ご
「あ、うん。それがいい。ありがとう」
眠っている俺を気遣う小さな声で、千里が携帯片手に喋っていた。
ベッドに腰掛けている為、横になる俺からは背中が見える。裸の……パンツだけは履いていた。
千里の背中は広い。いつの間にこんなに成長したのだろう。
昔は両腕で簡単に抱擁できていたのに。
「え?なにそれ。あー……知らない。陽季さんが許すんなら買えば?」
楽しそうに笑う千里。
「…………あ」
携帯の向こうの声に耳を傾けながら、振り返った俺と目があった。
千里はにこりと微笑むと、俺のもとへとベッドの上を這ってくる。
「良かったね。うん。……じゃあ、バイバイ」
電話を切り、携帯を投げ捨て、千里はとうとう俺の真横へ。
「おはよう、葵」
千里が艶々の柔らかい唇で俺の額にキスを落とした。滑らかな絹のような髪が俺の胸にかかって滑る。
「…………おはよう、千里」
「今、陽季さんとお出かけ中の洸から電話あって。ガイドブックに載ってたケーキ屋さんにいるみたいなんだけどさ、お夕飯のデザートにどのケーキがいいかって。あおの分は洸が双子パワーで何食べたいか分かるから平気らしいよ」
双子パワー凄いな…………まぁ、お酒さえ入っていなければ、好き嫌いは基本的にない。
「今は11時。あおはお昼ご飯とかどうしたい?二人は外で食べて帰ってくるって。お腹空いてる?」
「……………………少しだけ」
「分かった。軽くシャワー浴びてからなんか食べ物ないか探してくるよ。あおはゆっくりしてて。昨夜はご褒美一杯貰っちゃったから」
こなれた手つきでシーツの中に手を忍ばせ、俺の腹をさする千里。
昨夜は、風呂場からの流れでベッドで続きをしたいと言われ、しかし、俺達の滞在後に入るハウスクリーニングのことを考えると、櫻の別荘のベッドでするのは遠慮したいと俺は強く返した。すると、千里は両手一杯のバスタオルを持ってきて、「これを下に敷いてすればいいよ。どれもこれも毎年大量に貰うお歳暮のタオルだから気にしなくていいし」と言い、俺も正直、我慢の限界だったため、タオルの上で続きをしたのだ。
それらのタオルは消え、ふかふかですべすべのベッドの上で俺は眠っていた。疲れ果てて眠ってしまった俺の代わりに千里がせっせと働いてくれたのだろう。
家事は嫌いなのに、俺のこととなれば、十分過ぎるぐらい気を利かせてくれるのは嬉しいようで、微妙なところだ。
俺は千里にちゃんと返せているだろうか。
…………俺達の天秤は傾いている気がする。
「…………だるいよね……?ごめん…………あの……本当はご褒美だからとかじゃなくて、単純に僕が欲しがりだから、あおに無理させちゃった……」
険しい顔をしてしまったのか。
千里が俺の顔を見てネガティブモードに入る。
直ぐに訂正しないと。
「違う。……今はだるいが、昨夜は気持ち良かった。…………その…………俺も欲しがりだから…………気にしないでくれ………………ただ、後始末をお前に任せっきりにしてしまったから……」
素直になれ。恥ずかしがって言わない方が、千里を傷付けてしまう。…………しかし、いざ実践すると、本当に恥ずかしい。どうして千里はこんなことをぺらぺらと口に出せるのだ。
だが、暗い表情をしていた千里は俺の言葉に目を丸めると、長い睫毛の瞼を瞬かせて微笑んだ。
窓からの日差しの下でするそれは女神様みたいな笑みだった。
「後始末だなんて。眠ってるあおの体を隅々まで触らせて貰えるんだから、僕にはご褒美の内だよ。寧ろ、疲れ果てて眠ってるあおに追い打ちかけちゃってごめんね。して直ぐのあおって感度高いんだもん。しょうがないところあるんだけどさ。無防備過ぎて、追加でしちゃった。あの状態で眠らせておくのもかわいそうだったし」
何がとは聞かない。………………………………心配して損したかも。
「てことだから、休んでて。あとでシャワー浴びる時は僕が手を貸してあげるから。あ、大丈夫。十分気を付けるから」
何がとは聞かない。………………………………絶対に一人でシャワー浴びるからな。
千里はサイドテーブルに置かれた髪紐を手に取ると、髪を纏めて部屋を意気揚々と出て行った。
薄く開いた窓から丁度良い風が入り、純白のレースカーテンを揺らす。外は眩い晴天と緑。
幸せな朝だ。
俺は千里の残り香を求めて彼の枕にそっと鼻を付けた。
「………………眠たい……」
少し行儀が悪いが、今日ぐらいはいいだろう。
俺は二度寝をすることにした。
「葵、お兄ちゃんだぞー」
ソファーに寝転がり、千里の膝枕で、喉かに進行するお昼のテレビ番組を見ていると、お出かけから帰ってきた洸祈が両手をあげて俺の胸に飛び込んできた。
「いっ!?」
腰に……響く。
「洸祈、帰ってきたらまずは手洗いうがいっていつも…………葵君、大丈夫!?」
陽季さんは瞬時に状況を理解し、荷物を床に放置して洸祈を俺から引き剥がした。
「帰ってきたらまずは弟にただいまのスキンシップだろ?」
「ちょっと、洸祈、葵君は千里君と激しいスキンシップを終えたばかり…………」
言いかけて、俺の渋い顔に気付いたようだった。陽季さんが慌てて口をつぐむ。
年上で誠実な陽季さんと言えど、俺にも譲れないことがある。
