祥子のこと
「佳也子んとこの会社って、一般住宅のリフォームやっとるんやろ? 私、今勤めとる建設会社辞めるつもりなんよ。そやからさ、あんたんとこがもし求人とかしとるんやったら、雇ってもらえへんかな〜って思って!」
受話器の向こうから聞こえる、やたら早口で、無駄によく通る美声の主は、荻原祥子である。私と、失恋回数でしのぎを削る幼馴染みだ。
私は、思わず耳から受話器を十センチほど離すが、それでも耳が痛むほどの大音量である。
「祥子……もうちょっとだけ、ボリューム抑え目で頼むわ」
「ええっ、私の声デカい!? ごめんごめん!!」
そう言って謝るその声も、やはり鼓膜にびんびんと響く。
うん……祥子は相変わらず、祥子である。
この変わらなさ、実にホッとする。最近いろいろあってぐったりしている私には、とてもありがたい。
受話器から漏れる彼女の声に驚いたわけでもあるまいが、さっきまで猫用ベッドで熟睡していた飼い猫のフクが目を覚まし、私の足元に来て、すりすりと頭を擦りつけている。
生まれつきだと聞いているフクの潰れた片眼は、もう治ることはないらしい。先日診てもらった獣医にはそう言われた。片眼が見えないせいでストレスが溜まり、気難しい性格に育つかも知れないとも。しかし、今のところはまったくそんな気配は無く、やんちゃで甘えん坊の、とてもかわいらしい仔猫である。
「フクにゃん、ちょっと待っとってな。後で遊んだるで」
私はそう言って、足元に手を伸ばし、フクの小さな頭を指先で撫でた。通話を子機に切り替えてソファに移動すると、フクも足元に纏わりつきながらついてきて、私の膝の上に飛び乗った。そして、私の顔を見上げ、短く「にゃっ」と鳴き声をあげた。
「あれ? 佳也子んち、猫飼い始めたん?」
「こないだ、実穂子の職場の近くの猫屋敷で貰ってきたんさ」
「へえ〜。うちのヤマトも元気にしとるで」
そう。祥子の家にも猫がいるのだ。三年ほど前、私と祥子が二人でランチした帰りに拾った猫である。今のフクより小さかったその子は、道端でうずくまって震えていた。
その頃の私は、短大を卒業して京都から帰って来たばかりで、実家で生活しながら職探しをしていた。猫を飼うゆとりなどなかったのである。それゆえ、祥子がその仔猫を引き受けると言ってくれて、心からホッとしたのだ。
祥子は、大工である彼女の父親が建てた家で、母親と二人暮らしをしている。彼女の両親は、決して仲が悪いわけではないらしいが、別居生活をしているのだ。
彼女の母親は、人付き合いがあまり得意ではない。漁村に住む祥子の父親の元へ、伊勢から嫁いでは来たものの、あの町のやたらと密な人間関係には、何年経っても馴染めなかったようだ。それで、末っ子である祥子の就職をきっかけに、夫婦で話し合った結果、別居に踏み切ったのだと聞いている。
母親は、特に動物好きではないそうだが、猫の世話はマメにやってくれるらしい。そのおかげか、あの弱々しく見えた仔猫はすくすくと成長した。
そして今や、私のつけた『ヤマト』という名前がよく似合う、ふてぶてしい面構えの、巨大な猫へと変貌を遂げている。
まあ、名前の由来はそんな大層なものではなく、ただ単に、某運送会社のマスコットキャラから貰っただけなのだが、黒猫だけに。
「ところで、何で会社辞めたいん?」
「なんかさぁ、聞いとった仕事内容と違うし、待遇がイマイチで腹立つんやもん」
「へ〜。でもあんた、どこ勤めても絶対文句ばっか言うやろ」
「え〜っ、そりゃまあそうなんやけどさぁ……」
私たちは、わりと遠慮なく、言いたい事を言い合う仲である。『親しき仲にも礼儀あり』で、言ってはいけない一線は、お互い踏み越えないようにしていると思うのだが。
今でこそ、姉妹より遠慮がない私と祥子であるが、特に親しくなったのは、高校に入学してからだ。人嫌いで、束縛癖のある祥子の母親が、祥子が友人をつくるのを嫌がるため、子どもの頃は、あまり一緒に遊べなかったのだ。
高校生になって親しくなったきっかけは、私のもう一人の親友、美月である。人気者の彼女を中心に集まって遊ぶグループの中に、祥子もいたのだ。
その頃には、いくら神経質で口煩い彼女の母親とて、さすがに娘の生活全般にまで、目が行き届かなくなっていたのである。それに、祥子自身も、母親の束縛から逃れたくて、激しく反抗したり、小さな嘘をついたりして、彼女なりに藻掻いていたのだ。
グループの中でも、私と祥子は、ありとあらゆる面で正反対であった。
ざっと、思いついた事をあげてみる。
