事件
事件に遭遇するお話。閲覧注意!
まったく、大胆不敵としか言えない犯行である。
いくら外に干してある下着とはいえ、家主である私たち姉妹がカーテンを開けてじっと睨みを利かせる中、堂々と盗みを働くとは。
いや……まあ、二人ともすっかり眠りこけてはいたのだが。それにしたって、尋常ではないふてぶてしさだ。
そのうえ、私たちが出掛けた隙を狙って、最初の犯行を行った点から鑑みると、どこからかこちらの様子を窺っているようなフシもあり、思わず背筋がぞくりとする。
私と実穂子は、早朝から外に出て検証してみたのだが、成人男性なら、このアパートの小さな庭を囲う申し訳程度の高さのフェンスなど、軽々と越えることができそうだ。いや、どうかすればフェンス越しにでも、洗濯物を盗るくらい容易い事なのかも知れない。
「そもそも、若い女性が下着を外に干す方が悪い!」などと言う人がいるかも知れないが、それを言われてしまうと身も蓋もない。
やはり、どんな状況であれ、他人のものを盗る方が悪いと私は思うのだ。
とにかく、この盗難事件から、私と実穂子の生活は一変した。夜眠るのは三時間毎の交代制となり、起きている方は、常に掃き出し窓の外の庭を監視するのだ。そして、手の届く範囲に金属バットや木刀が常備されるようになった。木刀は、実穂子が職場の誰かから借りてきたらしい。包丁は、さすがに物騒過ぎると言うことでやめたが、さながら、死地での野営のような生活であった。
警察に相談するか否か話し合ったのだが、私たち姉妹は血気盛んな漁村の野生児である。
大の男に敵うはずが無いことは重々承知なのだが、どうしても自分たちの手で賊を取り押さえる……というのは無理にしても、証拠になる写真の一つでも撮って警察に突き出してやりたいと、闘争本能剥き出しで、血をたぎらせていたのだった。
「いざというときの正当防衛って、どこまで許されるんやろなあ」
夕飯のおかずの肉じゃがをつつきながら、実穂子がポツリと呟く。
ちなみに、二人暮らしを始めてから、夕飯は大抵私が作っている。朝は、晩の残り物やパンだし、昼はそれぞれ適当に済ませてはいるのだが。
「ん〜、少なくとも、相手から相応の暴力を受けへん限り、手を出すのは許されてないんちゃうかな。過剰防衛って判断されたら、私らも捕まるやろ……」
私は、ちょっと茹で過ぎてクタッとしたほうれん草のごま和えを飲み込みつつ、そう答えた。
当然、私は刑法に詳しいわけではない。あくまで推論である。
「そやけどさ、既にじゅうぶん被害を被っとるやん! 安心して生活出来へんようになってしもたんやで?」
「うん……そうやよな。さすがに気持ち悪過ぎて、下着以外の洗濯物も、外に干せへんようになってしもたもんなあ」
「外歩いてても、後ろが気になってしゃーないし」
「私も。ついつい何度も振り返って、誰もついてきてないか確認するのが癖になってしもたわ」
「……これって、ある意味精神的な暴力受けてるってことやん?」
「私もそう思うけどさ、いくら何でも、こっちから積極的に手え出したらあかんわ」
『正当防衛の適用範囲』など、これまでの人生で考えたこともなかった。
決して『殺る気』が溢れていたわけではないのだが、自分たちの平和な暮らしが脅かされる理不尽さに、心底腹が立っていた。
両親には、まだ何も話していない。
いくら私と父が気まずい状態だとはいえ、娘二人がこんな目に遭っていることを知ったら、相当ショックを受け、気を揉むことだろう。
下手をすれば、私たち二人とも実家に連れ戻されるかも知れない。
飼い猫のユウに毎日会えるのは嬉しいが、やはり実家で暮らすことは勘弁して欲しい。
実穂子は、適当に両親の機嫌を取って、仲良くやれるかもしれないが、私にはそんな芸当はとても無理だ。
真っ直ぐ過ぎて不器用なこの性格では、また何度でも両親とぶつかってしまうだろう。
しかし、言わせて貰えば、私のこの頑固な性格は、父によく似ているのだ。それを言うと、父は真っ赤になって否定するだろうから、そんなことは口が裂けても言えないが。
それくらいの配慮は、不器用な私とて出来るのだ。
「隼人くんには、このこと話したん?」
隼人くんは、我が実家とはあまり仲の良くない田村家の長男で、民宿の跡取り息子である。一年前くらいから、実穂子と付き合っているらしい。
「うん……心配してくれとるよ。でも、あっちも民宿の仕事忙しいし、どうしようもないもんなあ……」
「そうやよなあ、男兄弟でもおったら心強いのにな。百合香は巻き込みたくないし……」
「姉ちゃんは、彼氏にこの事話したん?」
「ん? 彼氏? 別れたよ」
「は?」
「別れたんさ。こないだ会ったときに」
「何なんそれ!?」
「もうええの。新しい出会いを求めて歩き出すんやから」
「え〜っ、切り替え早過ぎるやろ!」
何とでも言うがいい。彼を傷つけた罪は罪として、忘れることはできないが、強がりだとしても、言葉だけでも前向きでいたいと思ったのだ。
こんな風に、最近踏んだり蹴ったりの私ではあるが、医療事務の仕事には、少しづつ慣れてきている。
