に
広い駐車場に車を停め、葵、洸祈、陽季がそれぞれ車から降りる。
「あれ?千里君?鍵閉めるよ?」
「葵、ちぃが帰りたいよモードだぞー」
早速、挨拶をしに行こうと建物に向かって歩いていた葵を洸祈が呼び止めた。
葵はくるりと振り返ると、車の鍵を閉められないでいる陽季を見付けて、駆け足で戻ってくる。
「千里、降りて」
「無理。誰でもいいからお祖父様の伝言伝えてきて。僕、腹痛で死んでるってことにしてさ」
「それは諦めて。ほら、管理人さんぽい人来ちゃったよ。体調悪い振りしてると、逆に手厚くもてなされると思うよ」
「え!?」
千里が慌てて顔を上げ、走ってくるウェイター姿の青年にギョッとして車から出た。
「あ、あえ、た、助けて!」
手近な陽季の背中に隠れる千里。
陽季は双子を見、一歩前へ出た葵を制して、部外者かつ最年長として、青年の対応をすることにした。
「あの、もしかしてここ、停めちゃ不味かったですか?」
白線も書かれており、正しく見た目は駐車場であったが、陽季以外の車が一台も停まっていないのは少し疑問に思っていた。櫻一族が参加のゴルフ大会と聞いて、もっと賑わっていると思っていたが、人っ子一人――青年以外の人間の気配がない。場所は間違ってはいないはず。
陽季は千里の祖父から預かった招待状を見直す。
「さ、櫻様!お迎えもせずに誠に申し訳ございません!」
金色の装飾が美しい招待状を見た青年が青ざめた顔でペコペコと頭を下げ、陽季がその勢いに背中を仰け反らせる。
「あ、あの、俺は……」
「直ぐにお車を用意致しますので!」
「え!?」
くるりと踵を返し、猛ダッシュで木造の建築物へと走る青年。
例の大会の会場で間違いはないだろうが、歩いて何十歩の距離で車を用意されても――。
「洸祈!あの子止めて!」
「えー?」
その場にしゃがんだ洸祈がやる気のない返事をする。
「いいから、止める!」
「………………もーっ、分かったってば!!」
陽季の二度の台詞に洸祈は重い腰を上げて、片手を青年の背中に向けた。そして、彼の手のひらから生み出された炎の鳥は青年目掛けて一目散に飛んで行く。
陽季も青年を止める為に走り出した。
お陰様で千里が置いてきぼりにされ、「あ、う、待ってよぉ!」と陽季を追い掛ける。次に葵も走り出し、洸祈はぶすっとした顔で立ち上がると、少しだけ大きい歩幅で歩き出した。
今にも倒れそうな青年は車を移動させると言って出て行った。どうやら、他の人の車は建物の地下にある駐車場に停まっているらしかった。
そして、俺達はだだっ広いロビーで紅茶とケーキを用意されていた。
「ちぃ、食べないのか?貰うぞー」
さっさと自分の分を食べ終えた洸祈が、完全に怯えきった千里君の皿のケーキを狙う。
「あー……うん……いいよ…………罠だもん……食べたら帰れなくなる…………お祖父様が来られないって言うだけなのに、なんでこんな事に…………」
お菓子大好きの千里君がケーキを譲った。それも、葵君ではなく洸祈に。
かなりショックを受けているようだ。
俺は一般人として魔法界のお家事情とかは全く知らないが、千里君は櫻一族が相当苦手だと言うのがここ数日で分かった。ただ『好き嫌い』よりも根深い理由があるのだろう。
「それにしても、他の人は……」
先程からウェイター姿の青年とおやつタイムを用意してくれた執事風のおじいさんしか見ていない。
櫻一族総出と聞いていたし、集合時間も過ぎているが…………。
「…………『櫻』は特別扱いなんだよ……」
葵君の肩に頭を乗せて目を閉じる千里君。彼は緊張で疲弊しているようで、葵君も千里君を心配して顔を顰めている。
「しょーがないなぁ、俺が言うか?ちぃ」
ここに来て、洸祈がツンデレを発動させた。家族思いな洸祈は千里君の成長よりも彼の心身を心配して立ち上がる。
「…………………………ううん……」
千里君も立ち上がった。
「…………お祖父様に任された仕事だから…………僕自身の手でちゃんとこなしたい……」
…………ちゃんと成長しているようだ。
洸祈も「分かった」と優しく頷く。