「俺達だってジュースの奢りを賭けて競走したじゃん。ま、俺の圧勝だったけどね。俺、足早いから」
「はいはい、俺の方が足遅いから。兎に角、帰ってきたら手洗いうがいが先。家族の為にも。いいね?」
「はーい。あとで沢山頭撫でてあげるからねー。愛しの弟よー」
洸祈は俺に手を振って洗面所へと歩いて行った。
「何あれ。年中ブラコンだけど、今日は一体どうしたのやら」
千里が俺の頭を片手間に撫でながら首を傾げる。
「出かけた先でね、小学生ぐらいの兄弟見掛けてさ、疲れたって言う弟のことをお兄ちゃんがおんぶしてたんだ。仲良さそうで、ふと、お兄ちゃんみたいなことをもっとしたくなったんだと思う」
「洸はすでに十分、お兄ちゃんだと思うよ」
「俺もそう思う。ただ……寂しくなっちゃったのかも。いつの間にか、成長しちゃったんだなって――俺も思う時あるから」
「鬱陶しく思わないであげてね」と優しい笑みを溢した陽季さん。
俺も千里も荷物を片付ける陽季さんの後ろ姿を見て何も言えなかった。
しかし、洸祈を鬱陶しく思ったからではない。陽季さんの言葉が図星だっただけだ。
俺も千里の大きくなった背中を見て、成長したなって思った。
昔は泥だらけになって遊んでいたのに、今はもうしない。
足が疲れたからと洸祈に背負ってもらうこともきっとないだろう。
昨日も一人で踏ん張る千里を見て、頑張ったな、偉いな、って思って、「助けてよぉ」と泣きついてくる姿が見れなくなったんだなと考えると寂しくなった。だからこそ、昨日は赤飯だったのだが。
「ところで、今夜の夕飯なんだけど、裏庭で星を見ながら食べない?洸祈が線香花火サバイバルするって言ってたし」
「サバイバルって……まだ言ってたんだ…………星見てご飯は賛成。あと、普通の花火なら僕は賛成」
「俺もです。サバイバル以外は賛成」
洸祈とサバイバルのセットは不吉な香りしかしない。
「ありがとう。あ、洸祈、やっぱり二人ともサバイバルはしないって。普通の花火大会しようか」
手洗いうがいを終えた洸祈がムスッとした顔で突っ立っていた。陽季さんは無視して台所で作業する。多分、陽季さんは洸祈の表情が分かるからこそ、敢えて目を逸らしている気がする。洸祈も必死に熱い視線を向けるが、陽季さんは見てくれない。
「…………サバイバルしない普通の花火なんてないから。普通のサバイバル花火するから。よし、解決。今夜は普通にサバイバルだから」
ビシッと指を立て、洸祈はソファーで寛ぐ俺達をキリっとした表情で見つめた。
千里の心臓が大きく振動したのを彼の膝に置いた手のひらで感じる。
千里は不機嫌な時の洸祈が本当に苦手だ。理由は単純で、洸祈のストレス発散に千里が使われることが多いからだ。千里を苛めて楽しんでストレスを発散させる。
普通のサバイバル花火……きっと千里が洸祈に追いかけ回されるに違いない。
千里は「だから、サバイバルってなんだよぅ……」と小さく呟いた。
洸祈と千里。額を付けてこそこそと語り合う。
「ただの線香花火じゃん」
「いや、サバイバル花火」
「え?どこが?線香花火してるだけじゃん」
「落ちたら死ぬ」
「え?え?これ落ちたら死ぬの?」
「ああ…………これ、俺達の命的な」
「え?え!?ヤバくない?陽季さんの命落ちそうだよ!?」
「え!?はる!?」
「あ…………あああ!落ちた!?陽季さんの命落ちた!」
「はる!生きろ!陽季!!まだ、まだ生きろ!生きろよぉおおおお!」
陽季さんの持つ線香花火から小さな火球が落ち、弱々しい光は直ぐに土に沈んだ。
陽季さんは「落ちちゃったね」と言ったが、阿呆二人は、長い子芝居の末に悲鳴をあげた。
「陽季ぃいいいい!死ぬなぁあああああ!」
「陽季さんっ、死なないでよぉ!」
洸祈に肩を揺さぶられ、この二人どうしようか?の顔で俺を見る陽季さん。
「ほっときましょう。…………千里、お前の命も落ちそうだぞ」
「ああああああ!僕の命!生きてよぉ!」
「あ、落ちた。っ、やった!ちぃの負けな!このサバイバル、ちぃの負け!俺の勝ち!」
陽季さんの命が尽きたのをこれでもかと惜しむふりをしたのに、千里の火球が落ちた瞬間、洸祈は嬉々とした声をあげた。
「負けって何さ!いいよ、僕にはまだあおの命があるもん!」
「俺の線香花火の方が強いし!最強だから!」
ただの個体差じゃないか。
多くの突っ込みを入れたいところだが、この茶番に割り込んだ時点で二人の阿呆の味方と思われてしまう。今夜の俺はそちら側にはいかないからな。
大人な陽季さんを見習うぞ。
ちらちらと千里が期待のまなざしを向けてくるが、勿論、俺は見ないふりをした。
「はい、千里君。まだまだ余ってるから。これあげる」
「え…………線香花火?いいんですか?」
「花火セットとは別に、線香花火セット買ったからね。いっぱいあるよ」
陽季さんは自分の分も持つと、線香花火に火を付けた。
陽季さんと千里の命とやらが生まれる。
「なにそれ反則!」
洸祈が不貞腐れるが、陽季さんに「何?洸祈は俺が生き返るの不満なわけ?」と返され、彼は口を真一文字に結んだ。
その時、洸祈が持つ線香花火が勢いを失って消えた。
俺が持っていた花火も彼の数秒後に火が消えた。
