プロローグ
次話投稿は未定ですが、これだけでもひとつの物語としてお読みいただける作りになっていると思います。
夜のベランダに出て、洗濯物を干す。
これは、いつも早朝から忙しくしていた母譲りの習慣だ。
夜の空気に、どこか色っぽい沈丁花の香りが潜んでいる。
この花の香りは甘いようでいて鋭い。そこが色香を感じさせるのだろうと、私は昔から思っているのだ。
物干し竿に掛けた、夫のシャツや、私より大きくなった息子たちの衣類が夜風に揺れ、ほのかな柔軟剤の香りが夜の匂いと混じり合う。
私は、その、どこか郷愁を誘う匂いをすうっと胸に吸い込み、目を閉じて、ため息をついた。
「思えば遠くへ来たもんだ……」私は、微かに唇だけ動かして、そう呟く。
故郷を離れてから、もう何度目の春が巡ってきたのだろう。
たまの帰郷は胸躍るが、それはもはや、年に一度か二度の家族旅行と言うべきものになり、神奈川県某所にある賃貸マンションの3LDKが、私たち一家にとって、旅から戻り、ほっと安堵する家となって久しい。
◇◇
私たち一家が以前住んでいたのは、三重県伊勢市である。
言わずと知れた、伊勢神宮のお膝元だ。
あの辺り一帯は国立公園に指定されており、悠久の歴史を刻む神宮の森や、複雑に入り組んだ海岸線が特徴のリアス式海岸など、自然の風景が美しい。
伊勢神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)とに別れており、その摂社、末社が、市内や周辺の市町村に125箇所も点在している。
私は、子どもたちが幼い頃、内宮さんの参道沿いを流れる五十鈴川の川べりをベビーカーを押して散策するのが好きだった。
夫は毎日帰宅が遅く、所謂ワンオペ育児だった私は、一度機嫌を損ねると延々と泣いて暴れる長男と、まだ何も分からぬ赤子であった次男との三人の生活に疲れ果てていた。
疲れてはいるが、家に籠もっていると気が滅入ってしまう。
「もう! こっちが泣きたいわ……」と、途方に暮れ、軽自動車にベビーカーを積み込み、オムツ、着替え、おやつやミルクなど、必要な物を詰め込んだマザーズバッグを載せ、今日は児童館、明日は友人宅、その次はどこへ行こう……と、日々流浪の民のような生活を送っていたのだった。
その行き先の選択肢の中に、車なら十分ほどで来られるこの場所があった。
確か、その頃はまだ駐車場は無料で開放されていたはずである。
ここは特に、春の景色が美しい。
駐車場から川沿いにかけて続く、空気の色までが淡紅色に染まるような満開の桜並木を見上げながら、「見てみ? お花がいっぱい咲いて綺麗やなあ」と、ぐずる長男をなだめつつ、その可憐な花びらを拾い、唇に押し当てて桜笛を吹いてみせた。
長男にやらせてみても、なかなか上手く出来ないらしく、余計にイライラさせたりもしただろうか。
しかし、こんな自然との触れ合いが、子どものみならず、自分の心をも慰めていたのだった。
(ああ、そう言えば、高校時代は、この五十鈴川で遊んだこともあったような……)そんなことを思い出した。
近くの陸上競技場で競技会があった帰りだったと思うが、神域を流れる川での水遊びなど、果して許されていたのだろうか?
