いち
用心屋を出発して3分。最初に口を開いたのは千里だった。
「あのさぁ」
軽自動車の助手席に座る彼は後部座席の二人を振り返る。
同じ顔だけど、千里にとっては天使と悪魔の差がある双子の兄弟。
その『天使』の方、葵が「ん?」と首を傾げた。
「なんで、この配置なの?」
「配置って、なんの事だ?」
「席だよ!席!」
一言で伝わらなかったことに苛立った千里が噛み付くように答え、肩に双子の兄の頭を乗せた葵が素っ頓狂な顔をする。
「席って……陽季さんが運転席で、千里が助手席で、俺達が後部座席で――」
「そこだよ!なんで僕が前なのさ!」
頬を膨らませ、前のめりになって抗議する千里。特に葵に凭れて目を閉じる洸祈を睨んで。
しかし、葵は「後ろがいいなら、代わるけど?」と返事をし、千里の気持ちには気づかず、洸祈が片目を開けて千里を見上げた。
「代わるのは僕と洸!洸が前!僕が後ろ!そうでしょ!?」
「そうでしょって……だってさ、洸祈。千里が代わってって言ってるよ?」
「嫌」
ばっさり一言。
また両目を閉じた洸祈は葵の首筋に顔を埋め、葵は擽ったそうに身を捩った。
「何でさ!陽季さんの隣嫌なの!?」
「ちぃは嫌なわけ?」
「え……」
チラリ。
運転席を見た千里の目と一瞬だけ余所見をした陽季の目があう。
「い、嫌じゃないよ!……でも……」
「でもって何?はるのことホントは嫌いなわけ?」
「あう……ちが、くて…………うう……」
陽季を引き合いに出され、しどろもどろになる千里。言い返したいが、言い返せない状況に肩を竦めて小さくなる。
そして、車が右折した時だった。
「洸祈は前」
千里に助け舟を出したのは――
「…………はる……」
陽季だった。
陽季の声に背筋を伸ばした洸祈と彼がミラーを通して見つめ合う。
「……ちぃに甘くない?俺だって愛する弟とイチャイチャしたい」
「ちょっ、やめて」
洸祈の手のひらは葵の腹から胸元へと上がり、破廉恥なそれを葵が咄嗟に捕まえた。そんな二人の和気藹々な雰囲気に千里が目付きを悪くする。
本来ならば、千里が葵の隣にいたはずなのに、お出かけ前のトイレに行っている間に葵の隣を洸祈に陣取られていたという。
そして、どうにか洸祈に座席を移動して貰う前に、陽季に「好きなとこ座ってね」と催促されて、取り敢えず助手席に乗り込んだのだった。
「俺は千里君に甘いんじゃなくて、俺に甘いの。俺といる時は、洸祈は俺の隣。交代してくれる?千里君」
「あ…………はい……」
ハザードランプを付けて端に駐車した陽季。
千里が車から降りて後部座席のドアを開ける。隙間から差し込んだ光に目を細めた洸祈が唸った。
「ほら、陽季さんからのご指名だよ」
葵が自分にべったりな洸祈の背中を押した。
それでも、我儘を言おうとした洸祈が振り返った時、陽季が少しだけ怖い顔をして助手席を指差しているのが見え、洸祈はしぶしぶと千里に席を譲った。
「ありがと」
俯く洸祈の横顔に千里が感謝する。
「……ごめん」
洸祈もまた、小さく謝罪した。
そうして、何でもない顔をした洸祈が助手席のドアを開けると、陽季が満面の笑みを見せて「ありがとう、洸祈」と手を差し伸べていた。
「俺も陽季に甘いから」
「うん。仲良くできたご褒美に皆にアイス奢ってあげるね。途中にあるサービスエリアに有名なアイスのお店があるんだ。あ、ガイドブック見る?」
「見る」
助手席に座った洸祈は靴を脱いで体育座りをし、ガイドブックを開く。そんな彼の唇は嬉しそうに引き延ばされており、陽季は後部座席の二人に“大丈夫だよ”と言う意味を込めてウインクした。
季節は夏。
とある平日。
洸祈と葵、千里、陽季の四人は長野まで二泊三日の旅行に向かっていた。
何故、この四人なのかと言えば、そもそもこの旅行の目的地に理由があった。
それは長野の避暑地にある別荘――櫻一族が所有する多数ある別荘の一つ。
『うえ、長野?僕が行くの?あ……い、行くんですか?』
『ああ。お前が行くんだ。行って、今年のゴルフ大会に私は参加できないと伝えてこい』
『電話じゃダメなんですか?』
『…………』