そして、千里君は隅を横切った別のウェイター姿の男性を見付けて走って行った。
「あ、あの!僕達以外……他の人はどこにいますか?」
「ただいま準備しておりますので、もう少々お待ち頂ければ――」
「えっと……僕、早く皆に伝えたい事があって……」
「はっ!確認して参ります!」
男性は無線機を手に走って行った。
千里君も出会す人全員に全力を出され、ビクビクと肩をひくつかせる。
彼は『櫻』は特別扱いとは言っていたが、人見知りな千里君にとっては特に苦手な環境だろう。それでも、彼は頑張っている。
「なぁ、葵母さんや」
「なんだい?洸祈お父さん」
「今夜は赤飯かねぇ」
「そうだねぇ」
ふふふ。
双子がお上品に笑っている。楽しそうで何よりだ。
「確認取れました!ご案内致します!」
「だって!」
ちゃんとついてきてよ?と言いたそうにちらちらと目配せをしながら歩く千里君。
「さてと、行きますか、葵母さん」
「そうだね、洸祈お父さん」
三人は親友同士ではあるが、気持ち、双子は千里君の保護者だ。成長を見守っていたいのだろう。
俺は三人を見ていると保護者の気持ちになるとは言わないが。
「…………………………………………」
シーン。
案内されるがまま廊下を進み、『舞台』と書かれた案内板を横目に見た時、少々違和感があった。そして、舞台袖に待機させられた時、違和感は現実へと変わった。
「さ、お願いします」
「え?え?あ……え?俺?」
ここのスタッフらしい男性は何故か俺の背中を押す。
色々言いたいことだらけだったが、「そこ、足元気を付けてください。3センチの段差がありますので」と言われ、あたふたしている間に『袖』から『舞台』へと足を踏み出していた。
「ここで、櫻家当主、櫻勝馬様のお言葉を頂きまして、第57回ゴルフ大会の開始とさせて頂きます」
「は?」
櫻勝馬様のお言葉?
勘違いしてるよね?
俺のこと、千里君のお祖父様だと思ってるよね?
確かに、駐車場で招待状を見た青年は俺に向かって挨拶をしてきたけど、櫻一族の本家当主の顔を間違えてるとは思わないよね?
毎年やってるんだよね?
それに、千里君のお祖父様に会ったことはないけど、俺が孫を持つ祖父の顔に見えるわけ?
俺、そんなに老けているように見えるの?白髪にも見えるからって……そんな……地毛なのに……。
いや、待て。
あの天使のような美貌を兼ね備えた千里君のお祖父様だぞ?
彼は俺ぐらいの年齢に見える程の童顔なのかも…………。
舞台袖を見れば、千里君が生まれたての小鹿状態で葵君にしがみつき、葵君はスタッフさんに身振り手振りで説明してくれているようだった。そして、洸祈は――
(陽季!頑張ってー)
と口パクで、不幸の最中の俺を嘲笑していた。
あいつ、後で泣かせようかな。
「えーっと……」
本家当主と紹介され、分家らしい人達は冗談抜きの真顔で俺を凝視していた。老若男女、グラス片手に身動きせず立っている。
多分、俺が櫻勝馬様ではないことは承知の上だろうが、彼らは礼儀を重んじるのか、ヤジ一つ飛ばさない。どんな失敗も華麗に対処する――これが櫻一族なのか。
ならば、俺も答えるしかあるまい。
市橋家代表……否、月華鈴代表として。
「初めまして、私、東京都榎楠市にあります榎楠ホールを本拠地として活動しております、流浪舞団『月華鈴』において扇を使った舞を得意としております舞妓、陽季と申します。なお、月華鈴では『夕霧』という名で芸の活動させて頂いております。ホームページも作成しておりますので、お時間のある時に見ていただければ…………この度は櫻家ご当主様の名代で参りました櫻千里君の友人として彼に同行させて頂きました。後ほど、ご当主様からのお言葉として千里君からご報告があると思いますが、このような天気の良い日にゴルフ大会を開催できること、誠に嬉しく思います。それでは……………………失礼致します」
途中から何を言っていたのか全く覚えがない。取り敢えず、横を向き、取り敢えず、前へと歩き、取り敢えず、洸祈の肩に額を乗せて休憩した。
「なぁ、俺、何言った?」