それとも、高校生らしい悪ふざけだったのだろうか……あまりにも昔の記憶で、今はもう定かではないが、《おかげ横丁》と呼ばれる土産物屋や飲食店が軒を連ねる参道が作られる前は、あの辺りは赤福本店と少しの土産物屋があるくらいで、何の変哲もない河原だったような気がするのだ。
それ以前からも、内宮さんや外宮さんには、入園、入学、卒業など、節目毎に参宮し、幼少期から心親しんできたので、今でも帰郷した折にはなるべくご挨拶に伺うようにしている。
伊勢の市街地には、運河沿いに蔵が立ち並ぶノスタルジックな町並みや、強い風雨から家を守るための工夫である、きざみ囲いと呼ばれる木の板で外壁を覆った古民家もちらほらと残っており、この地方独特の風習である、玄関の軒下に一年中掛けられたしめ縄を随所で見ることができる。
しかし、それ以外は、どこにでもある寂れた地方都市といった風情で、公共交通機関も発達しているとは言えない。
そのため、生活するには車が必須だが、食料品、日用品等の買い物ができるスーパーや、飲食店、個人病院の数は人口の割には多い。
私の印象ではあるが、飲食店では伊勢志摩定番の魚介類を扱う店に加え、意外とフレンチやイタリアン、鰻屋、焼き肉屋が充実している。
古来より、御食国と呼ばれていただけあって、ご当地スーパーの魚介類は新鮮で美味しく、地元でとれた新鮮な野菜などもたくさん並んでいる。
また、松阪牛で名高い松阪市の隣市でもあるため、肉も良いものが比較的安く手に入るし、あとは、赤福のような餅と餡を使った菓子類が、本当にどれも美味しいのだ。
日常の買い物が愉しいということは、暮らす上で大切なことではないだろうか。
その点では、刺激や娯楽を求めなければ、なかなか住み良い町だと言える。
私は、この愛すべき小さな町で、数々の仕事を経験し、妻となり、母となったのだが、それはまた、改めてお話しするとして、ここからさらに遡ること数十年前、私の子ども時代を過ごした生まれ故郷のことを、ぽつりぽつりと語ることをお許しいただきたい……
◇◇
私は、伊勢にほど近い、とある漁村に生を受けた。
そこは、昔ながらの濃密な近所付き合いと、独特な風習が残っている地域だ。
港には、小型の漁船がぎっしりと停泊しており、漁師たちは老いも若きも覇気に溢れ、「今日はどうやった?」「まあまあやな!」などと、大声で話しながら、水揚げした魚介類を漁協の市場へと運ぶ。
その市場でも、競りを行う男たちの野太い声が響いている。
海辺の海女小屋では、漁を終えた女たちが、賑やかに談笑しながら火にあたっており、海女だった祖母や大叔母が、その火で焼いたサザエやウニの詰め焼きを、ときどき私や妹たちに食べさせてくれるのが嬉しかった。
老人たちは、海辺に置かれた椅子に腰掛け、日がな一日のんびりとお喋りに興じており、ときどき私のような幼い子どもの相手をしてくれた。
父曰く、私は『フナムシ爺さん』と呼ばれる老人の後をついて回っていたそうだ。薄っすらと覚えてはいるが、朧気な記憶である。
保育園に入る前だから、おそらく三歳くらいの頃のことだろうか。
その爺さんは自分のついている杖で、素早く逃げるフナムシを一匹一匹潰して回っていたそうで、今考えると罪もない虫が可哀想ではあるのだが、あの老体があんな素早い虫を細い杖の先で潰すなど、なかなか只者ではなかったような気がするのだ。
それに、まだ三歳程度の幼子を、「海に落ちるなよ!」とだけ言って老人に任せるなど、親や祖父母たちも忙しかったとは言え、大した離れ業だと思う。
今、生きて四十代を迎えていることが奇跡のような気もする。
そんな海沿いの道路から一歩路地に入ると、そこはさながら複雑に入り組んだ迷路のようで、肩を寄せ合うように小さな家々が軒を連ねている。
その間を、獣のように元気な子どもたちがじゃれ合いながら駆けてゆく。
公園なんてなかったし、車の入れない細い路地ばかりで、どこででも自由に遊べた。そもそも、車なんてそんなに走ってもいなかったが。
海岸線の岩場を探検したり、山に分け入って野犬を探したり、秘密基地を作ったり、そんなことがとても楽しく、海を照らす陽の光のようにきらきら輝いていたあの頃。
こんな生活が、昭和の後期から平成に移り変わろうとする時代にもあったのだ。
そんな長閑な暮らしが息づくこの土地では、前述の通り、ほとんどの家が漁業を営んでおり、その例に漏れず、我が家もまた、代々続く漁師の家だった。
父としては、もし、私が男だったら、跡を継がせたいと思っていたらしい。
そんな父とて、最初から漁師になりたかったわけではないようだ。
あまり多くを語らないが、何か夢があったらしい。
なぜ、その夢を追わなかったのかと、父に訊ねたことがあるが、この家の長男として生まれた以上、父親の跡を継いで漁師になる他、選択肢はなかったのだと言う。
(いや、それは自分次第だったんじゃないか?)