千里の祖父、櫻勝馬に上から目線で睨まれ、千里は狼に狙われる子羊のように肩を震わせて縮こまった。
『行きます…………でも、どうして僕……僕より翼さんの方がいいんじゃ…………せっかくの夏休みだって言うのに、僕の顔を見て、その上、お祖父様の不参加なんて伝えたら……』
『年中暇な万屋勤めのお前と違って、翼は夏休み返上で仕事だ。ならば、お前が行くしかないだろう?怖いなら、崇弥を連れて行けばどうだ?私の不参加のことなど忘れて、お前を他所に喧嘩してくれるぞ?』
『迷惑かけたくないので、僕一人で行きます』
『そうか。…………崇弥は迷惑とは思わないと思うがな。まぁ、いい。別荘は避暑地にある。暑いからと言って涼しい恰好をしていると風邪をひくからな。お前は良く臍を出しているし、一枚ぐらいは羽織るものを持って――』
ふと、口を噤んだ勝馬は千里の背後を見ていて、千里も振り返ると、メイド姿の女――櫻由紀が静かに立っていた。勝馬の亡き娘――櫻雪と同じ容姿の彼女は「お話中、申し訳ございません。お医者様がいらっしゃいました」とゆっくり頭を下げる。
『あ、えっと、僕は帰ります。失礼します、お祖父様。……あと、羽織りは持っていきます……』
『お店までお送り致します、千里様』
『…………葵が駅で待ってくれてるから……歩いて行きます』
鞄を持った白衣の男が現れ、これ幸いと出て行こうとする千里。勝馬も引き止めたり、小言を追加することはなく、千里を見送る。
『千里』
『あ、はい』
『次は駅で待たせるな。連れてこい。茶と菓子ぐらいは用意できる。特別理由もないのに腐るほど届く土産も持って帰って貰いたいからな。店は大人数だろう?』
『…………ありがとうございます………………その……お祖父様もお身体を大事にしてください……』
『………………ありがとう』
斜め下を見詰める千里と勝馬が目を合わせることはなかったが、互いを包む空気は以前とは真逆で、とても温かいものに変わっていた。
そして、千里は櫻家を後にした。
目的地は長野にある櫻家の別荘。
目的はそこから程近い場所に位置するスキー場兼ゴルフ場で行われる毎年恒例の櫻一族ゴルフ大会において、櫻勝馬の不参加を会場まで出向いて伝えることにあった。
不参加の理由は、櫻勝馬の腰痛……否、ぎっくり腰だ。
床に就く勝馬にそれらを伝えられた千里は「一人で行きます」とは答えたものの、櫻一族の中で“いないもの”――“カミサマを宿した化け物”扱いされている千里が一人で行った時にどうなるか……千里は櫻家からの帰りの道中で葵に相談していた。「俺も一緒に行くよ」と言われるのを分かっていながら。
「はぁ、なんで洸まで一緒に行くことになってるんだろ……」
濃厚抹茶アイスで有名なお店に隣接するイートインスペース。木製のベンチに葵と並んで座る千里がアイスを舐めながらぶつくさ呟く。
ちなみに、話題の洸祈は早々にアイスを食べ終え、陽季と一緒に売店を見に行っていた。
「洸祈はお前が心配なんだ。琉雨と呉は千鶴さんが見てくれるって言うし。それに、洸祈の面倒は陽季さんが見てくれる。陽季さんのおかげで電車の乗り継ぎとかなしで、車で行けるしな。夏休みの長野旅行。そう思えばいい」
「うー……お泊まり付きのダブルデートって思っとく……」
「まぁ……そうでもある」
「温泉出るらしいし。一緒にお風呂ね」
「それは明日のゴルフ大会で勝馬さんの名代を無事に果たせた時のご褒美な」
「………………え……」
「なぁなぁ!これ!陽季が買ってくれた!」
白い…………羽の生えた馬っぽいもの。
「ペガサス?」
葵が瞬時にそう判断して訊ねた。
洸祈が掲げていたのは二足立ちの馬のフィギュアが付いたストラップだった。絶妙にかったるそうな表情をしている。
「んー、ゆるキャラ?」
暫くして、アイスのコーンを大きく口を開けて食べた千里が訊ねた。
「うん。なんとかなんとかって言う、長い名前のゆるキャラだって。キモ可愛いなぁ、って見てたら、陽季が買ってくれた。いいだろ。陽季とお揃い」
「え、お揃いなの!?罰ゲームじゃん」
「陽季も可愛いねって言ってくれた!」
遅れて売店から出て来た陽季の手には例の馬のストラップが付いた車の鍵があった。
