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問わず語り  作者: ごろり
13/105

帰郷

 防波堤に立ち、沖に浮かぶ船影を眺める。

 朝凪の海は、春の日差しにきらきらと輝いている。

 銀の鱗を煌めかせ、時折海面を跳ねるのはぼらだろうか。

 懐かしい潮の香りを胸いっぱいに吸い込みつつ、抜けるように青い空を見上げれば、とんびが大きく輪を描いて滑空し、かもめはひらりと舞い降りて、停泊する船の舳先へさきで翼を休めようとしている。


 こんな景色、京都で知り合った友人たちや、恋人の奥田さんは見たことがあるだろうか……そんなことを思いながら、灯台の立つ先端まで歩く。

 今は、たぶん八時半くらい。

 NHKの朝ドラを観てから家を出たから、そんなものであろう。

 家からここまで、ほんの目と鼻の先なのだ。

 この時間、多くの船が出漁しており、港は閑散としていて静かである。

 しかし、もう暫く待てば、またいつものように帰港する漁船で賑わい、今日の成果について話す漁師たちの野太い声や、豪快な笑い声で溢れることだろう。


 それにしても、こんなに時間を気にせず過ごすのは久しぶりである。

 ほんの二年前まで、当たり前のようにこのゆったりとした時の流れの中で生きていたことが信じられない。

 ついこないだまでは、ここから遠く離れた古都で青春を謳歌し、講義の始まる時間や、バスや電車の時間を気にして腕時計を眺めていたと言うのに……

 そして、週末のこの時間は恋人の腕に抱かれて目覚め、ひとしきりイチャイチャした後、一緒にのんびりと朝食を摂っていたというのに。

 一体何なのだろう、この生活の急変は。

 もう既に、あれは夢まぼろしの出来事だったような気さえする。


 防波堤の端まで来て、いつからここにあるのか分らない古い灯台を見上げ、塗料の剥げたその灯塔にそっと触れてみた。

 灯台などという、そこにあって当たり前のものを気にしたのは、かなり幼い頃以来だと思った。


(私、こんなことしてる場合やないな……)


 踵を返し、家へと向かう。

 今日はこれから身支度をして、伊勢の職安へ行くつもりである。

 明日は、地元の市役所の臨時職員採用試験を受けるつもりだ。

 民家が軒を連ねる路地の奥のそのまた奥、まさに迷路の行き止まりのようなところに我が家はある。


(ああ、この感じ、懐かしいわあ)


