よん
スライドドアを開けた時、月明かりの下で夜空を見上げる葵のうなじに僕は惚れた。うなじ……というよりも全身か。まぁ、どこにいても僕は葵にベタ惚れなんだけどね。
「お待たせ……っ、さぶっ!」
「ほら、早く入れ」
葵が振り返って僕の為に場所を開けてくれる。
僕もさっさと足を洗って湯船に浸かった。
熱い……寒い……熱い……熱い…………――
「ふぅ…………」
丁度いい。
「綺麗だね、あお」
「ああ、綺麗な夜空だ」
うんうん。綺麗な葵だ。
「ところで、頭痛いとかない?お酒抜けた?」
「あーうん。抜けた。陽季さんのしじみ汁も美味しかったし」
「そっか。良かった。じゃあ、僕もあおを味見していい?」
特に美しいうなじに唇を触れさせれば、葵はびくりと肩を震わせる。夜の冷気で僕の唇が冷えていたせいなのか、それか…………。
濡れた葵の後ろ髪を指に絡める。ひんやりとしていて……頬は赤い。耳も赤い。
「約束だから。頑張ったお前への」
葵は僕の手を取ると、流れる様に僕の唇を奪った。
「…………………………」
久々に奪われたかも。
両手で僕の腕をギュッと掴む葵。僕達はお互いに冷えた唇を重ね合わせる。
「ん…………」
沢山実践して来たから、僕が舌で葵の歯を叩くと、葵は恐る恐るでも舌を出してくれた。でも、これじゃ遠いよ。
「んん!?」
空いている腕で葵の腰を引いた。水飛沫が高く上がり、それらが月明かりにキラキラと輝いて葵に降りかかる。
ああ、いくらだって言えるよ。
君は綺麗だ。
「……っ、は……はっ……はっ……」
一時の呼吸タイム。僕には必要なくても葵には必要だから。
「美味しい……だから、もっと君が欲しい」
「……………………いい……あげる」
最初、僕の空耳だと思った。
だって、うるうるの目の葵が僕を誘っているのだ。それも艶やかな唇で上目遣いに。
逆上せたのかな。
幻聴幻覚を……そもそもただの妄想……これは夢……きっとどこかで僕の現実は夢に変わってしまったんだ。そういう時は夢の始まりを思い出そうとすれば、矛盾に気付いて自ずと目が覚めるはず……。
「………………目が覚めない……これ、夢じゃないの?」
「…………夢じゃなきゃ言わないか?俺は?」
「…………………………………………言う」
君は言う。
だって君には秘めた欲望があるから。
君はとても賢く、誠実だから、理性の壁で出来た心の牢獄の中にそれらを固く閉じ込めて、上手に隠している。家族にすらバレないぐらいに。
きっと洸祈も知らないだろう。葵にも洸祈に似た熱い部分があるのは知っているようだが、それが性欲にもあるとは知るまい。
可愛い可愛い双子の弟の裏の顔を知るのはきっと……いや、絶対に僕だけだ。
「くれるなら、食べやすくもしてくれると嬉しい」
「……………………………………」
葵はぽかんと口を開け、それから口を閉じて唸った。そして、徐に僕の腰に跨った。
葵の滑らかな肌が水のベールを纏い、まるで絹のように僕を包む。僕も葵の胸元に手を置けば、彼は戸惑いながらも僕の手に自身の手を重ねた。
少しだけ早くなって、強くなる葵の鼓動。
「どうしたら食べやすい?」
嗚呼、可愛いなぁ。
濡れた手で不安げな葵の頬に触れ、親指で唇をなぞる。瞬きをした彼の睫毛から雫が落ちた。
「千里?」
顎を撫で、首筋に指を滑らせる。鎖骨の窪みに溜まった水滴を引き伸ばし、臍へと下ろしていく。
このまま触ってあげてもいいけど…………脇腹から太腿へと横道を逸れた。
「…………千里……」
口には決してしないが、僕からのお預けに残念がる葵の声。
でも、僕には先に君に伝えなきゃいけないことがあるんだ。
「葵、ありがとう。一緒に来てくれて」
「……………………俺はお前の頑張りを見届けにきただけだ…………っくし………………」
「あ、ごめん。お湯入って」
「……………………………………」
食べられにきたのに結局食べて貰えず。暫くの後、葵は僕の隣に移動した。顎までお湯に浸かり、他所を向きながらムスッとする。僕も葵からのご褒美を今すぐにでも貰いたかったが、葵へのお礼がまず先だと思ったのだ。
葵がお酒でダウンし、ずっと眠っていた為、多分、ろくにお礼を言えていない。
葵や洸祈、陽季さんが一緒に来てくれたから、僕は逃げ出さずに済んだ。いなかったら、会場までのタクシーを呼ぶ時点で辞めていた。適当に理由を付けてお祖父様には言い訳をし、お祖父様は情けなくて愚かな僕の真意を知りながら「そうか」ぐらいで返していただろう。怒りもせずに小さく抑揚のない声で。