「食べ終わった?じゃあ、売店見る?」
「お昼ご飯は別のサービスエリアだから、そこで見ます」
「洸祈に助言貰って飲み物も買ったから、飲みながら行こっか。一時間ぐらい走るよ」
「てことで、二人とも、行くぞー」
一人ガッツポーズをして駐車場へ向かう洸祈。彼の持つショルダーバッグには陽季とお揃いのストラップが付いてた。既に過去の旅路で獲得した謎のキャラクター達のストラップが付いていたが、そこに追加されている。
「陽季さん、何でも洸とお揃いにしなくてもいいと思うけど」
「ジョナサン・ヌマニエル君?俺も可愛いって思ったから。ちょっと、洸祈っぽくない?」
疲れたようなやる気のない表情だが、憎めない顔。むしろ、よく見ると愛嬌が…………嬉しそうに語る陽季に千里は「流石、陽季さん」と小さく零した。
「旅館じゃなくて別荘って言うのに、源泉掛け流しの檜風呂とは…………はぁ、最高」
「……………………うぐぐ……」
「なに不貞腐れてるんだ?」
「いいもん……明日、お風呂と葵を堪能するから」
日が落ちる寸前、櫻一族の別荘に着いた四人は荷を下ろし、取り敢えず、風呂に入ることにした。
一番最初に運転役を買って出てくれた陽季が入ることとなり、他の人を待たせるのは悪いから……と、ちゃっかり洸祈を風呂場へと連れて行ってしまった。暫くしてボケっとした表情の洸祈の髪を拭きながら陽季も風呂を終え、葵に促されるまま千里が入った。そうして、最後に葵が温泉を満喫してリビングに戻ると、千里が悔しそうに拳を握っていた。
葵の頭頂から胸元へと、腰へと視線は下がり、つま先を見てから濡れた項を見詰める。
葵はしまったと言う顔をして物欲しそうな千里から顔を背けた。
その先は洸祈の頭頂である。
何故か、陽季ではなく千里の膝に乗っていた。
「陽季さんは?」
「台所。お陰様で僕は洸のお守りさせられてるー」
「ありがとう、千里君。葵君も座って。軽い夕食作ったから。テレビ見ながら食べよう?」
「あ…………手伝いせずにすみません」
「いいんだよ。俺が食べたくなったんだ。一人じゃ寂しいから皆付き合って?」
クラッカーの上には小さく切った野菜やチーズ、ハムなどが乗っていた。洒落たそれ――カナッペが並ぶ皿をローテーブルの真ん中に置いた陽季はワイングラスを並べる。
「千里君はオレンジジュースだよね?葵君はどうする?白ワイン用意してるけど」
「あ……」
陽季に合わせて白ワインにすべきか、やはりここは酒類は控えておくか。
葵が口にせずに悶々と考えていると、千里がさっさとオレンジジュースを二つ目のグラスにも入れる。
「今夜はあおもオレンジジュースだよ。ワインは明日のご褒美の時にとっとくから」
「ご褒美?お祖父様の伝言を伝えに行けた時のご褒美だね。洸祈は……嗚呼、預かるよ」
そう言った陽季は千里の膝枕から洸祈を剥がし、自分の膝枕に移動させた。
小さく唸り声をあげた洸祈が陽季の腕を掴み、自分の頭に乗せる。すると、陽季はワイングラス片手に洸祈の頭を撫で始める。
洋画の流れるテレビを眺めながらカナッペを摘み、グラスに口をつけ、片手間に洸祈の髪に指を絡める。時折、耳朶を弄ったり、前髪を上げて額に触れたり。洸祈は満面の笑みを見せながら、目を閉じて膝枕を堪能している。
そんな彼の仕草を見ながらオレンジジュースを飲んだ葵と千里は目を合わせると、合図もせずに深く頷いた。
「犬だね」
「猫だな」
「じゃあ、犬みたいにくっ付いて、猫みたいに我儘で、犬みたいに喜んで、猫みたいに満足げ、だね」
「だな」
洋画は銃撃戦の最中だが、洸祈の周辺だけはゆったりと穏やかな空気が漂っているようだった。
「洸祈、千里君起こして――」
朝陽の差し込む寝室で、ベッドを前に洸祈が頬杖を突いて一人用ソファーに座っていた。
「何してるの?」
朝食を作っていた葵の依頼を受けて千里を起こしに行った洸祈が一向に帰ってこず、陽季が様子を見に行けば、洸祈はソファーに座って寛いでいた。クッションを膝に乗せ、ベッドの方を見詰めてボーッとしている。
「んー……天使だなーって」
「天使…………」
洸祈の視線の先は千里だ。