 漁で汚れた衣類や軍手を洗う、近所の家の外置きの洗濯機が、ガタガタと派手な音を立てて揺れている。

 子どもたちが、甲高い声を上げながらバタバタと走り去ってゆく。

 食料品店の前には、早口で喋りまくるおばちゃんたちが溜まっていて、私の方を一斉に注目する。


 これは非常に気まずい。


「なんやあんた、帰って来とったんか?」

「うん。学校卒業したもんで」

「そうなんか。仕事は?」

「今、探しとるとこ……」

「都会に出て垢抜けたやんか〜、婆ちゃんに似て別嬪さんになってぇ」

「え〜? あはは……」


 早くここから退散せねば。

 どうせ、私が去った後も、ひそひそと噂の的になるのだろうが。


 それにしても、この町は昔も今も人々の営みの気配が濃い。

 幼い頃から慣れ親しんだこの空気が、私は決して嫌いではない。

 いや、むしろ心から愛しているとも言える。

 しかし、この町で一生暮らせるかと問われると、違う世界を覗いてきた私には「否」と答えることしかできないのであった。


 早くここを出なくては。

 いくら生家とはいえ、戻らぬ覚悟で出た家である。

 いつまでも長居するつもりは毛頭ない。

 婿養子を貰うか、もしくは地元の若者と結婚するか。

 そのどちらかでもない限り、あと数年すればきっと、「いつまでもみっともない」と厄介者扱いされ、親とは険悪な関係になることが目に見えている。

 かと言って、妹の実穂子に養って貰うわけにはいかない。

 早く仕事を決めてから、あの子が住むアパートでの同居生活をスタートさせたい。


 遠距離恋愛となった奥田さんとも、実家にいる限りはなかなか連絡がとれない。

 両親にはまだ、彼のことは話していない。

 気恥ずかしいのもあるが、どんな顔をされるかと不安でもあった。

 まあ、十中八九、都会で悪い虫がついたと言われるに違いないのだが。


 今の時間、家にいるのは、漁師を引退した七十過ぎの祖父と、春休みをあと数日残した末の妹の百合香だけである。

 あの子のことだ、おそらくまだ夢の中か、もそもそと起き出して、寝癖頭のまま赤出汁の味噌汁と、ちりめんじゃこや炙った海苔で朝食を食べていることだろう。


 百合香は、今年高校三年生で、私の母校に通っている。

 華やかで目立つタイプの彼女は、地味な紺色の制服の時以外、いつも流行りのファッションに身を包み、マスカラやアイラインなど、目を強調するギャルメイクを施し、茶色く染めた長い髪を器用にアレンジしている。

