ほの暗く
コンコン、とノックする音が聞こえ、部屋にあった本から目を離し、「どうぞ」と声を掛けた。ドアが開き、そこに立っていたのは僕を助けてくださったこの屋敷の令息であった。
「そのままで結構ですよ。そこの椅子に座っても?」
メルクス様は律儀に問うてきた。貴族の方を立たせるわけにもいかないので構いません、と返事をする。
「加減はどうでしょうか。見た感じは良くなっている様に思いますが何か変な感じとか、ありませんか」
にこやかに聞いてきた。僕は素直に返事をしようとして、気付く。
メルクス様の目が、笑っていない。獰猛な光を帯びている。
「ありません。この度はお救い下さいまして有り難うございました。明日にはこちらをお暇致します。いつか、この御恩をお返しーー」
「では、貴方の『お姉様』をこちらに置いて行っては下さいませんか」
冷酷な瞳がこちらを射抜く。僕は、思わず「は?」と言ってしまった。
「何故でしょうか。姉を置いて行けだなんて」
「あの方はシェファーヌ・キンクスです。貴方の前でなんと名乗っていたのかは分かりませんが、神の御子です」
「そうであったとしても今現在シェファーヌは僕の姉です」
「戯言を言うんじゃない!」
バン、と椅子が後ろに倒れ、メルクス様は勢いよく立ち上がった。端正な顔には怒りの色がありありと浮かんでいる。
「シェファーヌは君のものではない! 皇太子のものでもない!」
歯を食い縛り呻く様に呟く。
「僕のものだっ……!」
その顔を見て、その言葉を聞いて僕まで苛立ってくる。
「姉さんは誰のものでもない、貴族でもない。自由を愛し、醜く歪んだ貴族社会を誰よりも憎んでいる、一国民です」
きっと、僕の瞳には嫉妬が映っているのだろう。
幼い頃の姉さんを知っている?
だからなんだ、一番長く一緒に生活し、色々と知っているのは僕だ。
姉さんを独り占めして良いのは、僕だ。
「エヴァル、といったか」
「そうですが」
メルクス様の口調が最初の丁寧なものとは打って変わり、乱暴なものになっていた。
「シェファーヌが貴族の出である事を知っていたのか」
きっと、こう言いたいのであろう。
何故、皇太子から『シェファーヌを探せ。見つけたものには多額の謝礼を、匿ったものには重い刑罰を与えよう』と触れが出ていたのに隠していたのか、と。
でも、僕は姉さんを匿っていたわけではないし、これには当てはまらない。それに、姉さんに拾われた当時、僕は姉さんがいなくては生きていけなかった。
「尊い身分であるのかな、と言う事には三年目、理路整然とした考えができる様になった頃から思い始めました」
メルクス様の顔が歪んだ。
「何故、申し出なかった。皇太子殿下までも、血眼になって探していた人物だ」
ああ、分かっていない。この、生まれ落ちてから自分が身を置く貴族社会になんの不満も持ったことのない、金持ちのボンボンは、分かっていない。姉さんの気持ちなんて。
嘆かわしく思う反面、誇らしくもあった。
姉さんの事を正しく理解しているのは僕だけなのだ。
「何故、ですか。愚問ですね。メルクス様は姉さんと長い事一緒にいたのではないのですか。そこで、気付かれてはいないのですか」
つい、喧嘩口調で挑むとメルクス様は僕の胸ぐらを掴んで捻り上げた。
「今、何と言った」
光のない瞳。
まだ本調子でない僕は力が入らず、されるがままになっていた。
どんどんと首が締まり、部屋に僕の様子を見にきた医師が止めに入らなかったら窒息していただろう。
メルクス様は息をつき、最初の頃の、好青年の態度をとって医師に謝った。部屋から出ていく瞬間、医師がメルクス様に背を向けていた時を狙って口を動かした。
『何であろうと、奪う』
僕は口の端を上げ、綺麗な弧を作って微笑んだ。
『やれるものならやってみろ』
姉さんは、僕が守る。