だから、今日みたいに「成長したな」と言って貰えたのは本当に嬉しかった。…………正しくは、そう言って貰えて初めて、嬉しいと感じたのだ。
例えば、「そうか」の返答でも僕はきっとガッカリしなかっただろう。何故なら、それが僕とお祖父様にとって正常な関係だから。僕はお祖父様から期待されていなければ、僕も期待して欲しいと思っていない。
でも、僕は心の奥底でお祖父様に認めてもらいたいと思っていたようだ。
それが分かったのは……いい事……なんだろうか。
ぱちゃ。
「……あお?」
僕の頬を葵の熱々の手のひらが挟み込んでいた。
「良かったな」
「…………?」
「なんか嬉しそうな顔してる」
「………………ニヤニヤしちゃった?」
「ああ」
あはは……可笑しそうに笑った葵。水面が波打つ。
勝手に動いてる僕の顔は分からないけど、葵が笑う程、ニヤついているというのは気に食わない。
なんで、僕がお祖父様の事を考えて、微笑むのが標準の葵を笑わせるまで楽しくさせなくてはいけないのか。他は兎も角、葵の事で、お祖父様に負けた気になるのは許せない。
「なんか変な顔っ、あはは……っん!?」
笑い過ぎなお口は塞がないとね。
葵は目をぱちくりとさせ、そして、目を閉じた。
自ら口を開き、今度は拙いながらも僕の舌に自分の舌を絡ませてくる。
一杯我慢させちゃったからね。待ちきれなくなっちゃったね。
「っ、はぁ、せん……」
「今のは上手だったよ。ありがと」
「はっ、ッ、どういたしまして」
余裕のない顔でニコリと微笑んだ葵。
また新しい顔だ。
君は触れる度に新しい顔を見せてくれる。可愛い顔、カッコイイ顔、怒った顔、悲しい顔、嬉しい顔。全部が僕の宝物でご褒美。
「ねぇ、葵。ここで抱いてもいいかな?」
は?今それ確認するのか?――の顔。
でも、事前に確認するのが、葵との約束だったから……。
葵に拒絶されて泣かれたあの時みたいな間違いは二度としたくないし。
僕達が相思相愛なのは確認済だけど、僕は単細胞生物みたいな馬鹿男だから、一々確認しないと、繊細な葵を壊してしまう可能性があるのだ。
僕だって葵を大事にしたい。――それを態度で示したい。――だから、何度だって、セックスの前にはしてもいいか確認する。
でも、今回は葵の見開いた目とパクパク開閉する口と上気した頬と素直な下半身で確認は十分だろう。
寧ろ、待たせ過ぎで繊細な葵が壊れてしまう。
「ごめん。余裕ないから抱かせてください」
「許す」
僕は真っ赤な葵の耳を甘噛みした。
「出ないんですか?洸祈さん」
「………………めちゃ寒いです、陽季さん」
ぷるぷる。
肩を震わせた洸祈が助手席で縮こまる。
確かに、避暑地の夜は薄手の長袖でも少々辛い。が、耐えられないほどではない。
洸祈の望んだドライブデートだが、風邪をひかれるぐらいなら、車内から出ない方がいいか。
「洸祈はここで待ってて。ちょっとだけ上見てくるから」
「え……」
置いてくの?――の顔で俺を見上げた洸祈。
しかし、折角、展望台まで来たのだ。真っ暗な階段の先を一目でいいから見て見たい。
「うぬぅ……はるは俺を置いてかな――」
よし、置いて行こう。
「大人しく待っててね」
俺は助手席のドアを閉め、携帯のライトを付けて狭い階段に足をかけた。
「……暗いな」
避暑地の、自然公園の、展望台。それも夜中だ。
人の気配など一切ないし、月明かりは高い木々で届かず。
思ってた以上に階段は長いし。
洸祈は不貞腐れちゃったかな。すやすや寝てるだろうな。
やっぱり戻ろうかな。
でも……。
「は、はるっ、陽季!陽季ってば!待てっ」
「え?洸祈?」
振り返れば、両手を顔の前に上げて縮こまる洸祈が。
「っ、眩しい!」
「あ、ごめん!」
仰け反った洸祈が落ちそうで、俺は慌てて彼の腕を掴んだ。洸祈が俺の腰に腕を回して凭れてくる。
「はぁ、いい匂い。ぬくぬく……」
温もりより先に匂いか…………落ち掛けた洸祈への心配で消耗した俺は、相変わらずの変態振りに突っ込む気力も出ず、冷やさないよう彼を抱き抱えた。洸祈は「えへへ。来た甲斐があった」と笑う。
「あ、はい、この子あげる」
「この子?」
オレンジ色の炎を纏った小鳥が、洸祈のパーカーのフードから顔を出した。
チチチ。
くりくりした黒色の瞳が炎の間から俺を見つめる。
「明かり兼カイロ代わり」
「洸祈は寒くないの?」
「えー見たいの?」
洸祈が襟首を引き伸ばして胸元を俺に見せ付けてきた。
…………野外プレイ……?