 その出で立ちは、こんな田舎で見るととてつもなく違和感があるが、祖母譲りの美しさをもつあの子には良く似合っていた。

 そんな百合香は、高校卒業後、地元の美容専門学校への進学を希望している。

 それについては、「手に職をつけるのは良いことや」と、両親も賛成しているのだ。


「姉ちゃん、どっか行っとったん?」

 帰宅した私に、大きなあくびをしながら声を掛ける百合香は、家にいるときのいつものスウェット姿だ。


「ちょっと灯台見てきた。ゆっくり海を眺めるのも久しぶりやし」


「ふうん。今のうちに彼氏に電話したらええやん。お父さんとお母さんがおらんうちに」


「もう起きとるかなあ?」

「起こしたったらええやん」

「うん、そやな。そうするわ」


 私が京都から帰って来てまだ三日ほどしか経っていない。

 しかし、あの頃の暮らしとは何もかもが変わったせいで、もう随分時が経ってしまったように感じるのだった。


「佳也ちゃん、連絡ないからどうしたんか思てた」


 受話器越しに聞く奥田さんの声は相変わらず優しい。

 しかし、ほんの数日前まで彼の部屋で半同棲生活を送っていたなんて、自分でも信じられないほどに距離を感じる。


「ごめん。今、実家におってなかなか電話できる状況やないんよ」

「そうなんか。いつから妹さんと同居するんや?」

「仕事が決まってからかなぁ」

「そうか、頑張ってな」

「うん。奥田さんも秋にはちゃんと卒業してや」

「……はい」

「次に会うときは、西大寺で待ち合わせでええの?」

「京都と三重の中間地点やし、ええやろ?」

「分かった。奈良って近いんやけど行く用事なくて、電車の乗り換えでしか降りたことないわ」

「そうなん?」

「小学校の修学旅行で行ったことはあるけどな」

「どっか行ってみたいとこある?」

「石舞台古墳とか奈良公園。今回は奈良公園がええわ。鹿にお煎餅やってみたいもん」

「あいつらなかなか凶暴やで」

「え〜! そうなん?」

「煎餅持ってると突進してくるで」

「こわっ! でも、行きたい。また連絡するわ」

「分かった。元気でな」


 そんな他愛もない会話を交わして電話を切ると、百合香がこちらを見てにやにやしてしていた。


「姉ちゃんに彼氏なぁ……」

「……何なん、別にええやん」

「あんなに男嫌いやったのに」

「別に男嫌いやったわけっちゃうわ。何話してええか分からんかっただけや。そやけど、いつまでもそれじゃまずいかな〜って思て……」

「そりゃまずいわなあ」

「短大の二年間で、三人のひとと付き合ったんさ。あと、一人に告白して振られたし」

「何なんそれ、ビッチやん!」

「言い方っ! そこまでふしだらっちゃうわ!」

「姉ちゃんは極端なんやて〜。ゼロか百かみたいな」


 最近まで素朴で大人しい田舎の女の子だったくせに、高校デビューして以来、なかなか口が減らない。

 自分こそ、彼氏が途切れることがないくせに、よく姉のことをビッチなどと言えたものである。


「そう言えば爺ちゃんどこ行ったん?」

 話題を変えるため、そう訊ねると、百合香は「たぶん神社行ったと思う」と言う。

 なるほど。社務所を建て替えるとか言っていた。

 恐らく、氏子代表の一人として、その件で話し合いに参加しているのだろう。


 不意に足元にふわりと何かが触れる感触に驚いて、「ひっ」と声をあげながら下を向くと、そこにいたのは可愛い毛の塊だった。


「ユウたーーん! いつのまにそこにおったん?」


 実穂子が拾ってきた、真っ白な毛並みに金色の目をした雄猫で、我が家のアイドル『ユウ』である。

 思わず抱き上げて、ユウのふかふかの胸毛に顔を埋め、カリカリを食べたばかりの生臭い口元の匂いを楽しむ。


 初めて会ったときはまだ仔猫だったが、今や立派な成猫だ。

 恐らく、二歳くらいだと思われる。

 我が家で猫を飼う日が来るとは、夢にも思っていなかった。

 この町の漁師はその昔、四脚よつあしの畜生は不漁を招くとして、飼うのを避けてきたらしい。

 とは言え、今はそんなことを言う者も少なくなり、犬を飼う家は多かった。

 しかし、猫はあの発情期の声が嫌いだとか、光る目が恐ろしいとか、体がぐにゃぐにゃしているのがどうにも気持ち悪いとか言われ、あまり好まれておらず、飼う家は少なかった。


 そんなわけで、子どもの頃、拾ってきた猫をどんなに飼いたいと両親や祖父母に訴えても、頑として撥ね付けられていたのだ。

 ちなみに、百合香は特に動物好きではなく、何か生き物を拾って来ることはなかったし、ユウのことも一定の距離を保って見ているようだ。

 ユウ自身もまた、百合香と同じように彼女と距離を置いている。

 お互い、嫌うでもなく、近付くでもなく、クールな野良猫同士の付き合いのようである。


 それにしても、いくら実穂子に「拾った猫を私の代わりに飼って〜」と泣きつかれたからとて、両親がよくそれを了承したものである。

 私たち三姉妹がまだ子どもだった昔なら即却下だっただろうが、父は基本的には実穂子に甘いのだった。


 これが私の頼みなら、「アホ! 猫なんか捨ててこい! お前はいつも……」と頭ごなしに叱られて、要らぬ説教まで食らっても不思議ではない。

 しかし、いつだったか「何でお父さんは私にだけキツイん?」と不満を訴えたとき、父なりの言い分があることを聞かされたのだった。


 私は気づいていなかったのだが、祖母は私を溺愛するあまり、実穂子と私への対応にかなり差をつけていたらしい。

 あからさまに私を褒め、実穂子を貶すような発言もあったそうだ。

 私とたったひとつしか歳の違わぬ実穂子は、そんな祖母の態度にいたく傷付き、「婆ちゃんは私のことが嫌いなんや……」と、叔母の前で号泣したことがあったのだそうだ。


 実穂子を不憫に思った叔母からその話を聞いた父は、自分は実穂子の味方になってやろうと決心したらしい。

 もともと父に一番顔が似ているうえ、愛嬌があって気が利く実穂子は、父から特に愛されてはいたのだが。


 しかし、それだけならまあ無理もないと言うか、百歩譲って理解可能なことなのだが、まずかったのが、実穂子を褒めて、私を貶すという、祖母とは逆の依怙贔屓えこひいきをするようになったことだった。

 やはり母と息子である。

 やることが同じだということに、父本人は気が付いているのだろうか。


「私がもしも男だったら、漁師を継いであげられたのに……」とか、「婿養子を貰って跡を継ごう」とか思い詰めていたのは、そんな父に愛されたかったからだと言うことも、理由のひとつなのかも知れない。

 今なら、そう自己分析できる。

 ちなみに百合香は、両親からも祖母からも末っ子だからと可愛いがられ、ある程度甘やかされていたように思う。

 祖父のスタンスはよく分からないが、誰を特別扱いするでもなく、いつもマイペースそのものであった。


「ただいま〜」

 玄関から母の声がする。

 両親が、漁から戻って来たらしい。

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