「月華鈴の営業みたいな?櫻一族の前で発表なんて、天変地異でも起きなきゃ一生ない機会だから歴史に残るレベル。でも、陽季のにわかファンが増えるのは嫌だから、もう営業はしないで」
「嗚呼……やらかした…………」
「いいのいいの。ちぃにバトンタッチしてくれたから。ほら、やっとちぃの出番だ」
洸祈の肩越しに見れば、千里君が舞台に立っていた。
彼の足が震えているのが舞台袖からも分かった。
「あ、えっと……櫻千里……と申します……本日は祖父、櫻勝馬の名代として……えっと……来ました。その…………その…………」
俯いて泣きそうだ。
でも、耐えている。
頑張れ、千里君。
「お祖父様はぎっくり腰で今日は来れません!申し訳ございません!……………………お祖父様の代わりに…………僕が謝りに来ました…………ごめんなさい………………………………その……今日はゴルフ大会楽しんでください……乾杯……」
それだけ言うと、千里君はつかつかと大股で歩き、舞台を降りるや否や葵君に抱き着いた。
その時、会場の方では誰かが仕切るように「乾杯!」と言い、次々にグラスをぶつけ合う音が響いた。ザワザワと賑やかになる。
「あ、あの、申し訳ございません!招待状を持ってらしたので、櫻勝馬様かと」
最初に駐車場で会った青年が……今にも死にそうな顔だ。
「俺のことは気にしないで。一応、月華鈴の宣伝になったから」
「あの…………櫻様?櫻千里様?」
女性が会場と舞台袖を繋ぐドアを開けて現れた。
花柄ワンピース姿の彼女は胸の前で両手を祈るように合わせ、千里君を探してキョロキョロしながら現れる。
美人な千里君に早速お近付きになりたい人が――と思ったが、彼女の足にはクリクリとした瞳の少女がいた。彼女と同じ星型のビーズで出来たブレスレットを着けた少女が。
洸祈の視線が少女に釘付けになるのを感じた。
「ちぃ、お呼びだぞ」
一見、彼女に気遣って千里君を呼んだ体に見えるが、実際は彼女を少しでも長居させて、洸祈が幼女観察の時間を増やしたいだけなのは分かりきったことである。
洸祈はポケットから棒付きのキャンディを取り出して少女の前で振った。
…………不審者だ。
女性は洸祈の行動に困惑しながらも、千里君への用事が大事らしく、その場に留まる。
「洸祈、その飴くれるの?ありがとう」
俺は洸祈の手から飴を奪った。
あくまでも俺達は千里君の友人。付き添いだ。邪魔をしてはならない。だから、洸祈の欲求を満たす為の幼女への餌付けも禁止だ。第一、櫻一族だぞ。俺の登場にも動揺を一切見せなかったあの櫻一族だぞ。特に俺は自己紹介してしまったんだ。目を付けられたら最後、落ち着き払った顔で社会的に抹殺されそうだ。
「は?なんではるが取るんだよ」
割と本気の目でキレられた。そこは俺がキレたいよ。
やっぱり後で泣かそう。
「ま、いいけど。ねぇ、どれ欲しい?」
両手に一杯の棒付きキャンディ。
洸祈はどこに隠していたのか、カラフルなそれを少女の眼前に突き出す。流石の女性も気味悪いと思ったようで、少女を背中に隠そうとする。
もう無理。俺の人生はここで終わるのか。
「あ、あの、僕が櫻千里……です」
千里君が洸祈を押し退けて彼女の前に出た。
葵君も洸祈と少女との隙間に立ち、「洸祈、辞めないと今すぐ店に電話して琉雨に言いつけるよ?」と脅す。洸祈は青ざめると、「ごめんなさい」と言って飴をポケットに隠した。どうやら、琉雨ちゃんに他の幼女への浮気がバレるのは嫌らしい。
「櫻様…………私、樒愛子と申します。この子は娘の聡美です。初めまして」
「聡美ちゃん、って言うんだー。俺は洸祈。よろしくねー」
「洸祈、辞めないと――」
「もうしません……」
少女の名前を知った洸祈が直ぐにアプローチを開始し、身動ぎした葵君に不穏な気配を察知して俺の背中に逃げた。怒られると分かっていても、辞められないのはもう依存性だろう。幼女依存性だ。
本当に今までお巡りさんのお世話になったことがないのが不思議なくらいだ。
「樒…………大叔母様の――」
「ええ。貴方のお父様とはいとこ同士」
「お父さんの…………」
「貴方とはずっと話したいと思っていたの…………お父様のこと……」