まだまだぎこちなく見えるかも知れないが、鏡の前で笑顔の練習を重ね、ハキハキと明るく話すよう、意識していている成果なのか、受付や電話の応対で苦情をもらうことはなくなった。
相変わらず、院長の書いたカルテを読むのは苦手なのだが、今は取り敢えず、ナースや事務の先輩にカルテの内容を確認してから、レセコンに入力するようにしているので、ミス自体は減ったのだ。
しかし、いちいち他の人に訊ねるのは、やはり気が引ける。なるべく早く、院長の書き文字に慣れたいのだが、そこは、焦ってもなかなか難しい。
私を酷く苦しめる癖字についてはさて置き、院長自身は、面接の時の第一印象通り、とても穏やかで良い人である。
私が下着泥棒にあったことを話したときも、「帰り道、自転車で後ろをついていってあげようか?」などと、えらく気に掛けてくれたのだった。
院長に送ってもらうなど、さすがに申し訳なくて断ったのだが、その気持ちがとても嬉しかったのだ。
自分の身の安全は、自分で守る。
私と実穂子はそう決意して、暫くの間、かなり警戒しつつ生活していた。無論、洗濯物は常に部屋干しするようになった。そのせいか、あれから特に変わったこともなく平穏に日々は過ぎ、梅雨が明け、蝉の声が聞こえる季節となった。
その日は木曜日で、私の勤めるクリニックは、午後から休診だった。
仕事を終えて出た屋外は、まさに灼熱の砂漠もかくやといった暑さである。
早く、クーラーの効いた涼しい部屋で、アイスなど食べつつ、漫画を読んでゴロゴロしたい。そんな気持ちで帰路を急ぐ。
日差しがジリジリと肌を刺し、汗が止めどなく流れる。身体に張り付くシャツが酷く不快で、早くシャワーを浴びたくて堪らなかった。
帰宅した私は、玄関をあがってすぐの台所にある小型の冷蔵庫から、麦茶のボトルを取り出し、グラスに注いでグイッと一気に飲み干した。しかし、まだ喉の乾きは癒えず、もう一杯飲んで、やっと一息ついたのだった。
その後、身に着けている衣類をさっさと脱ぎ捨て、ポイポイと洗濯かごに放り込むと、浴室に入り、折戸をバタンと閉めた。
シャワーの温度を、人肌程度のかなり温めに設定して、シャーッと勢い良く、頭から浴びる。
(あ〜、気持ちいい!)
シャンプーをつけてゴシゴシと泡だてた髪を、シャワーで流しながら、ふと視線を右に走らせると、浴室ドアの摺りガラス越しに、何やらチラチラと動く黒い影が見える。
最初は気のせいかとも思ったのだが、やはり、時折目の端に黒い影が映る。
さすがにこれは変だと訝しみつつ、ドアに手を掛けた、そのときである。
バタン!と勢いよく、向こうからドアが開けられた。
そこに居たのは、黒い目出し帽を被り、黒い半袖Tシャツを腕まくりした、背の低い、ガッチリとした男だった。勿論、顔など全くわからないが、随分若いということは、雰囲気でわかる。
「えっ……? 誰?」
私は、正直ポカンとしてしまった。何だか状況がよく飲み込めない。
その男は、無言でそこに立ち尽くしている。
「えっと……誰なん? あはっ、本当に誰なんさ? 驚かせようとしとるん?」
私は、誰か知り合いのサプライズだと、半ば本気で思ったのだ。それほどに、現実感の無い状況であった。
その時、男が動いた。全裸の私に向かって、掴み掛かってきたのだ。
「……っ!?」
左手首を掴まれたが、全く声が出ない。
男は、私を浴室から引き摺り出そうと、渾身の力で引っ張る。私は、自分でも信じられないほどの力で、浴室から出るまいと踏ん張った。掴まれた手首には、男の爪が食い込むが、痛みなど全く感じなかった。私たちは、そのまま無言で揉み合った。どれほどの時間が過ぎたのか、全く分からない。
私は、右手に持っていた、ぬるま湯が出っ放しのシャワーヘッドを男に向けた。
男の顔に、バシャッとお湯が掛かり、驚いたように後ずさる。そして、男は、浴室のすぐ横の玄関からバタバタと外へ飛び出した。
不思議なことに、私はまるで躊躇いも怯みもせず、ぐるっとバスタオルを体に巻き付け、「待てっ!」と叫んで、男の後を追うべく、裸足で外へ走り出たのだが、その途端、手本を見ながらしか書けないはずの、『猥褻物陳列罪』という漢字六文字が、いやにくっきりと脳裏に浮かび、ハッと我に返った。男の姿は既にそこには無く、何処かへ走り去っていったようだ。
私は、すごすごと部屋の中に戻り、カチャンと鍵をかけた。その瞬間、膝の力は抜け、へなへなと腰は砕け、三和土をあがったビニール張りの床に、ペタンとへたり込んでしまったのだった。ガタガタと、体の震えが止まらない。
暑さでぼんやりしていたせいか、私は玄関の鍵をかけ忘れていたようだ。あんなに警戒して暮らしていたのに……気が緩んだ矢先の、痛恨のミスだった。
それにしても、まさかこんな恐ろしい目に合うとは……
これはもう、私と実穂子だけで抱え切れる問題ではない。一刻も早く、警察に届けなければ。
まかり間違えば、私は、最悪の結末を迎えていたかも知れないのだ。
あまりの出来事に、若干引き気味の方もいらっしゃるでしょうが、現在の私は、こうしてピンシャンして小説なんて書いてますので、どうぞご心配なく!(;´∀`)