洸祈も俺もその現場をしっかりと目撃しており、洸祈は目をぱちくりとさせて消えた花火の先を見る。
結局、俺の線香花火が地味にサバイバルに勝利し、かと言って、千里と陽季さんは新しい線香花火に火を付けて花火を楽しんでいる。俺と洸祈の勝負は見ておらず。
……………………いいよもう。
分かりやすく拗ねた洸祈は花火セットから一本の花火を手に俺達から離れて立った。
花火に火を付け、やがて、金色の光が勢い良く吹き出す。
「……………………葵君、これあげる」
陽季さんは手にしていた線香花火を俺に渡すと、新しい花火を持って一人花火中の洸祈に近付いた。
洸祈は陽季さんに話し掛けられても、暫くはそっぽを向いていたが、やがて諦めて喋り出す。二人は花火を見ながら喋り、陽季さんが洸祈の背中に触れる。洸祈は肩を竦めると、そのまま陽季さんに凭れた。
洸祈の花火から火を貰い、新しい花火を点火する。
洸祈が笑い、陽季さんも笑う。
「何話してるのかな。楽しそうだね」
「そうだな…………」
「その顔、羨ましいの?」
顎に手を当てられ、線香花火が千里の顔に変わった。
怒っているでも、拗ねているでもない顔。
「……………………俺はあまり怒らないから」
耐えている訳では無い。ただ、洸祈程感情表現がハッキリしていない気がする。
いつも内側に溜め込んで……大丈夫が口癖で……それで千里にモヤモヤさせて……。
千里に隠すつもりなんてないが、結局、俺は「こんなことは言わなくていい」と思って、色々なことを全然伝えられていない。
洸祈みたいに怒った時に怒って、拗ねた時に拗ねられれば……また直ぐに笑えるようになる気がするのに……。
「あおは怒ってても口にしないだけで、良く怒ってはいるよね」
「あ……………………ごめん」
「えー。謝らなくていいんだよー。僕はあおのそんなとこも含めて愛してるんだからさ」
千里の線香花火の先が落ち、彼はまた新しい線香花火に火をつける。
「例えば、直ぐ怒る洸と僕が恋人同士だとして……想像するのもヤダな。毎日尻に敷かれるみらいが未来が見えるじゃん………………は、さておき。長続きしないよね。恋人同士になる前に本能で分かるもん。洸とは恋人にはなれないって。友達としては大好きだし、頼れるけど」
「なら、陽季さんとは?」
「え………………どっちが攻め?」
千里が大嫌いなエノキを口に大量に含んでしまった時のような顔をした。これは間違いなく怒っている顔だ。因みに、どっちが攻めかと聞かれると…………陽季さん優しいから……千里に頼まれたら…………………………洸祈が何故か俺を振り返った。ピタリと笑うのを止めて俺を見ている。聞こえた?――そんなはずは無い。距離もあるし、風向きも俺達が風下だし。
「もしもの話だよ」
「………………陽季さんか…………」
千里が割と本気で悩み始める。陽季さんとの未来を考えているのだろう。
相変わらず洸祈が俺をじっと見詰めて、隣の陽季さんが首を傾げているが。
「僕が攻めなのに、身長差が気に食わない。それがなくても、陽季さんは僕を甘やかし過ぎるから駄目。甘やかされ過ぎるの僕苦手なんだよね。洸みたいに駄目人間じゃないと、あの甘やかしっぷりには耐えられないよ。だから、僕は葵じゃないとしっくりこないの。時々は相手にも甘えて貰わないと。葵はどうなのさ」
「え………………」
陽季さんと目が合う。そして、洸祈は俺と陽季さんを見比べると――
「陽季は俺のだからッ!誰にも渡さないからッ!陽季のバカヤロー!!」
「え?え?俺!?なんで突然、俺のこと馬鹿呼ばわりなの!?」
洸祈が陽季さんの腰にしがみついた。陽季さんは唐突に抱き着かれ、意味が分からず慌てる。しかし、俺も千里も理由が分かる気がして、涙目で睨んでくる洸祈から顔を背けた。
「ヤバいね…………怒ったよ……」
「ああ…………耳ざとい……」
「陽季さんに近付くものは赤い悪魔に暗殺される……僕達、今日までの命かもしれない。出る杭は灰にするとか言い出すよ」
「同意だ。不必要に見ないようにしよう」
恨めしそうな洸祈からは目を離し、大人しく線香花火をするに限る。
「行くよー!」
「んー」
陽季さんが火を付ける。
そしてそれを、縁側に座って俺と千里の間に挟まる洸祈がケーキを食べながら眺める。
隙間風に似た音が夜空へと伸び…………――
「たまやー!」
千里の掛け声と共に赤と黄色の花火が上がった。
ファミリー用だが、なかなかの大輪。打ち上げ花火もここまで進化しているとは。俺達が子供の時は、そもそも手持ち花火しかなかった。父さんが危ないからと、買わなかっただけかもしれないが。
「凄いねー。どんどん上げるね」
「んー」
「待って、陽季さん。ねぇ、洸、これで花火をバックに写真撮ってよ。花火も写るはずだから」
「んー…………え?俺?」
「そうだよ。撮ってくれたら、陽季さんとのツーショット撮ってあげるよ?」
「ふむ……………………………………………………やろう」
スマホを片手で操作し、カメラを起動させた状態で洸祈に手渡す千里。
洸祈が食べかけのケーキを置いて、腰を上げた。千里が「ありがとう」と言って、俺の肩を掴む。
撮るのは千里と俺の写真らしい。
「あ、写真撮るの?洸祈、準備出来たら言って」