洸祈と葵君が反射的に千里君を見詰めた。
俺は懐かしい話になるのかなと思ったが、双子はそうとは思っていないようだ。
千里君も背中に隠すようにして拳を握っている。肩を強ばらせ、目を見開いている。
千里君のお父さんは彼が幼い時に亡くなっているのは知っていたが、彼にとってこれはかなり繊細な部分のようだ。
千里君本人と双子が耐えている以上、事情の知らない部外者の俺が止める訳には……。
「貴方のお父様には感謝してもしきれない。ずっと、言いたかったの。だけど、その機会を逃してしまった。だから、貴方に言わせてください。ありがとう」
彼女は微笑んだ。
そして、微笑んだままの頬に一筋の涙を伝わせた。
「なん……どうして……泣くんですか…………」
目の前で女性に泣かれ、千里君はどうしていいのか分からずに両手をうようよさせる。彼女の足元では母親をきょとんとしたまなざしで見上げる聡美ちゃんが。
「やっと……伝えられたから…………」
彼女は震える手で千里君の片手を握った。人見知りかつ、よりにもよって櫻一族の人間に手を握られ、開いた口が塞がらない千里君だったが、逃げることはしなかった。
「遅くても……今更でも…………柚里様に直接言うことが出来なくても……それでも、伝えたかった。本当は柚里様のお葬式で貴方に伝える気でいたけど、貴方は泣いていなかったから…………今にも泣いてしまいそうな自分を見せたくなくて、声を掛けられませんでした…………でも、また泣いてしまいました…………ごめんなさいね……」
「……………………謝らないでください…………伝えてくれありがとうございます……………………てっきり、嫌われてると思っていたので……お父さんはしきたりが苦手で勝手してたから……」
愛子さんは目尻を押さえて「それは違います」と言い切った。洸祈の視線が千里君から愛子さんへと移る。
「しきたりが苦手なのは私達も同じ。ただ、苦手でも受け入れて来ました。それが櫻一族だから。そうすることで、繁栄してきましたから。正しいことも、正しくないこともそうやって受け入れて来ました。でも、柚里様は違いました。正しいことを受け入れ、正しくないことを拒んだ。そんなの当たり前……だけど、それが出来ないのが私達」
千里君は何かを言いかけて、唇を固く結んだ。
「だから、柚里様のことが羨ましかった。羨ましくて、彼になりたくて、結局、彼になれない自分達が恥ずかしかった。柚里様のお葬式で誰一人として泣かなかったのは、私達が柚里様の命を奪ってしまったようなものだから。だから、泣けなかった。櫻当主様も千里様も耐えていらっしゃったのに、私達が泣けるはずがありません」
ふるふる。俯いてしまった千里君は微かに頭を左右に振った。そして、葵君の背中に隠れてしまう。愛子さんは驚き、口元を押さえながら「ごめんなさい」と繰り返す。父親を失った彼の傷を抉ってしまったのではないかと青ざめた。
俺も千里君が悲しい過去を思い出してしまったのかと心配したが、洸祈はにこりと笑って千里君の肩に触れ、葵君は「ありがとうございます」と愛子さんに頭を下げた。
「そんな……」
千里君は葵君の背中から背の高い洸祈の胸へと移動する。葵君は千里君が離れたことで、愛子さんに一歩近いた。開いていた隙間は自然な距離になる。
「千里の周りは、千里のことを気遣ってお父さんの話をしない人が多いんです。だから、嬉しいんです。こんなに話して貰えて、皆さんの本当の気持ちを伝えてくれて。なのでこれは嬉し泣きです。………………どこか……落ち着ける場所はありますか?」
「えっと……そうね、部屋を用意してくださる?」
「はい。こちらへ。案内いたします」
執事さんみたいなおじいさんがベテランの風格を携えて立つ。
洸祈が千里君に「歩けるか?」と訊ね、彼は小さく頷いてから洸祈の服を引っ張った。
「あ、あの………………少しでも構いません。帰る前にもう一度だけ、会場に顔を出して頂ければ…………私と同じで、口には出さずとも、千里様とお話されたい方が沢山いらっしゃいますので………」
愛子さんの言葉に千里君の足が止まる。洸祈が振り返るが、千里君は俯いたまま直ぐに歩き出した。