と、思いきや、仄かに明るい洸祈の胸元を覗き込むと、そこには無数の黒目。
チチッ、チチチ、チチ。
先の小鳥が5羽、綺麗に並んで入っていた。
温かいんだろうけど…………見た目が気持ち悪い。
「陽季ももっと欲しい?」
「いや……」
断る前に洸祈の重ねた両手の隙間から新しい小鳥か顔を覗かせた。
そして、1羽は俺の肩。もう1羽は足下を照らすように階段に降り立つ。
俺は携帯電話のライトを消した。
もう必要ない。
「うわー素敵な夜景ー」
棒読みで一言。
ベンチに腰掛けた洸祈が目を皿にして、膝に肘を突き、頬に手を当てていた。
「周りは山なんだから、都会みたいな夜景は見れないよ」
「つまんない。寒いだけじゃん」
「…………洸祈?この鳥なんだけどさ、今だけ光らなくするとかできたりする?」
「できるよー」
消えた。
炎の鳥が宙に解けるように消えた。
…………まさか鳥ごと消えるとは……。
愛着が湧いてきた頃だったから、少しだけ悲しい。
しかし、これで明かりは月のみになった。
洸祈のお腹は例の光源で僅かに光り、もぞもぞと何かが布の下で蠢いているようだが。
「俺のは消せないよ?寒いもん」
「いいよ。でもほら、星が綺麗だよ」
「うーん…………はる……」
何とも微妙な声。
俺は満点の星空が綺麗すぎて満足してるからいいけど。
「陽季ってば!」
「え?何?」
不意に声を荒げられると怖い。
「だから隣!俺の隣に座んないわけ!?」
……怒りながらデレないでよ。可愛いなぁ、洸祈は。
隅に詰めて、俺の為に広々とした場所を空けた洸祈は、小鳥が騒ぐお腹を優しく擦る。
その時ふと、洸祈のお腹に赤ちゃんが出来たら…………なんてヤバい。思考回路が馬鹿だ。でも、洸祈のお腹の中に守るべき命があれば、洸祈は自分のことを少しは大事にしてくれるだろうか。
「隣、失礼するね」
「失礼じゃないし。陽季は俺の湯たんぽだし」
洸祈こそ俺の湯たんぽなんだけどな。
洸祈は基礎体温が高めなのに、本人は俺よりも寒がりだ。もしかしたら、気温と体温により差があるせいで寒く感じるのかも。
洸祈は隣に座った俺の腰に腕を回し、肩に頬を付けて星を見上げる。
脇に触れる洸祈のお腹が温かい。
「はるー、俺、あれ知ってる」
洸祈の腕が上がり、空に指先を向けた。
星座のことか?
「ほら、あの綺麗に3つ並んでるやつ。で、周りの4つのやつ」
ああ、オリオン座か。
「ああ、あれね」
「そうそう!あれ、オリオン座!」
「へえ!物知りだね」
「あれしか知らないけどね」
俺もオリオン座しか知らないや。でも、得意げな洸祈も可愛いなぁ。
「綺麗だなぁ。これでもかってくらい星がある。……東京にいたら絶対に見れない」
「…………洸祈…………あのさ」
「何?」
「…………………………いつか青森の海の見える家に一緒に住もう。洸祈と海を見下ろして、星空を見上げたい」
「いいよ。俺、陽季と一緒なら何処へだって行く」
…………そんな風に言ってしまえるお前が、俺は少しだけ怖いよ。
俺がもしも先に死んでしまったら……お前は俺を追い掛けてしまうのか?