「これでも俺、20年前にプロ目指してたから。そこそこの腕があるって、その界隈で有名な人が――」
「うんうん。分かった。準備出来たら言ってねー」
「分かった。プロに任せろ!」
キメ顔の洸祈から察するに、嘘なのは明らかであり、そもそも20年前の洸祈は赤子だ。きっと、洸祈の一生に一度は言いたいセリフ50位以内に入っていただけだろう。
「はる、風が……止んだ!止んだぞー!!インスピレーションが降りてきてる!」
「うーん?………………じゃあ、火付けるねー」
そして、俺達の背後で花火が盛大に花を咲かせ、肩をギュッと寄せてくる千里と俺の影が足元で長く伸びた。
五回目の正直で、俺達と分かる姿で写真を撮ってくれた洸祈は、陽季さんに大層褒められていた。これこそ、俺達の苦手な陽季さんの「甘やかし過ぎる」側面だろう。
そして、千里が二人の写真を一発で撮り終え、その後は買ってきた花火を贅沢に使用して花火大会を終えた。
途中、花火を装備した洸祈が涙目の千里を追いかけ回していたが、それ以外は平和だった。「髪焦げる!来んな!」と千里が叫んでいた。
翌日。
「二人寝てるねー」
助手席で地図と睨めっこしていたせいで気付かなかった。
確かに、後部座席から聞こえていた歪な合唱がいつの間にか止んでいる。
真面目に聞いていると耳が痛くなる為、無意識に意識から締め出していたせいだ。
振り返れば、千里と洸祈がそれぞれ窓に凭れて眠っている。
二人の間には食べ散らかした菓子のゴミが。
「……陽季さんの車で…………ごめんなさい。後でちゃんと片付けさせます」
「いいよいいよ。月華鈴の移動の時とか、後部座席で皆がパーティー開いてるから。別に綺麗に使ってる訳でも無いし」
いつも迷惑を掛けてばかりで申し訳ない気持ちで一杯だ。
「でも、そろそろだね。千里君のお家」
「あ………………」
「千里君、お家の前来たよー」
「千里、起きろ」
肩をゆさ振れば、千里は薄目を開け…………深い深い溜め息を吐いて蹲った。
聞こえていたようだ。
――コンコン。
千里に一番近い窓の向こう。
控え目に窓を叩いたのは白黒のワンピース――否、メイド服の女性だった。
彼女は櫻家のメイドさんの由紀さんだ。
俯いたままへっぴり腰になる千里に気付かぬまま、陽季さんが遠隔操作で窓を開ける。
「お帰りなさいませ、千里様」
「…………………………………………」
「あ……千里君?」
「洸祈様、葵様、陽季様、この度は千里様に付き添って頂き、ありがとうございました」
「……………………千里君、どうする?」
陽季さんは未だ爆睡中の洸祈と黙考中の俺を見て、動かない千里に声を掛けるが、千里も無言で小さくなったまま。
そもそも、帰りの道中で櫻家に寄りたいと言い出したのは千里自身だ。
どうやら、お祖父様からの呼び出しのようだったが、それでも選んだのは千里。
今回は少しは話を聞いてくれるメイドさんに言って、櫻家当主に会うのを辞めるか、千里を無理矢理にでも外へ出すか。
さて、どちらに…………。
「お久しぶりです、千里さん!皆さんも入ってください!良いでしょう?由紀さん」
「はい、翼様」
翼さんが現れ、音もたてずに高くて頑丈な門扉が自動で開いた。
由紀さんがお辞儀をして、中へ入るよう促してくる。
「…………いいのかな?俺達まで……」
困惑する陽季さんに答える者はおらず、陽季さんは車を櫻家の敷地内へ進めた。
「初めまして。俺は櫻翼。千里さんの伯父…………って言うのも変な感じなんですが…………複雑なので」
「あ、俺は陽季って言います。えと…………千里君の知り合いみたいな……」
「存じ上げております!日本舞の代表、月華鈴の夕霧さんですよね!雑誌とかテレビに出るような超有名人に会えるなんて、俺、初めてで!後でサイン貰ってもいいですか!」
「え…………あ、はい。俺なんかので良ければ…………」
「ちょっと、ちょっと、サインの申し込みは陽季専属マネージャーのこの俺を通して貰えます?」
爆睡中だったはずの洸祈が翼さんと陽季さんの間に割り込んだ。腰に手を当て、ないメガネを上げるふりをする。
「あ、洸祈さんってマネージャーさんだったんですか?すみません。つい浮かれちゃって。是非ともサイン貰いたいんですけど」
「ふむ。いいですよ。ただし、握手会は一人2分まで、チェキは一枚までで、追加料金取りますから。時間内に撮りますので、事前に言ってください。それと、不必要なお触りは厳禁、途中退場ですからね。マナーは守るように!」
また、洸祈がないメガネを上げた。
「わあ、凄い。握手会とか初めてです。チェキって、写真ですよね?追加料金いくらですか?記念に撮りたいです」
「料金は……陽季のファン割引で…………――」
「洸祈、いつから俺のマネージャーになったの?千里君のお家まで来て遊ぶのはやめること。いい?」
陽季さんに静かに怒られた洸祈が「ごめんなさい」と口早に謝って、奥に隠れた。
「あれ?」
「気にしないでください。俺で良ければ、是非ともサイン書かせてください」
「ありがとうございます!」
…………陽季さんって、有名人なんだよな。雑誌もテレビにも出てる。