パーティー会場とは別の上の階。宿泊施設も兼ねているらしく、二階と三階は部屋番号の付いた扉が並んでいた。時折、扉に『〜様』と書かれた紙が貼られていたので、ゴルフ大会の後、何人かはここに泊まるようだった。
俺達は二階の一室に案内され、ルームキーを渡された。
「お帰りの際は近くのスタッフに鍵をお渡し下さい。お部屋はご自由にお使いください。御用がある際はあちらの電話機で117番を押して頂ければ、フロントに繋がります。ルームサービスも遠慮なくご利用ください」
部屋はこじんまりとした…………ツインベットの広々とした部屋。まだ青々とした畳の部屋に一段高くしたフローリングのエリアがあり、そこにベッドが置かれていた。和室の空間に馴染むベッドを見た時、素直にこれが和洋折衷なのかと思った。
ベランダの向こうには綺麗に整えられた草原が広がり、ぽつぽつと見える制服姿の人達はこれから始まるであろうゴルフ大会の準備に追われているようだった。
「俺達下のロビーで待ってるから」
洸祈が気を利かせて部屋を出ようとするが、千里君が葵君の手を掴んで引き止める。
「あお………………傍にいて欲しい…………」
「……………………うん……」
洸祈が俺に目配せし、俺達は葵君を残して部屋を出た。一人よりも大好きな人との方が落ち着くのだろう。
「え……洸祈?そっちはロビーじゃ……」
「俺、思ったんだけど、あんなおじさん達の中じゃ、聡美ちゃんつまんないと思うんだよね」
「いや、女の人もいたでしょ。子供もいたよ」
「お母様方は挨拶に忙しいだろ?他の子は聡美ちゃんと歳離れてるか、男か、赤ちゃんじゃん。聡美ちゃんぐらいの女児の趣味嗜好を知り尽くす、幼女マスターの俺がいたら、聡美ちゃんは暇しないし、愛子さんも安心できる」
自称『幼女マスター』が胸を張って語る。その自信こそが世のお母様方に白い目で見られる原因だと言うのに。
「聡美ちゃんにはちょっとだけ年の離れたお姉さんみたいな女の子達がいるから」
高校生とか大学生ぐらいの女の子ならいた気がする。親族間の絆の深い櫻一族の子達なら、暇そうな幼女のお世話をしてくれるはず。
「嫌だ!聡美ちゃんと遊びたい!柚里さんのいとこの子供だぞ!?ほんの少しだけど、ちぃに似てるじゃん!ちびっ子天使!愛でたい!」
幼女マスターなどと、専門性がある風に言っていた方がまだマシだった。これではただの変態だ。幼女を付け狙うただの不審者だ。
「せめて、千里君と一緒の時にしてよ。親族がいるならまだしも、俺達だけだと通報されるから」
「二人に邪魔されたばっかりなんだけど。琉雨に言いつけるって言ってたし」
俺は言いつけないらしい。
単純に信頼されているのか、『陽季は洸祈の幼女趣味について理解を示している』と思われているのか。
「あくまでも俺達は千里君の付き添いなんだから、絶対に駄目。赤の他人なら兎も角……」
ジト……。
洸祈が軽蔑の眼差しを向けてきた。
「あのさぁ、赤の他人は犯罪だから。知らないおじさんに飴ちゃんあげるなんて言われたら、気持ち悪すぎ。ドン引きだわ」
………………………………俺はどうしてこの男の恋人してるんだろう。
今、プツリと音を立てて何かの糸が切れた気がした。
「…………洸祈、俺達別れる?」
もう言うことはないと誓った言葉がするすると出てきた。
不思議なくらいあっさりと出てきた。
すると、洸祈は口をあんぐりと開け、俺の服の襟首を掴み、
「やだやだやだやだやだやだ!そんな事言うな!ごめん!ごめんなさい!謝る!別れるなんて言わないでよぉおおおお!はるの馬鹿阿呆ナメクジ!!!!」
物凄いスピードで謝ってきた。大声で喚きながら、涙を目尻に浮かべ、縋るように叫ぶ。
顔を真っ赤にし、建物中に響かんばかりに「陽季の馬鹿ぁぁあああ!」と泣く。
そして、床に膝を突き、「陽季のあほぉおおおお!」と怒鳴りながら土下座した。
近くまで来ていたパーティー会場から騒ぎを聞き付けた老若男女が出てくる。
嗚呼……俺は社会的に死んだ。
「何でもするから!捨てないで!靴でも何でも舐めるから!だから、俺を捨てないでよぉおお!」