お前がもしも先に死んでしまったら……俺は……………………そんなのは許せない……ー
「でも、店も山梨の家も好きだから、一年置きとかがいいなぁ。それか、春と夏は青森で、秋と冬は店と実家とか。実家なら日帰り温泉入り放題。まぁ、こたつと蜜柑と昼ドラさえあれば、狭い部屋を借りてもいいよ。あ、エッチもするから、汚いところは嫌だよ?」
一々、下世話な会話にするんじゃありません。
にししと笑う洸祈は愉快そうだ。
そんな洸祈の尻を撫でれば、彼は息を止め、若干、逃げ腰になる。
「あ、えと、このベンチは綺麗じゃないんじゃないかなぁ……」
「したいんじゃないの?エッチを」
「………………そうとは言ってなくない?」
「俺と一緒に笑って泣いて、喋って、触れ合って眠って、エッチしたいって言わなかった?それともしたくないってこと?」
「…………………………エッチしたいけど、ここじゃ嫌!そう言った!馬鹿ッ!」
ベチン。
拗ねを越して怒り爆発状態へ。どうやら、からかい過ぎてしまったらしい。
久々に食らった洸祈の平手打ちはかなり痛かった。具体的には足の小指をドアにぶつけた時の痛みの一歩手前ぐらい。
「俺帰る!素直で優しい親友のとこ帰る!陽季は野垂れ死にしちゃえばいい!」
立ち上がり、パーカーの裾をはためかせた洸祈。
炎の小鳥達がか細く鳴きながら地面に降り立った。主のお怒り様にびっくりしたらしい。
「陽季の馬鹿!一ヶ月禁欲生活モードだからな!自慰してろ!ばーかっ!!」
なんて破廉恥な捨て台詞を……。
洸祈は怒鳴るや否や、小鳥達を放置して階段を駆け足で降りて行き、闇に消えた。
チチチ。
俺を見上げる小鳥達。
俺のせい?でも、洸祈から煽って来なかった?
まぁ、彼の本音はこれから始まると思った苦手な内容の会話から逃げる為だろうけど。
しかし、洸祈が誤魔化すのが下手くそだから、俺は無性にからかいたくなるのだ。寧ろ、敢えて洸祈に合わせることで、洸祈を逃げさせてあげているとも言える。
それに、いつかは必要な会話だが、今じゃなくてもいいと俺も思うから。洸祈が話したくないなら、俺たちの未来の話は後回しでいい。
「まだ君達が消えないってことは、俺が無事に戻れるように、って洸祈が想ってくれてるってことでいいよね?」
チチッ、チチチ。
小鳥達は俺の肩や頭に乗り、残りは足下を照らしてくれる。
魔法の小鳥は洸祈の意思で消すことが出来るようだから、洸祈は内心では俺が暗闇の中で階段を踏み外したりしないか心配なのだろう。それに、一ヶ月で許してくれるらしいし。
「そもそも、洸祈の方が一ヶ月も持たないか」
直ぐに慰めて欲しいと泣きついて来るだろう。
狭い部屋で二人きりになったら、多分、三時間で堕ちる。ただし、昼ドラ時間は除くけど。
「洸祈さん、開けてくださいな」
駐車場に着くと、洸祈が車内に立てこもっていた。
車の鍵は洸祈の手の中。
洸祈は抱えた膝に顎を乗せて俺をガラス越しに睨む。
チチッ。
新しく創造したのだろう――洸祈の頭に乗った炎の小鳥が何だか得意げに鳴く。
…………さて、どうしようか。
朝までここで籠城されると、俺がキツい。睡眠を取らずに運転は絶対に避けたい。洸祈の為にも。
だから、この状況を打開しようと、取り敢えず周囲を見渡した。
マイナーな自然公園の展望台の為、役立ちそうなものは…………自動販売機ぐらいだ。
冷えてきたから、温かいものを――そう思って車から離れた瞬間、洸祈が慌てて俺に手を伸ばしたのが横目に見えた。また置いていかれると思ったのかな。
俺だって歩きで別荘までは流石に遠慮したいし、車を取りに戻ることになるし、そもそも、こんな暗いところに洸祈を置いて帰れるわけが無い。
『はる、はる、置いてかな…………』
離れた車内から慌てた声が聞こえたが、無視してホットのココアを二本買った。
そうして戻れば、洸祈が膝を抱えて俺をガラス越しに睨んでいた。開けてくださいな、と頼んだ時と同じ体勢だ。
ついさっきまで、俺が洸祈を置いてきぼりにしないかと、慌てふためいていたと言うのに……。
洸祈は変なところで強がりだ。