洸祈は、月華鈴のことが少しでも載っている雑誌は同じものを2冊買って、テレビは呉に頼んで録画して、DVDに焼いて保管してるって言ってたっけ。陽季さんには絶対言うなと口止めされているから言わないが。
思えば、我が家は洸祈を通して陽季さんと交流のある方だと思っていたが、サインとかは貰ってない。俺達がお願いすれば、きっとくれるのだろうが、今の今までサインを貰うことに頭が回らなかったことの方が、我ながら不思議である。
まぁ、サインを保管する行為自体に俺は興味がなかったし、兄の恋人に対して、有名人だからサインをください、とお願いすることを失礼なことだと思ったのかもしれない。洸祈が陽季さんを選んだのは、陽季さんが有名人だからではなく、月華鈴で舞う陽季さんのことも好きだろうが、陽季さんという人柄を好きになったからだ。
「はる、俺もサイン欲しい。我が家の家宝にしたい」
と、思いきや、洸祈が陽季さんの袖を引いてぼそぼそと喋っていた。
「そう言えば…………ファン1号の洸祈にサイン書いてなかったね。あ、今度会う時に俺が一番最初に書いた秘蔵のサインをあげるよ。ファン1号だからね」
「やった!」
小さくガッツポーズをした洸祈は頬を赤らめ、大人しくまた奥へと引っ込んだ。
「陽季!これ!すごっ!」
「へぇー、綺麗だなぁ」
「それ、今朝方、お義父さん交えて由紀さんと俺と三人で作ったんです!なかなかの出来栄えでしたので、お義父さんが自慢がてら千里さんを呼ぼうと言うことになりまして。あ、秘密ですよ?楽しくていっぱい作りましたので、遠慮なさらず食べてください」
実家とは比べ物にならない、立派な掛け軸や屏風、刀の飾られた茶室に案内された俺達。
翼さんは冷えた緑茶と、売り物と遜色ない彩やかな練り切りを多数乗せた皿を用意してくれた。
夏らしい向日葵や団扇、風鈴、金魚等々。
「あの、これ、持ち帰ってもいいですか?」
「あ、お持ち帰り用もご用意してます!その兎、お義父さんが作ったんですよ。可愛いですよね」
白兎の練り切りを見て、顔を綻ばせる洸祈。琉雨へのお土産にと考えたのだろう。
櫻家にお邪魔する度に千里の祖父と由紀さん、翼さんで仲良く作った菓子を振る舞われている気がする。これらを三人はどんな会話をしながら作っているのだろうか。
「これ、陽季っぽい」
「俺?」
デフォルメされた黒猫の練り切り。
陽季さんっぽいらしいそれを洸祈はしっぽから食べた。
「この子からツンデレを感じた」
「俺、ツンデレってこと?」
「それもお義父さんの作品です」
「え……ツンデレ…………」
洸祈の手が止まった。内心、千里の祖父の外見から生み出される兎と猫の存在が信じられないのだろう。となると、皿に並ぶ動物セットは櫻家当主の作品の可能性が……。
「葵さん、前にお会いした時よりもずっとお元気そうです。ゴルフ大会は大波乱だったそうで」
「え…………あ……はい……」
俺は酔い潰れて記憶がないが、色々と悲惨だったのは千里に聞いた。
「楽しかったですか?」
「…………ええ……」
にこり。
黒縁メガネの下の愛嬌のある瞳と唇で翼さんが微笑む。
俺の隣に正座した翼さんは俺の皿に鶏の練り切りを置いた。
洸祈と陽季さんが練り切りで遊んでいる最中、俺は必然的に翼さんの話し相手となる。
千里は由紀さんの付き添いの中、別室で櫻家当主と額を突合せているからだ。
「良かった。葵さんには秘密をもう一つ」
「?」
「お義父さんは千里さんに敢えてゴルフ大会の件をおまかせしました。俺のことを想ってくれてのことでもありますが、何よりも、千里さんの成長を想ってのこと。大会の日は多くのお見舞いのお電話を頂いたんですが、お孫さんの話題になる度にこっそり笑っておられました。馬鹿者めと言いながら、嬉しそうに」
「…………どうして、俺に……」
「気にしているでしょう?千里さんとお義父さんの関係」
翼さんは精神科の研修医として、病院で実際に患者さんと会話している段階――そう千里に聞いた。
俺より洸祈の方がいい練習相手になるのに…………とか思ってみたり。
俺なんて、分析する程の複雑な心理状態を持ち合わせていない。
「…………いえ。既に二人の間で決着のついていることなので」
「ですが、葵さんの中では決着がついていない」
どうして、今、この人に言われなくてはいけないのだ。
確かに、心残りはある。
だけど、だって、それは…………――
「あ、ごめんなさい。俺、先に帰ります。長く留守にして、店が心配なので」
ああ、わざとらしいか。
不意に立ち上がった俺を見て、「あ、じゃあ、俺が店まで送るよ」と陽季さんが提案してくる。
「葵君をお店まで送って、また戻ってくるから」
「いえ……俺、電車で帰りますので」
ここから離れたい。できれば一人で。
「車の方が断然早いから。俺も琉雨ちゃんと呉君が心配だし。洸祈はここで千里君を待ってて?」
「らじゃ」
茶を啜る洸祈の返事は早かった。本人は隠れてしたつもりだろうが、洸祈がちらと俺を盗み見た。
「お世話になりました」
「…………いえ……さようなら、葵さん。その、遠慮なさらずにいつでも来てくださいね。お茶とお菓子を用意してますので」
「はい。今日はありがとうございました。お菓子美味しかったです」
当たり障りのない、至って平凡な返し。