私は、自分にも他人にも甘いし、あらゆる事にルーズで、大食いで、文系で、人に気を使い過ぎて疲れるタイプである。
祥子は、自分にも他人にも厳しく、あらゆる事にキッチリしており、少食で、理系で、大抵のことは自分のやりたいようにやるタイプだ。
その他にも、よく考えればいくらでも違いを挙げる事が出来ると思う。
私たちは、普通の女友だちのように、「うんうん、それわかる〜!」と、共感し合うことが、ほぼほぼ無い二人なのだ。
ただし、根が真面目で熱血漢なところと、親に対して複雑な思いを持っているという点では、お互い通じ合う部分があったと思う。
私は、彼女と比べれば、随分好き勝手させて貰っていると思うのだが、心の奥底にはいつも、中川の家に囚われているような息苦しさを感じていた。そのためか、母親に束縛されている祥子の苦しみが、少しは分かるような気がしたのだ。
「まあ、求人の件は社長と店長に聞いてみるけど、あんたせっかく二級建築士の資格持っとるんやし、またどっかの設計事務所で働いた方がええんちゃう?」
「それもそうなんやけどさ〜、リフォームのことも勉強したいんさ」
祥子は、小学生のときから建築士になることを夢見ていた。国立の高等専門学校を卒業した後、設計事務所で働いていたのだが、ちゃんと基礎から勉強して資格を取りたいと一念発起し、名古屋の建築専門学校に入り直したのだった。
そこで二年間学んだ後、念願だった二級建築士の資格を取得し、伊勢の建設会社に再就職したというわけである。
正直言って、そんな志の高い祥子にとって、オープンして一年未満の、まだまだ手探り状態であるうちの会社は、物足りないのではないだろうか。
「社長は、建材のことには詳しいけど、設計なんてほぼ素人やと思うで。店長も建築士の資格は持ってないし、あんたほど知識が豊富なわけやないと思う」
「そうなん?」
「うん。私に至っては、システムキッチンのプランニングと接客以外は全く自信ないし。休職中の同僚も、私と似たり寄ったりやと思う」
「でも、それやったらなおさら、ある程度専門的な事が分かる人間がおる方がええんちゃう? 休職しとる人がおるんやったら、人手も足らんやろし」
「う〜ん、それはそうなんさなぁ」
「なっ、やっぱり上の人に聞いてみてよ」
「……分かった。明日聞いてみて、また連絡するわ」
「やったぁ! ありがとう!」
◇◇
梅雨が明ける頃、祥子はうちの会社に入社した。
ナベさんの休職期間が思ったより長引きそうなのと、社長曰く、即戦力になる人間をあと一人か二人、採用するつもりだったのだそうだ。
今回の事は、渡りに船だったわけである。
それにしても、まさか祥子と一緒に働くことになるとは思っていなかった。
正反対の性格の彼女と、この先円満にやっていけるのだろうか。プライベートでは、不思議と仲の良い私たちだが、仕事となると未知数である。
それに、思ったことを歯に衣着せず言う彼女に、のんびりとしたボンボン気質の社長や、優し過ぎて優柔不断な性格の店長は、太刀打ちできるのだろうか。それが一番ハラハラする。
◇◇
「まいど〜! めっちゃ暑いですね〜!」
(いつも思うけど、こんなベタな挨拶する関西人てホンマにおるんやな)
祥子が入社して数日が経った頃、事務所にやって来た安斎さんは、数週間前のあの意味深な台詞など無かったかのように、涼しい顔で普段通りに振る舞っている。
「あっ、この人が荻原さん? N電機の安斎です〜。よろしくお願いしま〜す」
安斎さんは、そんなごく普通の挨拶をして、祥子に名刺を渡した。
「私の名刺、まだ出来てきてないんで、また今度お渡しします……」
祥子は、らしくないほど小さな声でそう言って、ぎこちなく微笑んだ。
彼女は、人付き合いが苦手な母親とは違い、誰とでもすぐに打ち解けられるタイプなのだが、初対面のときだけは、なぜか人一倍モジモジするのである。
「中川ちゃ〜ん、最近調子どう? 仕事取れてる?」
安斎さんはそう言って、私の目をみつめてニヤリと笑う。
「まだ工事は決まってませんけど、見積り依頼はいくつか貰ってます。今度、この荻原と一緒に、現調に行くんですよ」
なるべく素っ気ない態度で私がそう言うと、安斎さんは「二人とも頑張ってや」と、ひとことだけ言って、後はずっと、店長と話し込んでいた。
(この人、こないだの事なんて、大して気にしてないんやな……)
ホッとしたような、がっかりしたような気分を引き摺ったまま帰宅した私の携帯電話が鳴ったのは、時計の針が二十二時をまわった頃である。




