実穂子の恋
「去年の今頃やったかなあ? 久しぶりにミホの顔が見たくなって、あのアパートに行ってみたんやけど、郵便受けに全然知らん男の名前が書いてあるんやもん。びっくりした」
実穂子と並んで、二人掛けソファに腰掛けた宮原玲奈は、水滴の付いたアイスティーのグラスを手に、すっかり寛いだ様子でそう言った。
「お持たせですみません」
私はそう言って、実穂子の飲みかけのアイスコーヒーが置かれたローテーブルに、さっき宮原玲奈から貰った、苺のショートケーキを二人分置いた。
最近オープンしたばかりの、美味しいと評判の店のものだった。箱に四個入っていたケーキは全て、実穂子の好きな苺ショートだった。
苺も生クリームも大好物の実穂子は、ケーキと言ったら断然これなのだ。
(さすがミヤちゃん、実穂子のことが好きやっただけあるわ。いっそのこと、ホールケーキでも良かったんやで)
私は、そんな厚かましいことを考えながら、ダイニングの椅子に腰掛けて、彼女と実穂子の話を聞いていた。
「ごめんね。こないだチラッと説明した通りなんやけど、下着盗られたり、姉ちゃんが変質者に襲われたりしてさ、もう引っ越すしかなかったん」
実穂子は、宮原玲奈を拝むように手を合わせつつ、すまなそうに眉根を寄せた。
「いや、ミホは悪くないよ。そいつ、許せへんよな」
「うん。あの時はさ、本気で殺意が芽生えたもん。な? 姉ちゃん」
「そうやなあ。殺るとか殺らんとか、物騒な話を二人で夜な夜なしとったもんな」
本当に、あの時は腸が煮えくり返るほど怒っていた私たちだ。
「……なあ、ミホ。あの時付き合ってた彼氏は、ミホを守ってくれへんかったんか?」
宮原玲奈は、隣に座る実穂子の顔を、じっと見つめながらそう言った。心做しか、視線が熱を帯びているように見えるのは、気のせいだろうか?
「確か、隼人? そんな名前やったよな?」
「……ミヤちゃん、よう覚えとるなあ」
「そいつに相談したりせえへんかったん?」
「いや、相談はしたよ。でも、あの人自分ちの民宿が忙しくて、それどころや無かったんさ。守るって言うても、たまに様子見に来るくらいしか出来へんかったやろし……」
「……ふうん、そうか。で、まだ付き合っとるん?」
宮原玲奈の中性的なアルトの声が、妙に艶っぽく聞こえる。
(おいおい。お姉さんがここにいますよ〜! 見えてますか〜!)
何とも言えないムードに、いたたまれない気分になってしまう。
何かを訴え掛けるような実穂子の視線が、チラリとこちらに飛んできた。助けてくれと言っているのだろうか?
「えっと、宮原さん、お茶のお代わりどうですか?」
私は、おもむろに椅子から立上がって、そう声を掛けた。
彼女は、ハッとこちらを見て、バツが悪そうに苦笑しつつこう言った。
「ミヤちゃんでいいよ。お茶はまだ大丈夫。ありがとう」
なかなかフレンドリーな子である。
まあ、後輩の実穂子があだ名で呼んでいるくらいなのだから、やはり取っ付き易い性格をしているのだろう。
「隼人君とは、去年別れたんさ。でも、今は他に好きな人がおるんやよ」
実穂子は、ケーキに巻かれたセロファンを剥がしながら、何でもない口調でそう言った。
「ええっ、そうなん!?」
思わず、大きな声が出てしまった。
宮原玲奈、もとい、ミヤちゃんの方が、私よりよっぽど落ち着いた様子である。
「……もしかして、こないだ一緒やったあの男か?」
どうやら、ミヤちゃんには心当たりがあるらしい。
ミヤちゃんと妹の実穂子が、二年の時を越えて再会したのは、ほんの数日前のことだ。
それは、全くの偶然であったと聞いている。
実穂子は、仲の良い職場の同僚三人と、たびたび食事に行ったり、飲みに行ったりするらしく、帰りが遅くなることがあった。
その日も、職場近くの飲み屋街に新しくオープンした串揚げ屋で食事を楽しんだ後、どこかで飲み直そうということになり、どの店にしようかと相談しつつ、四人で歩いていたらしい。
ちなみにこの四人、年齢も性別もバラバラだ。
入社三年目で、二十二歳の実穂子が一番若い。
私は、メンバー全員の顔と、簡単なプロフィールを一応知っている。
デパートの案内係という仕事柄、退社時間が遅くなりがちな実穂子に頼まれて、時々車で迎えに行くのだが、そのときに、日頃仲良くしている友人として、彼らを紹介されていたのだ。
一人は女性で、名前を吉川春香と言うらしい。紳士服売り場の担当なのだそうだ。
ほっそりとした女性らしい体つきに、楚々とした日本的な美しさ。初めて会ったとき、驚いたほどの美人だ。
彼女を遠目から見に来る男性客も多いのだとか。
なんでも、先日三十路に突入したらしい。実穂子が誕生日プレゼントの小物をラッピングしながら、そう教えてくれた。
そしてもう一人は、少々ぽっちゃり体型だが、笑顔が好印象で清潔感があり、歯切れの良い話し方に知性が滲み出ている杉本武史。この男性は、外商部所属で、吉川春香より少し年下らしい。つまり、実穂子とは比較的年齢が近いようだ。