翼さんは少し申し訳なさそうな顔をして、俺は俯いてしまった。
翼さんは悪くないのに……。
「寒かった?エアコンの温度上げるね」
陽季は助手席で肩をすくめる葵を横目に、操作盤に指を当てた。
櫻家を出てから、葵はずっと喋らなかった。
陽季に背を向け、ひたすら窓の外を見詰める。
陽季も葵の為にも気にしないよう心掛け、静かに運転に集中する。
その時、微かに鼻を啜る音が聞こえた。
「……………………」
葵からアクションがなければ、自分は知らぬ振りをする――陽季はそう決めていた。
だけど……………………無理だ。
無視は出来ない。
陽季は用心屋への道を逸れ、駅の高架下にある、とある公園の駐車場に車を停めた。
周囲に人はいない。
ただ、頻りに電車の規則正しい音が響いてくる。
「………………ここ…………」
「葵君、あの時、どうしても一人で帰りたかったんだね」
「え………………」
葵の声色はいつも通りだったが、絶対に運転席を向くことはなかった。
「俺が引き止めたから。…………本当は誰にも見られないところで辛いの吐き出したかったんだよね」
葵は何も言わない。
そして、いつも他人を気遣って返事をしてくれる葵が返事をしないのは、それだけ彼が動揺しているということ。
「ここなら誰も居ない。電車の音が全部掻き消してくれる。…………俺は眠気覚ましにコーヒー買って飲んでくるから。キーも付けとくし、内側から鍵も掛けていいよ。携帯は持ってるから、何かあった時は連絡して」
「………………………………」
「うーんと、30分ぐらいで戻るよ」
陽季は出て行こうとして、腕が何かに引っ張られるのを感じた。見下ろせば、葵が服の裾を掴んで引き止めていた。
上げた腰を下ろし、運転席に戻る。
「……………………どうして欲しい?」
「……………………………………迷惑を掛けたくない……」
「そっか………………よし、じゃあ、俺が葵君に迷惑を掛けようかな」
「え?」
陽季は葵の肩を掴むと、彼の頭を抱き抱えた。自分の胸に押し付けるようにして、すっぽりと両腕に収める。
「ちょっ、え?」
「因みに、洸祈はこうすると俺の匂いを存分に嗅ぎ回すんだけどね」
「……………………あの……っ、俺は、洸祈じゃないっ!です!」
葵が嫌がり、陽季は「ごめん」と彼を解放した。
髪は乱れ、頬は赤く、陽季に対して憤慨しているようだった。
陽季はやらかしたと心の海が大荒れの大時化状態だったが、どうにか涼しい風を吹かせながら体面を保つ。
少しでも驚くことをやってのければ、葵の緊張が解れるかと考えていたが、詳細を知られたら、激怒した洸祈に陽季が半殺しにされるレベルだ。
しかし、賢者と名高い葵は直ぐにその憤りを抑え、萎れた花のように頭を垂れた。
「千里は……あの家の主……あの一族の主になるはずだった…………沢山の人に愛され、期待されるはずだった…………俺がいるから…………俺は………………」
ああ、駄目だ。
思わず、陽季は葵の口を手で塞いでしまった。
ついさっき、セクハラじみた行為をしてしまったばかりと言うのに、全く凝りていないと指摘されてもぐうの音も出ないが、それでも陽季は止めずにはいられなかった。
彼のその言葉の先を――
だが、熱を帯びた『それ』を止めることは出来なかった。
深い溝を重ねて、眉を寄せる葵。
虚空に見付けた蝶を必死に捉えようとするかのように、瞳をうようよとさせながら涙を流す。
陽季が残った片手で頬を拭ってみても、両目からとめどなく流れ出るそれを止めることはできなかった。
ハンカチ、ティッシュ…………そんな場合じゃないだろう。
「…………ただ、その先は言って欲しくなかったんだ」
どう言えば、葵に伝わるのか。
葵は震える指で自らの涙を拭うと、陽季の腕を掴んで離させる。
「…………ご迷惑をお掛けしました……」
陽季の方が拒まれたはずなのに、葵の方が、親に突き放された幼子のような顔をしていた。
…………全然伝わっていない。
陽季は葵に自分を傷付けるだろうその言葉の先を口にして欲しくなかった。十分傷付いている彼を更に自ら傷付けさせたくなかったのだ。
しかし、これは間違いだった。
葵は体を引き、助手席に前を向いて座る。時折、涙を拭い、唇を真一文字に結んで堪える表情をする。
「ごめん!言って!言ってよ!言っていいんだよ!全部言って!」
「え…………」
「何なら、もう一回抱き着くよ!?」
さながらオープン型変態の洸祈を見る蓮のような容赦ない瞳。陽季はこれに快楽を覚える洸祈に戦慄した。
葵からこのような視線を向けられるなど、普通に怖いし、悲しい。
「俺も同じだよ、葵君」
「…………………………っく」
しゃっくりをする葵。
自分でも驚くぐらい泣いてしまったのだろう。
直ぐに陽季から隠れるように胸を押さえて背中を丸める。
「俺も辛いよ。洸祈がなかなか山梨の実家に帰ろうとしないのは、俺のせいだから」
崇弥家当主の洸祈と櫻家次期当主のはずだった千里。そして、そんな彼らを好きになった陽季と葵。
洸祈と千里の結末は異なるが、陽季と葵の置かれた立場は同じだった。
自分の存在は相手の重荷になっている――と。
