を飲む祖父を冷ややかな目で見つめた。
「儂はそんなことしとらん」
祖父は澄ました顔をして、悪びれもせずそう答えた。とぼけているわけではないようだ。本当に、全く覚えていないらしい。母の顔に、疲労の色が一気に滲む。にもかかわらず、めげずに文句を言い続けている。
「はぁ……、それと、夜中に火事やって大騒ぎするんもやめて。患者さんも看護師さんも、みんなびっくりするで」
「そうは言うけどな、普通に呼ぶだけやったら誰も助けに来てくれへんやろ? 火事やって叫んだら、さすがに家のもんが気付くやろ思て……」
驚くほど滔滔と話す祖父に、私と母は思わず顔を見合わせた。
祖父は確かに混乱している。だが、理由もなく騒いでいたわけではなかったのだ。目覚めるとたった一人、見知らぬ場所に寝かされている。その恐怖に耐えかねて、夜ごと家族に助けを求めていたのだろうか。
その話を聞いて以来、私と母は交代で、出来る限り祖父に付き添うことにした。そのため、母はたびたび漁を休まなくてはならず、父は一人で沖に出ることが増えた。私は仕事を休むことはなかったが、勤務時間の融通を利かせてもらっている。
「祖父の介護をしたい」面接のとき、私がそう話したことを、社長はちゃんと覚えてくれていた。事情を話すと、嫌な顔ひとつせず協力すると言ってくれたのだ。
「ありがとうございます。肺癌で……、祖父はもう長くないらしくて……。出来る限りのことをしてあげたいと思ってるんです」
「ああ、後悔せんように、やれることはやってあげて。実はな、僕がこの会社を立ち上げたんも、母親の介護がきっかけなんさ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。少し前までは、妻の介護もしとったしな」
「えっ、香織さんの……、ですか?」
「……そう。彼女、一時期は自分の身の回りのこともままならんほど弱っとったんや、体もやけど、気持ちがな……」
「そんな……、知らなかったです……」
社長から、家族の話を聞くのはこれが初めてだ。この会社の事務員だった奥様の香織さんとは、入社して暫く一緒に働いたことがある。しかし、もともと虚弱だという彼女は、体調を崩して退職してしまった。今は、他県にある実家で療養中だと聞いている。
「いずれは皆に話すつもりやけど、実は彼女とは離婚したんや。『これ以上あなたの負担になりたくない』って言われてな……。彼女のご両親にも、『娘と別れてやってくれ』って頭下げられて……。引き止めたけど、どうしても無理やった」
「……そうやったんですか」
「ははっ、僕はどうも家庭運に恵まれてないみたいで。うちの親父……、前科者のヤクザでな。そのことで、子どもの頃は随分いじめられたりもしたんさ。母親も、散々苦労してきたと思う。その親父が死んだんが、僕が高校生の頃で……」
「えっ……」
「まあ、いろいろあって……。それから母親は、仕事を掛け持ちして女手一つで僕を育ててくれたんや」
「……大変……、でしたね……」
「無事高校を卒業して、就職も結婚もして、これからやっと楽させてやれると思った矢先に……、癌が見つかってな。その母親も、あっけなく死んでしもた」
「なっ……」
「最期は僕が家で看取った。自宅で死にたいっていう母の希望でな。確か……、半年くらいは介護したかな。勿論、下の世話もしたで」
「……」
「……とまあ、そんな経緯で、介護で苦労しとる人を少しでも助けられたら……と思ったわけや。会社を大きくして、自分をいじめた奴らを見返したいって気持ちも、あるにはあったんやけどな」
社長には、若さや柔らかい物腰に似合わぬ『凄み』のようなものがある。その理由が、少しだけ分かったような気がした。
◇◇
私や母が付き添う日の祖父は比較的穏やかだ。しかし、会話はあまり噛み合わない。祖父は、自分の言わんとしていることが上手く伝わらないことに苛立っているのか、私たちにあたることもある。
名古屋に住む父の妹が、先日初めて見舞いに来てくれたのだが、祖父の心ない言葉に号泣して病室を飛び出してゆき、その後二度と訪ねて来なくなった。
「病気が言わせたことやから……」母は、後日電話でそう話し、叔母を慰めたらしいが、彼女はいたく傷ついてしまったようだ。聞けば、二人は若い頃から衝突しがちな親子だったらしい。ふと、私と父の関係をおもった。祖父と孫なら笑って許せる言葉でも、父娘となると難しいのかも知れない。
父の他のきょうだいたちも、商売をやっていたり遠方に住んでいたりして、各々一度しか見舞いに来ていない。肝心の父ですら、入院初日しか来ていないのだ。叔父や叔母を責めることは出来ない。というわけで、付き添いは母と私の役割と化している。とはいえ、毎日病院に泊まるのは無理というものだ。
母も私も付き添いが出来なかった日の翌日、仕事を終えて病院へ行ったときのこと。祖父の病室へ入ると、件の強面の看護師と丁度鉢合わせる形になった。
「あっ、お世話様です。昨日は来られなくてすみませんでした。祖父の様子、どうでしたか?」
何を言われるかと及び腰になりつつも、私は努めて明るくそう訊ねた。
「はぁ……、あなた今頃来たん? 昨日もうるさかったで。こう言うたら何やけど、ちょっと無責任ちゃう? こんな手の掛かるひとを病院に押し付けて、自分はよそのお年寄りの介護……。おかしいと思わんの?」
「えっ……?」
一瞬何を言われたのかぴんと来ず、不機嫌そうに歪む彼女の顔をまじまじと見た。唇が小刻みに震える。我ながら間抜けだと思うが、今さらじわじわと頭に血が昇ってくるのを感じている。
「…………お、お世話になってる皆さんには、本当に申し訳ないと思ってます! でも……、仕事を持つもの同士、そんな言われようって……!」
彼女の目を睨む私の目に、熱いものがじわりとこみ上げる。駄目だ。これ以上口を開いたら、気持ちが溢れて爆発してしまう。「失礼しますっ!」そう言って、彼女の脇をすり抜けて病室を出た私は、俯いたまま、つかつかと早足で廊下を歩いた。
エレベーターに乗り込んで一階に降り、誰もいないロビーを突っ切って外に出る。面会時間はとうに過ぎていて、外灯が照らし出す広い駐車場にも、人影はほとんどない。
星の瞬く空を見上げ、私は大きく深呼吸した。夏の夜の匂い……。とろりと湿気を帯びた空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。幾筋かの涙が、頬を伝う。
……もう少しだけ心を落ち着けたら、祖父の病室に戻ろう。