白い布団に埋もれてスヤスヤと眠る千里は穏やかな表情で、朝陽が彼の長い金髪を眩い程に輝かせていた。
「ちぃって、人見知りだろ?」
「そうだね。俺も最初はろくに目を合わせて貰えなかったし」
「挙句に美人だから人目すっごい引くだろ?」
「そうだね。千里君と一緒に歩いていると、本当に人目を感じるよ。それもあって人見知りなのかな」
「葵と俺とで箱入り娘のように人目を忍んで育てたからな」
「それは完全に過保護な双子のせいだね」
「ちょっとやり過ぎたかなーとは思うけど、俺達、可愛いちぃが大好きだから」
少しだけ恥じらうように肩を竦めながらも、唇は笑みを称える洸祈。真面目かつ本気の表情に陽季はあきれることも無く、洸祈はそういう人かとすんなり認めた。互いの凝った性癖も余すこと無く知り尽くしている二人だからこそ、陽季は素早く判断した。
洸祈にとって、千里は虐めたくなる対象であるということ。
昨日の車の座席争いも然り。
「お陰様で、ちぃはあまり外に出ず、外に出ても他人から目を逸らすようになった。そして、俺達は天使様を堪能できる。見た目も存在も天使だなって」
そう語る洸祈からは既に恥じらいは消え去り、代わりに恍惚とした表情をしていた。
これ以上、歪んだ愛情を吐露する前にそろそろ千里を起こした方が良さそうである。陽季は布団を退かし、千里の肩を揺すった。
「千里君、起きて。葵君が朝ご飯作ってくれたよ」
「ううう……ぁ……う……朝が……来てしまった…………あああぁ……」
天使の寝顔は険しい顔付きへと変わり、千里は枕の下に潜る。
どうやら、起きたくないらしい。
「ちぃ、ゴルフ大会開始まであと3時間だぞ」
「ぅううううぅぅぅ、行きたくないよぉ」
「ごめん、あと2時間45分だった」
「あああああぁ…………もう無理……」
くすくす。
千里が見てないのをいい事に、洸祈は嘆く千里を見ながら腹を抱えて静かに笑う。そんな洸祈を陽季が目を細くして睨み、洸祈は悪戯のバレた犬のように肩を落として俯いた。
「ちぃ、俺達も一緒に行くから。たとえ、櫻と崇弥の大乱闘になろうとも、最後は陽季を盾にすれば、櫻も手は出せないから」
「何それ……陽季さんを盾にするとか、洸が許すわけないじゃんか…………大乱闘決定だよ…………」
「親友の為なら俺は許すよ?」
「まぁね。千里君の為なら盾になるよ。へなちょこだけど」
起きたばかりと言うのに、疲れ切った顔の千里は陽季を見上げる。
「うう……いいよ……見守ってくれてたら…………お祖父様に頼まれたんだもん…………やるよ……これぐらい出来るよ…………頑張る…………」
俯いたままベッドを降り、洸祈の腕を握った千里。
基本的には楽な方へと流れたがる千里だが、今回は違かった。どんなに憂鬱そうな顔でも、洸祈から目を逸らさなかった。洸祈も「分かった。見守ってる」と言って、千里の頬を軽く摘んだ。
「うー?」
「ちぃなら大丈夫。子供の時とは違う。沢山成長したから。櫻本家当主のお祖父様を説得出来たんだから、分家なんて序の口………………俺が言えた義理じゃないって気付いた。ごめん、ちぃ」
「………………そう言えばそうだね。でも、ありがとう。我ながら沢山成長したと思う。だから、分家に伝言伝えるぐらい序の口だよね」
「ジュースとおやつ一杯積んで行こう。フリスビー買っといて良かった。遊ぼう」
「うん。……あ、花火も買わなきゃ。夏と言えば花火だし」
「線香花火サバイバルしないとな」
「え?サバイバル?何それ。血なまぐさい花火。サバイバルなんて嫌だよ」
「皆集まって楽しそうだけど、朝ご飯が冷めちゃうから早く来て」
エプロン姿の葵が陽季の隣に現れる。
「だって、洸が花火でサバイバルするって……」
「はいはい。俺はサバイバルしないからね。普通に花火するからね。ほら、一人分だけウインナーが一本多い皿があるから、早い者勝ちだよ」
「俺!」
「僕!」
ほぼ同時に洸祈と千里が振り返り、そして、競うようにリビングへと走って行った。
「危ないよ……」
陽季は狭い廊下をドタドタと騒がしい二人の背中に注意するが、聞こえるはずも無い。葵は「多いの二皿だったかも」と少しだけ意地悪な表情をした。