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問わず語り  作者: ごろり
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故郷の香り

 クリスマスと冬休みを目前にして、私の心は暗く沈んでいた。

 幸せな恋人同士なら、さぞや楽しみな季節であろう。

 私が松宮さんと気まずくなってから、もう一週間ほど経っていた。

 こちらから連絡すべきだということは分かっていたが、謝って関係を続けるのも、簡単に別れてしまうのも不実な気がして、一度も連絡できないでいたのだ。

 それに、やはり怒っているのだろうか、彼からの連絡もなかった。


 チャコールグレーのカーペットが敷かれたワンルームには、黒で統一されたベッドや本棚、ローテーブル、そして薄いグレーの遮光カーテンが掛かっている。

 この暗い色使いがまた、私の心を沈ませる一因なのではないだろうか。

 ふと、そんなことを考えていた。

 この部屋に置かれている、無機質で味気ない雰囲気の家具たちは、ここに引っ越す直前に、急ぎ買い揃えたものばかりである。

 冷蔵庫とテレビはレンタルできるというのでそうした。

 素朴でナチュラルな感じの木製家具や、傷があったり、経年変化でいい色に変色したアンティーク家具などが好みの私にとって、モノトーンの家具は全く趣味に合わなかったが、たった二年間使うだけのものにそこまでお金をかける必要はなかろうと、手頃な値段のものを母と一緒に選んだのだ。

 しかし、特にこの遮光カーテンは厚ぼったくて気に入らない。

 管理人の奥さん曰く、外から若い女性の生活を窺い知ろうとする不埒な輩から身を守るためだと言う。

 夜間でも玄関に鍵すら掛けない平和な田舎育ちの私には、想像もつかぬことであった。


 その遮光カーテンを開けると、ベランダに出られる大きな掃き出し窓がある。

 このアパートは坂を登りきったところに建っているので、ベランダからの見晴らしは良い。

 周囲は住宅街だが、視界を遮るような建物はなく、窓からは美しい冬の夜空を見ることができる。

 私はカーペットの床にぺたりと座り、夜明けの空に白く消えてゆく星たちを眺めていた。

 また、眠れぬ夜を過ごしてしまった。


 その時、不意にこの無機質な部屋に不似合いな香りを感じ、ぼんやりとした頭の芯がはっきりとした。


(これは……白檀? 誰かお香焚いてるんやろか?)