もう一人の滝沢雄一は、四十代の既婚男性で、吉川春香と同じ紳士服売り場勤務である。
アウトドア好きらしく、日焼けした肌に、少し白髪混じりのサラサラヘア。大人の色気溢れる、いかにも遊び人タイプの人である。
そんな、やけにバラエティに富んだ四人と、これまた個性的なボクっ娘のミヤちゃんが、夜の飲み屋街でばったりと出くわしたらしい。
ミヤちゃんから声を掛けられたとき、実穂子は、ほんの一瞬、誰だか分からなかったようだ。
もともと明るめの茶髪だったミヤちゃんだが、目にも鮮やかな金髪に変わっていたうえ、如何にも男物に見えるダークスーツを着こなしていたからだと言う。
今は、この飲み屋街にあるガールズバーで働いているというミヤちゃんに、実穂子の同僚たちは皆、興味を持ったようだ。
そして、四人はこれから出勤するという彼女について行き、彼女の勤めるそのガールズバーで飲んだのだと言う。
カウンターで、ミヤちゃんにカクテルなど作ってもらいながら、実穂子は今までの経緯をざっと説明したようだ。そして、ミヤちゃんが一度我が家を見てみたいと言ったため、さっそく招待する運びになったのだと言う。
「あの時、一緒におった男が好きなんか?」
ミヤちゃんは、歯に衣着せぬ物言いで、ズバリと実穂子にそう訊ねた。
「うん……そうやで」
実穂子は、少しだけはにかんだ様子で目を伏せながらも、ハッキリとそう答えた。
(えっ、杉本さんか滝沢さんのどっちかってこと? でも、滝沢さんは妻子持ちやんな。確か、高校生の息子がおるんやった。うん。無いなぁ、それは。じゃあ、歳の近い杉本さんの方か……)
そんなことを考えていた矢先、ミヤちゃんは私の予想を裏切る発言をした。
「あの、遊び人風のおっさんが好きなんやろ?」
「……うん」
ミヤちゃんの大胆な指摘に、実穂子は頬を染めながら、コクンと小さく頷いた。
(はあぁぁーーっ!?)
私は心の中で叫びつつ、椅子から立ち上がり、ソファに座る実穂子の目の前に歩み寄った。
「実穂子……あんた、ホントに滝沢さんが好きなん?」
「うん」
「ちょっ……ホントやめてーー! めっちゃオジサンやん! しかも不倫やん……っ!」
「不倫やないもん! まだ付き合ってないもん!」
「まだも何も……! とにかくアカンて!」
本当に、冗談ではない! 妹が不倫など! そんなことに諸手を挙げて賛成する姉など、そうそういるはずもないだろう。
「ミホ……お姉さんの言うとおりやで。やめといた方がええよ」
ミヤちゃんが、意外と常識人なところを見せて加勢してくれる。
いや、待てよ。これは実穂子のことが好きだからなのか……?
(もうっ! 実穂子の周りってどうなっとるん!? 人間模様、複雑過ぎるやろ!)
そんな風に、思考が現実に追いつかない事態に陥っている中、実穂子はますますややこしいことを言い出したのだ。
「うちの職場、不倫なんか普通やもん……みんな不倫しとるもん……」
「はあ?」
一体何なのだそれは。どういうことなのだろう?
「……例えばさ、靴売り場のMさんと、下着売り場のUさんとか、総務のTさんと、化粧品売り場のOさんとか、K部長とN課長とか……みんな、公認不倫カップルやもん!」
「嘘やんっ、そんなわけあるかい!」
思わずツッコまずにはいられない。
「嘘っちゃうもん!」
本当だとしたら、一体どんな職場なのだ。
「ミホ? それやからって、ミホまで不倫することないやん?」
ミヤちゃんが良いことを言ってくれた。本当にその通りである。
「それ、ミヤちゃんが言う?」
実穂子は、ジトッとした目でミヤちゃんを見つめている。今度は何だと言うのだろう。
「ミヤちゃんさ、ガールズバーの女の子と付き合っとるんちゃう?」
「えっ……?」
ミヤちゃんの顔色が変わった。もともと白い肌から、さらに血の気が引いている。
「あの日、カウンターで飲んでるとき、やけにこっちを見てくる女の子がおってさ。その目がやたら怖かったんやもん」
「……っ」
ミヤちゃんが、言葉に詰まっている。これは図星なのだろうか。
「あの娘の視線が怖かったもんで、あんまりちゃんと説明出来へんかったんやんか。引っ越しの事とか、いろんな事……」
ミヤちゃんは、がくんと首をうなだれた。
「私の家に遊びに来たんがバレたらどうすんの? 浮気やと思われるで?」
「……そっ、それは困る」
「まあ、ミヤちゃんの彼女にわざわざ会うことはないし、そんなん言わんけどさ」
「ミホ、ありがとう……」
さっきまでの勢いは何処へやら、すっかりしおらしくなってしまったミヤちゃんなのである。
「……どっちみち、私の片思いやもん。滝沢さんは、春香さんと付き合っとるんやし……」
実穂子は、さらに畳み掛けるような事を言う。
(今なんて?……ホント、どんだけややこしいんや!?)
実穂子を取り巻く、複雑な人間関係に衝撃を受け、私の心は千々に乱れるばかりであった。