当時はそう思ったが、今では父の言うことも分からなくはない。
なぜなら、父と同年代の漁師の家の長男たちの多くが、中学もしくは高校を出た後、父親の跡を継いでおり、ごく若いうちに家庭をもって、妻と一緒に船に乗っていたからだ。
この辺りの漁師は、夫婦で漁に出るのが普通なのである。
私の両親もまた、同じように二人で漁に出ていた。
母は独身時代、大阪で商売をしていた親戚の元で働いていたことがあるらしいが、そのまま都会で暮らすか、戻って漁師の妻になるべきかと悩んだ結果、周りの勧める父との縁談を受け、嫁いで来たのだと言う。
最初こそ、跡を継ぐことにあまり積極的ではなかった父も、歳を重ねる毎に、運と腕次第で一度に大金を得ることができるこの仕事が面白くなり、漁師としての自信と誇りを持つに至ったようだ。
自然が相手の仕事ゆえ、ままならないこともあるが、勤め人のように人間関係に悩むこともないし、休むも働くも自分次第だという自由さも、この仕事を気に入っている理由だと、私に話してくれたことがあった。
しかし、漁師がどんなに魅力的な仕事であったとて、父の子どもは私を筆頭に女ばかり三人である。
デリカシーのない親戚からは、「あんたとこのお父さん、子どもが生まれるたんびに女やからガッカリしてたんやで」と聞かされて育った。
当時は出生前の性別診断などなく、生まれるまでどちらか分からなかったらしい。
今ではそこまで男尊女卑な発言はなくなったようだが、当時は年端もいかない子どもへも悪気なくそんな言葉が投げつけられていた。
何しろ、男の子を生むことは大切な嫁の務めであって、長男は特別待遇を受けて然るべきという考え方が、当の女性たちにも、子どもたちにも、当然のように刷り込まれていたからだ。
ゆえに、そんな発言を咎める者などいなかったし、むしろそれくらいのことを軽く笑い飛ばせないようでは、「女のくせに愛嬌がない」そう言われても文句は言えなかったのだ。
幸いにと言うか、私や妹たちはまだ言葉の意味を深く考えない子どもだったので、そんな心無い発言にもただへらへらと笑っていたのだが、今思えば一番傷ついていたのは母かも知れない。
(私が男の子やったら、漁師になってお父さんを喜ばせたるのにな……)
実際、幼い頃の私は、ことあるごとにそう思って生きていたような気がする。
「婿養子をもろて、跡を継いでもええんやぞ」
成長と共に、家族のみならず、親戚からもそう言われることが多くなっていたが、当時の私は、その言葉に納得し、素直にその気になっていた。
しかし、その素直さも思春期を迎える頃にはすっかり消え失せ、代わりに強い反発心が生まれていたのだ。
高校生になると、その反発心はさらに強くなり、「家から通えへんくらい遠くの学校に進学してひとり暮らしがしたい! 婿養子をもらって跡を継ぐなんて絶対嫌や!」そう思うようになっていた。
別に父母や祖母は私に進学するなとは言わなかったし、むしろ賛成してくれていたと記憶しているが、祖父は「女子やのに、無駄な学をつけるとややこしい」などと言っていた。
しかし、これは何も祖父が少数派なわけではなく、高校を出たら就職し、二十代半ばまでには嫁ぐことこそ女の幸せ。
そんな考え方が依然として多数派で、私は、そんな故郷の空気に嫌気が差していたのだ。
今になって考えると、それもまた幸せの形だと思うし、どこへ行こうが、行くまいが、幸も不幸も自分の心の持ち方次第だと思うのだが、当時の私はまだ子どもであった。
交際を申し込まれたことは何度かあったが、臆病だった私は、未だ恋すら知らなかった。
それなのに、結婚へのタイムリミットが迫っているような気がして恐ろしかったのだ。
とりあえず逃げたい、とにかく遠くへ行くのだと、焦燥感に駆られていたのかも知れない。
そんな私を可愛がってくれ、進学にも賛成してくれていた祖母が亡くなったのは、丁度高校の卒業式を終えたばかりの頃だった。
痛みを和らげる処置を施され、最期は安らかに息を引き取ったその顔を見て、私の気持ちに、ひとつの区切りがついた。
短大進学のため、京都へ旅立った日のことは、あまりよく覚えていない。
それから二度と故郷に住むことは無いなどと、そのときは考えなかったが、なんとなく(これでお別れなんだな)そう思わずにはいられなかった。
ごくありふれた景色だった海の煌めき、打ち寄せる波音、鷗の鳴き声、潮の香り、わかめや干物を干す独特の匂い、馴染みの人々の笑顔、煩くて眠れなかった酒好きのおじさんたちの騒ぐ声さえも、これを限りと思うと全てが懐かしく、美しく、愛おしく思えた。