「だけど、洸祈は俺にそんなこと一言だって言わない。いつもはぐらかすんだ。どっか他所を向いて、「それは大丈夫だから。ところでさぁ」って」
「…………俺は……そもそも聞けていないです…………聞かなくたって、答えは分かりきってるから……」
――俺のせい。
「全部、全部、俺のせい。俺が千里を好きで、離れられないから。あの集まりに参加して、千里はきっと救われました。だけど、それは俺達の関係を知らないから…………俺達のことを知ったら、彼らは俺達を……いえ、千里を…………」
汚らわしい。
「千里は汚くない。顔だって、心だって、誰よりも綺麗です。だけど、俺は…………千里の顔に泥を塗っている汚い人間だ……汚い俺が千里に縋りついているから…………周りに認めてもらえなくていいはずなのに……俺が千里を好きなら、それで…………なのに………………もう辞めたい……何もかも……」
いつも変わらず、用心屋の仲間を見守る葵はいなかった。
ズボンに濃い染みを作る程、涙を溢れさせた葵は両の手の平を力なく座席に落としていた。
「俺がいなければ……俺がいなければ………………崇弥葵なんて大嫌いだ。崇弥葵なんてもう辞めてしまいたい」
陽季は泣き出してしまいそうな自分をどうにか抑える。
陽季も陽季が嫌いで、洸祈も洸祈が嫌いだ。葵の気持ちは痛いほど分かった。
「だけど、辞められない。葵君は葵君を辞められない。だって、辞めてしまったら、千里君を一人にしてしまうから」
陽季が陽季を辞めたら、洸祈が傷付く。洸祈が洸祈を辞めたら、陽季が傷付く。
「……はい……」
「嫌いな自分を生きていくって地獄だ。辞めたくなるよね。俺も辞めたくなる時あるよ」
「陽季さん……も?」
目元を腕で隠した葵。真っ赤に腫れたそこを隠したいのだろう。
「うん。割と沢山ある。その度に、菊さんの顔とか双灯の顔とか、蘭さんの顔とか、月華鈴の皆の顔思い出して。洸祈の顔思い出してさ。意地汚いよね。俺は俺を辞めない理由を他人に押し付けてる」
「……はい……それが俺は凄く嫌です……」
「じゃあ、逆は聞いてみた?」
「逆?」
「洸祈は用心屋の皆がいるから、洸祈を辞めないんだよ。洸祈は俺がいるから、洸祈を辞めない。だから、俺も洸祈の為に俺を辞められない。自信とかじゃなくてさ、二人で話し合ったんだ。俺は俺が生きる理由を洸祈に押し付けるし、洸祈も俺に押し付ける」
「だけど……俺は…………話すことで、千里に押し付けたくない。俺を選んでほしいのか、俺を選んで欲しくないのか……分からない」
優しいのだ、この子は。
確かに、洸祈も優しい。だけど、葵の優しさは目に見えて分かる洸祈の優しさとは違う。
困っている人がいて、洸祈がその場で身を挺してまでその人を助けるならば、葵はそもそも、その人が困らないよう将来を見据えて立ち回る。
それは意識しなければ見えない優しさであり、殆どの人には気付かれずに、葵自身は無意識のうちに削った身に少しずつ蝕まれていく。
千里はずっと彼の優しさに気付いていて、少しずつ傷付いている彼を助けようとしていたのに。
「俺…………疲れました……………………あの…………ありがとうございます………………ただ……ねむたい……ごめんなさい………………――」
「葵君……………………千里君は……千里君のことだけは信じて。千里君は嘘なんて言わない。だから、千里君の言葉だけは信じて。信じてよ…………お願いだよ……」
「…………………………」
葵は眠っていた。
陽季の最後の言葉が届いたかは定かではないが、葵は痛々しく腫らした瞼を下ろし、肩に頬を付けて窓に凭れていた。
陽季はそんな彼の表情を見下ろすと、羽織っていたカーディガンを脱ぎ、葵の肩に掛ける。
『はる、今どこ?店?千里の用事も終わったし、菓子も食い尽くしたし、流石にそろそろ気まずい。俺達、電車で帰ろうか?』
「ああ……洸祈?」
『うん』
「今、葵君と寄り道してるんだ。店に着くまでもう暫く掛かりそう」
『分かった。俺達、電車で帰るよ。…………葵のことありがとう』
「うん。…………千里君のことよろしくね」
『超落ち込んでるけど、カフェラテ奢って、沢山愚痴聞いて帰れば、多分、元気になるから。また後で』
「また後でね」
通話を切ると、車内は一気に暗くなる。いつの間にか陽も落ち、聞こえてくるのは、窓の向こうの波の音と眠る葵君の吐息だけ。
一杯涙を流して、一杯叫んだから、もうヘトヘトなのだろう。
俺も軽く眠りはしたが、それでも彼はまだ眠っていた。
眠っている間に店まで送っても良かったが、きっと今日は何もかもから離れて過ごした方が良いと思い、高架下を離れ、店への道を逸れ、非日常を探していたら、海岸まで来ていた。そこで彼が自然と起きるのを待つことにしたのだ。
しかし、ここに辿り着き、のんびりして、それでもまだ彼は眠っている。ここから店まで約2・3時間…………只今の時刻は午後6時過ぎ。
さて、どうしたものか。
今日はもしかしたら起きないかも。
明日も蘭さんに事情を話せば休めるだろうし、どこか宿を取っても良いのだけど……。
「……………………一人で帰ろうとした葵君を引き止めたの俺だし、泣かせちゃったの俺だし、とことん付き合うって決めたのも俺だし……………………てことで、洸祈?」