洸祈が俺のスニーカーを舐めるために足首を掴んで擦り寄ってくる。
若い女性が目をまん丸にさせ、口元を手で覆う。男性陣はただただ訳の分からないシーンに口を開ける。
俺も意味が分からない。
もう…………無理…………生きていけない…………。
あまりの出来事に俺の頭の回路はショートし、土下座体勢の洸祈に足を掴まれて動けないでいた時だった。
「うげっ!洸!?どうなってるのさ!」
千里君が猛ダッシュで現れ、洸祈をひっぺ剥がす。
その勢いで俺の足は縺れ、葵君が「大丈夫ですか?」と支えに現れる。
「うえっ、ぐ、ちぃ、はるが、っ、う、別れるって、っう、うぐっ、嫌なのに、別れるかって、聞くからっ、あぅ」
「あーあー、顔がヤバい。あお、ハンカチない?」
「はい。洸祈にあげる。返さなくていいよ」
葵君がパンダ柄のタオルハンカチをポケットから出す。千里君は洸祈を廊下の壁に凭れて座らせると、泣きじゃくる洸祈の顔にハンカチを押し付けた。
「大丈夫ですよ、陽季さん。陽季さんが悪くないことは分かってますから」
優しい双子の弟は温かい言葉をかけて励ましてくれる。
洸祈と並ぶと、葵君がいかに紳士な子か……。
「僕より洸の方が号泣じゃん。で?洸は何しようとしたわけ?」
「…………………………………………幼女……」
ハンカチで顔を隠しながら一言。
野次馬の中にいたお母様方が子供の姿を確認しようと数人消えた。
「陽季さんにダメって言われたんでしょ?じゃあ、ダメだよ」
「うう……仲良くなりたかった…………」
「聡美ちゃんのこと?じゃあ、琉雨ちゃんのことは?世界一可愛いんでしょ?」
「ううん。宇宙一可愛い。女神様。…………聡美ちゃんはちぃにちょっと似てたから。柚里さんのいとこの子供だし……目とか少し似てる」
人混みを掻き分け、愛子さんが現れる。オロオロとし、千里君を呼んだことで何か起きてしまったのではと慌てているようだった。
「…………洸って僕の顔に似た幼女が好きなわけ?」
幼馴染の親友と言えど、千里君が困惑している。
「好きというか…………ちぃは息子みたいな…………愛でる対象というか……」
「は?」
洸は何言ってんの?と言いたげに俺の顔を見る千里君。洸祈の言いたいことは何となく分かるが、言葉にするには難しく、俺は苦笑いで誤魔化した。
要は幼女は幼女でも、千里君に似た幼女だから、どうしても仲良くなりたかったのだろう。遠くから観察するだけでは耐えられなかったのだ。
つまり、『可愛い幼女』と言うだけだったのなら、見るだけで耐えられたという事だ。
洸祈は保護者的親友として千里君が大好きなのだ。
「確かに、聡美ちゃんは千里に少し似てるな。美人になる」
葵君も小さな声でだが、納得してるし。
「もう……そんなに聡美ちゃんと仲良くしたいなら、まずは聡美ちゃんのお父さんとお母さんと仲良くなってからだよ。できる?」
「…………頑張る」
「じゃあ、僕と一緒に行こう?僕も親戚の人達とちょっとだけ話してみたいし」
「うん。ありがと……」
猫背になった洸祈が立ち上がり、そして、俺に近付いた。
「はる、ごめん。聡美ちゃんの両親から攻略する。だから、許してくれる?」
「こっちこそ、別れるなんて言ってごめん。両親に許可もらってからなら、聡美ちゃんと仲良くなっていいよ」
千里君と一緒ならば、きっと大丈夫だろう。少なくとも『知らないおじさん』ではなくなる。
俺はまだ涙の跡が残る洸祈の頬を親指で拭った。
洸祈は掠れ声で「ありがとう」と笑みをこぼす。
泣かせてやろうとは思っていたが、やはり、洸祈には笑顔でいて欲しい。
洸祈は甘えたの子猫から戦士の顔になると、愛子さんを振り返った。愛子さんは洸祈に睨まれてギョッとするが、そこは隣にいた千里君のお陰で逃げられずに済む。
千里君が率先して声を掛け、愛子さんは驚いた表情をし、それから二人をパーティー会場へと案内した。野次馬も会場へと戻って行く。
「俺達も行きましょう」
「そうだね」
洸祈が次に泣く時は、きっと千里君にも止められないだろうから。
葵君と一緒に俺も会場へと向かった。