「洸祈さん、温かいココアあげるから、開けてくださいな」
こうして理由をあげれば、きっと洸祈はドアを開けてくれるはず。
しかし、洸祈は無表情でドアに手を伸ばすと、窓を薄く開けた。……缶が一本入る程度の隙間を残して。
そう来ましたか、洸祈さん。まだ拗ねてる振りをしますか。
「ここから入れて」
「……………………………………」
だけど、俺も手強いんだよ?洸祈さん。
俺が買ったのは通常のよりも太めの缶だった為、俺は窓の隙間から腕を入れることが出来た。
「うわ!陽季!?っ、ここは俺の場所!勝手に入んな!」
「俺の車だから」
「鍵は俺が持ってる!」
そうだね。洸祈の車内立てこもりを見越して、鍵を回収しなかった俺の責任だね。
洸祈が俺の手を掴み、必死の抵抗をする。しかし、最終的には俺が勝つ。
どうにかロックに手が届き、俺はドアを開けた。
「陽季の馬鹿!ココアくれるって言っただろ!嘘つき!」
「はい、ココア」
顔の前に温かいココアの缶を掲げれば、むしり取る様に奪われる。
「…………ふん。お礼は言わないから」
「いいよ。奥詰めてくれない?」
「うん」
早速ココアを飲んだ洸祈は機嫌を良くしたようだ。ココアをちびちびと啜りながら隅に寄る。
後部座席ではあるが、車内に入れたから、これで立てこもりは防げる。
「あったかー…………あまー…………うまー…………」
夜中に別荘を抜け出して、自然公園まできて、星を見上げて、ココアで温まって…………何だか秘密のピクニックみたいで楽しい。
「北海道産濃厚ミルクの濃厚ココア…………ふむふむ…………よろしい…………」
洸祈も喜んでいるし、来て良かったなぁ。
まだお触りは厳禁だろうけど、隣に座るのは許してくれてるし。もしかしたら、自分の言ったことを既に忘れているのかも。
静まり返った車内で俺もココアを飲む。
「はる」
「ん?」
「眠たい」
「うん」
「肩くれ」
「いいよ」
貸してあげる。
洸祈は俺の肩に額を乗せ、すんすんと鼻を慣らしてから、顔の向きを変えた。暫く良い位置を探してから、落ち着いたみたいに息を吐いた。
目をしょぼしょぼとさせ、呼吸はどんどんとゆっくりになっていく。
直ぐに眠りそうだ。
手の届くところに車中泊用のブランケットがあったのを思い出し、洸祈の肩に掛けてやると、彼は「ありがと……」と囁いて、それにくるまった。
暫くして、小鳥達が消えた。
すーすーと安らかな寝息が聞こえる。
どうやら、洸祈は眠ったらしかった。
俺は羽織っていたシャツを脱いで洸祈の頭の下に敷き、彼の手から鍵を抜き取る。
「さて、と、お姫様をベッドまで運ぶかな」
洸祈を起こさないよう、俺は慎重に車を発進させた。
「あれー?どっか行ってたの?」
別荘に戻ると、千里君がリビングの吹き抜けを通して、二階の廊下から俺達を見下ろしていた。
風呂上がりらしく、髪が濡れているのが遠目にも分かった。
彼は一階のテーブルに置いたメモには気付いていなかったみたいだった。葵君と仲良くお風呂に入っている間に外出したから、かなりの長風呂だったようだ。
「デートを兼ねた星空観察に行ってたんだ」
「へぇー。で、洸は寝ちゃったんだ?」
「うん。葵君も?」
にやり、と、千里君がにやけた。
あの顔は……。
「今夜は寝かせない予定だよ」
嗚呼……そういう事ね。
「明日は起こさない方がいい?」
「そうして貰えると、あおが喜ぶと思う」
「分かったよ。俺達、午前中出掛ける予定だから、その時はテーブルに書き置きするよ。用事がある時は洸祈に連絡してね」
「はーい。おやすみなさい」
「おやすみ、千里君」
ヒラヒラと手を振った彼の手には畳まれたバスタオルが何枚もあった。
そして、彼はぴょんぴょんと跳ねながら、意気揚々と個室へ歩いて行った。
「洸祈さん、今日は俺も洸祈さんのお部屋で眠らせていただきますねー」
今夜は葵君や千里君の部屋から一番離れている、洸祈の部屋で眠ろう。別荘と言えど、櫻家所有の別荘のベッドは特大ベッドだったし、きっと二人で並んで寝れる。
俺の背中で熟睡中の洸祈から返事はなかったが、その夜、俺は洸祈の部屋に直行した。