電話を掛け直せば、洸祈は秒で出た。洸祈が俺からの電話で3コール以上待たせたことはなかったが、今回は1コールの途中で出た。
『葵に手を出したら殺す』
「え!?そんなまさか!?」
葵君も素敵な子だけど、どんなに頑張っても俺には保護者目線でしか見れない。いくら洸祈に似てるからと言っても、手を出すなんて有り得ない。
『って、ちぃがガン付けてくる。なになに?でも、葵の為なら許可します?だって。っ、首絞めんな!あ、俺もちぃも怒ってないから、安心して』
洸祈はともかく、千里君は怒っているじゃないか。
でも、葵君を起こしたくない。
「琉雨ちゃんに伝えて。今夜は葵君、外でお泊まりするから夕飯要らないよって」
『お、と、ま、り!響きがエロい!3点!』
何点満点中だ、それは。
『代わりに司野呼ぼっと。そろそろ帰ってくる頃だし。あ、ダブルベッドだけは許さないから。許してもツインベッドだから。その他、後で葵に確認してNGな案件があったら、殺すから』
「了解」
二回目の殺人予告。洸祈もかなり怒っているようだ。だが、葵君の為に抑えてくれている。俺が如何に必死なのかが伝わったのだろう。
今度こそ電話を切り、スマホで検索すれば、近くに安く泊まれるホテルが見付かった。
安さを求めたのは、後日、お泊まりしたことを知った葵君が青ざめるのが目に見えて、宿代が安ければ、少しはご乱心を防げるのではと思ったのだ。それに、今回は寝泊まりするだけだったし、海に面していて景色は最高らしいし、朝食無料サービスもあるようだったので、そこに決めた。
「ちぃ、そっちの荷物持つから」
「…………うん」
ぐすん。
千里はこくりと頷き、手荷物を洸祈に渡すと、空いた両手で目尻をゴシゴシと拭う。
本日最大の用事を済ませて、ルンルン気分で現れた千里は、洸祈しかいない客間を見て唖然とした。葵と仲良く帰るはずが、いたのは茶菓子をもりもりと消化する洸祈だけ。
「あおは?陽季さんは?」と尋ねれば、「葵が気分悪いからって、陽季の送りで先に店に帰った」と言う。
しかし、千里にはその言葉の真意が分かるからこそ、胸がズキズキと傷んでしょうがなかった。
結局は葵は陽季と外泊。葵とは櫻家で離れて以来、話もできず。
「…………洸」
「うん?」
「僕は心残りがないと言えば嘘になるけど、櫻家ではなくて葵を選んだこと、後悔はしてないんだ。…………どうしたら伝わるんだろう……」
駅から店までの帰り道、長い坂を登りながら、千里はぼやいた。
「葵は僕にとって、何にも代え難い…………葵は僕の宝物で、僕の一番なんだ……それが……伝わらない」
沢山、沢山伝えている。けれども、どうしても葵には伝わらない。伝わったと思っても、櫻家に来る度に、葵は深く傷付いた顔をする。大丈夫?と訊ねても、笑って大丈夫と答える。大丈夫なはずがないのに……。
「僕、本当は信用されてないのかな……?」
コツン。
洸祈の拳が千里の後頭部に触れた。
「千里が葵を選んだのは、葵の為か?それとも、自分の為か?」
「……………………僕の為だよ。僕が僕の為に、葵を選んだ」
「なら大丈夫だ。葵はいつか気付くよ。自分の価値にさ。葵は俺と違って、ほぼほぼ頭いいけど、変に馬鹿だから、時間かかるんだよ」
「え…………あおは馬鹿じゃないよ!何言ってんのさ!洸と僕にだけは言われたくないと思うね!」
「え………………ごめん」
しかし、顔を見合わせた二人は暫くして、同時に吹き出した。
腹を抱え、「馬鹿な洸」と千里は笑う。洸祈も「お前に言われたくない」と笑う。
すっかり暗くなり、二人を照らすのは整然と並ぶ電柱の明かりと、家々から零れる光だけ。
と、二人の影が背後から来た自動車のライトで長く伸びる。
「なんや、笑いこけて。それにしても、珍しい組み合わせやな。荷物も多そうやし、家まで送ったるで。後ろ乗りや」
運転席から顔を出したのは眼鏡の下に大きな瞳を隠し、ニッと笑うスーツを着た子供みたいな大人。仕事帰りの由宇麻だった。
「由宇麻!やった!乗せて乗せて!」
「ちょうどいいところに。司野、夕飯食いに来てくれるよな?来ないと琉雨が悲しむから俺が泣く」
「泣くん?まぁ、お邪魔してええんなら、喜んで行くで。まだ夕飯の用意してへんし」
ガッツポーズをした洸祈は千里に続いて後部座席に乗り込んだ。
「ほんで?二人して何楽しそうに話してたん?俺にも教えてくれたりするん?」
「僕と洸、どっちもお馬鹿だな、って話してたら笑えてきた」
「………………それは分からへんな……」
「一升瓶貰えたし、今日は飲み明かすぞー!陽季のタラシが!」
「僕もオレンジジュースで飲み明かす!ヤケジュースだよ!葵のにぶちん!」
「ほんと、葵は鈍い!鈍感だ!」
「陽季さんって、ほんと、天然タラシたよね!周りを勘違いさせるんだから!人妻にまで手を出さないでよ!」
「人妻……?陽季君はとんだ言われようやな……………………まぁ、ええよ。俺も程々には付き合うで。よう分からんけど」
由宇麻は妙にハイテンションな二人に苦笑し、しかしながら、何やら必死に胸の痛みを隠そうとする千里と、それを心配する洸祈の姿が見えた気がして、とことん付き合おうと決めた。
「……………………ほんま、若いんやから……」