 いや、この時期窓は閉めたままだし、それにこれは『お香』と言うよりは『お線香』の香りだ。

 私にとってこれは、故郷の思い出と繋がる懐かしい香りでもある。

 故郷の人々は、神事と共に、仏事も大切にしていた。

 私自身、お寺やお墓にはしょっちゅう行っていたし、朝夕の仏壇へのお供えも手伝っていた。

 お葬式や法事ともなれば、僧侶の念仏はもとより、親戚や近所のお婆ちゃんたちが家の座敷に打ち揃い、持鈴すずを鳴らし、御詠歌を詠唱し、故人を供養してくれた。

 私が故郷を離れる直前に亡くなった祖母もまた、あの物悲しい歌声と、ちりんちりんと淋しげな鈴の音と、馥郁ふくいくたる白檀の香の煙に送られて旅立ったのだった。


「婆ちゃん、ごめん……」


 私は、思わずそう呟いた。

 祖母にとって私は、目の中に入れても痛くないほど可愛い自慢の孫であったらしい。

 こんな風に人を傷付け、自分を傷付けていることを知ったらどれだけ悲しむだろう……そう思うと心が痛んで涙が滲んだ。


 白檀の香りは、その日一日中私に付き纏ったが、一緒に講義を受ける友人たちに訊ねてみても何も匂わないと言うのだ。

 不思議に思いながらもその夜は久々によく眠り、翌朝早くに掛かってきた、故郷の母からの電話に起こされた。


「あんたんとこに、婆ちゃん訪ねて行ったやろ」

 開口一番そう言われて、一瞬わけがわからなかった。

「……どういうこと?」

「あんな、婆ちゃんが私の夢枕に立ってな、『佳也子んとこ行って来た』って言うんやわ」

「えっ?」

「それでな、なんやらあんたが大変そうやって言うから、ちょっと電話してみたんよ」

「うそ……ずっとお線香の匂いしとったんはそれでやろか?」

「えっ! そうなん?」

「うん。そんなことってあるんやな」

「……いや〜、お母さんもびっくりした。それで、何かあったん?」

「いや、別に何もないけど、最近ちょっと疲れてただけ」

「ちゃんと食べて寝とるんか?」

「うん、勿論」

「仕送りももっと送ってやれって言われたけど、困ってないか?」

「そんなことまで!? 人より多く送ってもらっとるくらいやで」

「あっ、そうなん? 相場が分からんもんで」

「十分やから、全然大丈夫!」

「そんならええけど、体に気をつけるんやで」

「うん、ありがとう。お母さんもな」


 受話器を置いて暫く呆然とした。

「婆ちゃん……」思わずそう呟く。

 あの世から、どこまで見られているのやら……

 ありがたいけど、恥ずかしい。

 心配を掛けないよう、もっとしゃんとしなくては。

 そんな風に思った、不思議な出来事であった。


 ◇◇


 バレー部の四回生たちは既に引退していた。

 ちゃきちゃきした姉御肌の美由紀さんもいなくなり、マネージャーの先輩は、可愛らしい中にも色香漂う優子さんだけになっていた。

 彼女は、先日から松宮さんと付き合っているらしい。

 心から済まなそうな様子で彼女からそう告げられたとき、正直ショックを受けはしたが、一方で自分でも驚くほど寛容な気持ちであった。

 それはそうである。

 松宮さんにあんな酷いことをしておいて、あまつさえ連絡も取らずにいて、文句を言う資格など私には無いと思ったからだ。

 はっきり結論を出す前に他の女に乗り換えた彼に、少しも疑問が無いわけではない。しかも、相手はよりによって一緒にマネージャーをやっている優子さんなのだ。

 そこには多少の憤りを覚えつつも、嫉妬心すら湧いてこないとは、やはりこれは恋ではなかったのだろう。

 良き先輩ではあったけれど、恋人にはなれかった。

 あのキスをするまで、私はそれに気が付かなかったのだ。

 松宮さんが、私とのことを優子さんに相談しているうちに、二人の距離が近づいたということらしいが、本当のところはわからない。

 しかし、とにかく優子さんは女の私から見ても魅力的だし、私よりもずっと彼にお似合いだと思った。

 松宮さんと私はあえて別れ話はしておらず、所謂自然消滅となったわけだが、不思議なことにそれからはごく普通の先輩後輩として軽口を叩けるまでになっていった。

 いや、今思えば不思議でも何でもない。

 ただ、彼の懐が深く、大人の対応をしてくれていたからであろう。


 その頃のバレー部内での私の評判がどうだったかなど、言わずもがなである。

 実は、いたって身持ちが固いくせに、実情を知らない人から見れば、短期間に男を渡り歩くとんでもない女。

 一部の部員からはそう思われていたらしい。

 ある人が教えてくれたのだが、当のその人もまた、私のことをそんな目で見ていたのであろう。


 ◇◇


 クリスマスの夜、私はまた、下の階に住む美彩の家にいた。

 恋人のいない者同士、チキンやケーキでも食べて仲良く過ごそうということになったのだ。

 彼女もそうだが、一回生のマネージャー仲間たちは、私のことを色眼鏡で見たりはしなかった。

 少なくとも、私にはそんな素振りは見せなかったのである。

 彼女たちは、私の不器用さをよく分かってくれており、松宮さんとの関係が終わったときも、「次はいい恋愛ができるって!」と、優しく慰めてくれたのだ。


「メリー・クリスマス!」

 私たちはアルコールの入っていないお子様用シャンパンで乾杯した。


「佳也ちゃん、明日から実家に帰るの?」

「うん、お正月くらい帰って来いって言われるし。美彩ちゃんは?」

「私も帰るつもり」

「早いよねえ。もう今年も終わりやもんねえ」

「本当にねえ。私なんて特に変わったこともない一年だったわ」

 美彩はふっとため息をつきながら肩を落としてみせた。


「それが一番やで。私なんて最悪やわ、自分で蒔いた種やけど……」

「でもまあ、今はこうやって平和なクリスマスを迎えられて良かったじゃない」

「まあ、そうやなあ。でもさ、今頃、松宮さんと優子さんは仲良く一緒に何してるやら……」

「ふふっ……気になる?」

「そ、そりゃまあ、多少は考えるよ」

 私は、動揺を悟られないよう、美彩から目を反らしつつ、ローストチキンに齧りついた。


