雨の下で
夜。
ボロボロのローブを被った二つの影がゆらゆらと揺らめく。
「もう少しで着くから」
激しく打ち付ける雨。形に手を回す美男子は雨でびっしょり濡れているにも関わらず、とても熱い。
「もう……無理しなくても……良いんだよ……」
私より背の高い彼は実の弟ではない。でも、私にとっては血の繋がった家族よりも大切な相手。家族よりも深い絆で結ばれた、唯一の弟。
「私は貴方を死なせないわ」
舗装された道路を、彼の負担にならないくらいのスピードで急ぐ。
私は、知っている。彼ーー私が『エヴァル』と名付けた私より少し若い青年の罹った病は貴族などの金持ちにしか払えない薬でしか治らないということを。
そして、この領地を治める伯爵家にその薬のストックがたくさんあるということを。
恐らく、優しい伯爵家は薬を恵んでくれる。そして、お金は払わなくて良い、と言ってくる。これは私達の贖罪だ、と辛そうな顔をする事も知っている。
そこに漬け込もうとするなんて、私は悪い女だな。
でも、エヴァルまでも私の前から居なくなってしまっては。
私が壊れる。
「もうすぐの辛抱よ。お願い。意識を保っていて!」
「姉さん……でも、でも」
「私は、貴方のいない人生なんて考えられない、お願い、私の為に」
蒼い瞳が何か言いたげに揺れた。
私はそれを言わせない。頭の良いエヴァルだ。きっと、私の出生について自分なりに推理し、正解を導いたのだろう。
「分かった」
ふう、と辛そうに息を吐くエヴァル。耳に熱い息がかかる。
もうすぐだ。もうすぐで伯爵家に着く。
大雨であった事もあり、通りに人はいなかった。時折、馬車が通るだけ。たまに泥水を巻き上げて通っていく。僕にかからないように姉さんが全ての水を被った。
泥に塗れた、縮れた髪に、こけた頬。スカイブルーの瞳はかつての柔らかいものを感じさせず、鋭い。
でも、元から持っている美貌は変化していなかった。出会った頃とはまた違う美しさを滲ませていた。
「ここよ」
ほっとしたように息をつく姉さん。でも、顔には緊張の色が浮かんでいる。
きっと、幼き頃によく遊んだという同い年のメルクス様のことを危惧しているのだろう。
姉さんは、10年前、実家から家出をした公爵家の娘だ。
『神の御子』と称されたシェファーヌ・キンクス。
この国の皇太子の覚えもめでたく、ゆくゆくは妻に、とまで言っていたという。
そして、皇太子から婚約の通達が届く1日前。
シェファーヌを起こしに部屋に行った侍女はシェファーヌが居ないことに慌てる。すぐに公爵夫妻、シェファーヌの兄に伝えるが最初は隠れんぼをしているのだと楽観視していた。しかし、夜になっても現れないので漸く慌てだし、探すも見つからなかった。
姉さんに一度聞いてみたが否定された。
『貴族特有の金髪ではないでしょう?』
そう言って。
平民は黒い髪、貴族は金の髪、皇族は銀の髪の子しか生まれない。何故か。そして、姉さんの髪は黒かった。見かけは。
一度、睡眠薬を飲み物に混ぜ、ぐっすり眠っている時に髪を丁寧に洗ってみた。
眩い光を放つ金の髪だった。
煤をつけて隠したが、それで確信した。
姉さんはシェファーヌだと。そして、何故か貴族の世界から底辺の世界に逃げてきたのだと。
だから、僕の病は伯爵家にしかない薬でしか治らない、行こう、と言われた時、拒否した。貴族を見れば凄い勢いで身を隠す姉さんは、きっと伯爵家に行きたくないはず。でも、姉さんは拒否を認めなかった。
『ねえ、お願い。私の為と思って』
ついに僕が折れて頷いた時、僕の体は病気に蝕まれていた。姉さんの肩を借りなければ歩けないくらい。
「どうされたのですか」
門番が問いかけてきた。他の領地では考えられないくらいに優しい。
「弟が、病気で。私の様な、下民には、治す術も、有りません。どうか、慈悲を……」
姉さんが息を切らして言う。
門番は困った顔をして姉さんに言った。
「門兵の一存で決められることではありませんし、生憎伯爵家の方々は公爵家主催のパーティーに参加しておりまして不在なのです」
姉さんの顔は酷く疲れていた。
「何時ごろ帰ってこられるのでしょうか」
門番は門に置いてあった傘を差し出し、僕たちが濡れない様にしてくれた。
「どうでしょうか……キンクス公爵家のパーティーは長いことで有名ですし、シェファーヌ様の生誕をお祝いするパーティーとあって、なかなか帰られないのではないかと」
絶望の色を浮かべた瞳が僕を見つめる。
「そうですか。本日でしたか。……エヴァル、御免なさい」
そのまま姉さんは崩れ落ちた。僕も一緒に地面に崩れる。
門番はおろおろしていたが顔を上げて姉さんの肩を優しく掴んだ。
門番が何か言う前に、甘い声が降ってきた。
「どうしたのだ」
姉さんはびくりと体を震わせ、からからと車輪の回る音のする方へ目をやった。僕もそれに倣い、見た。
「どうか、薬をーー」
姉さんはそのまま前に倒れた。
僕も、支えをなくし、一緒に倒れる。
「侍女を呼んできてくれ、医者もだ。屋敷で治療する」
若い、美しい青年が馬車から降りてきた。
「これは、シェファーヌ様も罹っていた光月病ではないか」
伯爵が降りてきて僕を見つめた、そして、手を握ってきた。
「安心しなさい。君は絶対に助かる」
優しげに細められた目を見て、力が抜けた。
すっ、と意識がなくなる。最後に見たのは尊い身分であるにも関わらず僕達の為にびしょ濡れになりながら懸命に指示を出す伯爵家一家の姿だった。