「咲ちゃんも野々村さんと一緒に過ごすって言ってたし、冬休みも帰省せずに二人で旅行するみたいだね」

「それ聞いた〜! ええよなあ……」

「あーあ、来年こそは私も彼氏作りたいなあ」

 美彩はケーキにフォークを突き刺しながらそんな事を言う。


「あっ、そう言えば、奥田さんのことどうなったん?」


 美彩は、あまり自分の恋愛について語らない。

 だからすっかり忘れていたのだが、入部したての頃、彼のことが気になっていると言っていたではないか。


「う〜ん、実はちょっと悩んでるんだけどね……思い切って告白してみようかなって」

「おおっ、いいやん! 応援する!」

「でも、上手くいく自信ないよ〜」

「そう? いつもけっこう仲良さそうに喋ってない?」

「佳也ちゃん、それとこれとは違うって分かってるでしょ?」

「うっ、そうやった……」

「まあ、あれはけしかけた私も悪かったけどね」


 楽しく話せるからと言って、恋人として上手くいくとは限らないし、そもそも相手が自分を恋愛対象として見てくれているかどうかすらあやしい。


「奥田さんかぁ……あの人、どんな子が好きなんやろ?」

「知りたいよね。仲のいいお姉さんがいるとか言ってたから、もしかして年上好みとか……」

「そうなん? でも、言われてみれば甘えん坊な雰囲気あるなあ」

「でしょ? なんか可愛いんだよね、あの人」

「そっかあ。美彩ちゃん、奥田さんのそういうとこが好きなんや」

「それだけじゃないよ〜、あの人って物腰が優雅じゃない? そんで、いい匂いすんの」

「あはは! 何なんそれ〜」

「いや、本当だって!」

「でも、確かにバレーやってるときもドタバタしてないし、汗臭いイメージないかも……」

「でしょ〜?」

「うんうん、なんかええかも。美彩ちゃん頑張ってな!」


(女同士って、やっぱり気楽でええもんやな)


 馴れない恋愛などせずともよいのではないか。

 少なくとも、暫くそんな生々しいこととは距離を置きたい。

 そもそも私は、彼氏より美彩のような彼女が欲しい。

 などと言うのは冗談半分だが、半分は本気である。

 それほどに美彩の丁寧な暮らしぶりや穏やかな性格に憧れを感じていた。

 奥田さんには是非とも彼女の良さを分かって欲しいものだと思った。


「来年もよろしくね! 帰省楽しんできてね」

「こちらこそよろしく。美彩ちゃんも気をつけてな」


 玄関先で手を振って、私たちは暫しの別れを惜しんだのである。


 ◇◆◇


「姉ちゃん、卒業したらこっち戻ってくんの?」


 年子の妹である、高校三年生の実穂子みほこが、ずらりと並んだ正月料理をがっつきながら、私に期待の眼差しを向ける。

 喪中とは言え、せっかく皆が揃うのだからと母が張り切って用意してくれたのだ。

 お節料理の他に、刺し身や揚げ物、その他諸々食卓からはみ出さんばかりである。

 我が家は昔から、品数多めに料理を作る。

 大家族であった昔の名残りでもあろうが、私たち三姉妹が大食らいだったこともあるのだろう。

 私と実穂子のみならず、末の妹である高校一年生の百合香ゆりかも相当なものである。

 母はそんな私たち三姉妹に呆れながらも、いつもたくさん作ってくれるのだった。


「ん〜、まだ考え中」

「え〜っ! 帰って来てよ」

「何で?」

「私、今年卒業したら伊勢で就職するやん?」

「うん」

「残業も多いみたいやし、職場近くにアパート借りたいんやけど、家賃のこともあるし、来年同居してくれると助かるな〜って思ってさあ」

「ふーーん。なるほど……て言うか、あんた何で都会に行かんの? 何で伊勢なん?」

「都会は好きやけど、遊びに行くだけでええの。住むのは怖いもん」

「私も高校卒業したら姉ちゃんたちと一緒に住みたい〜」

 三女の百合香が目をキラキラさせて話に割り込む。


 私たち三姉妹のうちで一番の美人と言えるのはこの百合香で、その面差しは美女で名高かった祖母に似て、色白の肌に、キリッとした眉と目元が涼やかだ。

 次女である実穂子は、一番愛嬌があると言われていた。

 丸顔にいつも笑っているかのような黒目がちの垂れ目、口角もキュッと上がっているので尚更笑顔に見える。

 私はと言えば、とにかく実年齢より下に見られる童顔で、目はクリッとしているが、他のパーツは小さくてあまり特徴がなく、似顔絵が書きにくいらしい。

 それだけどこにでもいる顔なのであろう。

 つまり、私たち三姉妹は全然似ていないと、他人ひとからよく言われるのだった。


「佳也子、あんた帰って来る気あるんやろ?」

 さっきまで立ち働いていた母はやっと一息つき、甘い味付けの煮しめを一口食べた後、そう言った。


「いつまでも都会でチャラチャラ遊んどるつもりなんか? 長女なんやし、こっちで公務員になることでも考えたらどうや」


 そんな父の言葉に、(で、早めに結婚せえって? できたら婿養子貰えって?)と、心の中で毒づく。

 実際、親戚の次男坊と私を縁組させる計画があったらしいことを帰省早々知ってしまい、ショックを受けていたところである。

 幸いその次男坊は、就職先で知り合った彼女とさっさと結婚してしまったため、事なきを得たわけではあるが。


 祖父は終始無言であった。

 どうやら燗酒に酔っ払って眠いようだ。

 酒好きだが弱いのは、我が家の代々の体質らしい。


(就職か……どうしよかなぁ)


 食後の皿洗いを手伝いながら考えてはみるものの、まだ一年の猶予があると思うと、あまり真剣になれない呑気な私なのであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ああ、美人一家なのですね? 佳也子美人説の証拠がまた一つ。(笑)
[一言] いや、ホント、何か色々懐かしい感じが。まぁ、私ゃ男でしたけれども、「オンナにガッつくなんてみっともない」とかカッコ付けてるツモりなってましたねー(苦笑) お祖母さん、虫の知らせとは、…
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