夜の膜
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふー、今日もお疲れ様でした!
はー、ほろ酔いが一番ですね、先輩。ちょっと前にべろべろんに酔っちゃいまして、危うく線路に落ちかけちゃったんですよ。やー、隣にいた友達には感謝ですよ感謝。
――はあ? 命がかかっていた割には、言い方がやけに軽い?
あれ〜、そうですか? やっぱお酒が入っているせいですかね。もういま、こうして生きているなら、他のことはどうでもいいかな〜って、放り出せちゃいそうになるんです。家で一人飲むときなんかは、もっと先の潰れるくらいまで行っちゃいますけど。
先輩もですね、外で飲むときには前後が分からないくらい飲むのは、控えた方がいいですよ。私がいえた立場じゃないですが……ときに、愉快じゃない目に遭ったりするそうなんで。
――え? 話し方次第じゃ、愉快になるかもしれない?
あ〜、この流れで話を聞きたいと? うん、でも先輩ならいつものことですかね。
ちょっといい気分なんで、聞きづらいところがあったら、いってくださいよ?
地球は丸い。そう証明されてから、長い時間が過ぎました。
その証拠のひとつに、見えるものの存在があります。もし地球が平らだったなら、昇ってくる朝日は拝めません。はるか遠くにある太陽が、ずっと近づいてくるだけです。
遠くにあるものもしかりです。もし地面が平らだったのなら、世界にあるあらゆるものが視界の中におさまるはず。まあ、別の物の影になっていたりするかもですが、視力次第ではなんでも確認できるでしょう。でも、実際には高いところへ登らないと、はっきり見えない場合もあります。
私たちにとって、視覚は大きな判断材料。真実をとらえるにも、幻に惑わされるのにも、たいていは目で見えたものが影響してきます。
だがら正常に保てないと、危ないことこのうえないんですよ。
私の友達の話です。
仕事先のオフィスで朝のミルクコーヒーを飲んでいたらですね。出張から帰ってきた上司が、松葉杖つきながら出勤してくるじゃありませんか。話を聞いてみると、高いところから落ちてケガをしたとのことですが、経緯が妙なんですね。
関係者の方々と一緒に飲んだ、帰り道のこと。したたかに酔った上司は、千鳥足で宿泊先へ向かっていたそうです。
何度も転びそうになるのを、ところどころにある電信柱へ寄りかかることでしのぎ、どうにか前へ前へと進んでいきました。
ところが、ある魚屋さんの脇まで来たとき。こみ上げてくる吐き気に、上司はこれまでより長く深く、柱へ寄りかかってしまいます。おぼつかなかった足元も限界を迎え、ほとんど柱へすがりつく形で、その場へ座り込んでしまいます。
すでに夜も遅く、通行人の姿は辺りにありません。タクシーや長距離移動のトラックの気配もしません。静かな空間でした。
立ち上がろうとする上司ですが、どうも足から震えが抜けません。同時に、正面に続く道の両側、魚屋を含めた建物たちが勝手に動き出したんです。
足が生えるとか、横に滑っていくというものじゃありません。まっすぐ伸びる正面の道を中心に、右は右へ、左は左へ。どんどんのけぞって行って、見えなくなっちゃうんだそうです。
――え? 仮にのけぞったとしても、地面にぶつかって止まるだろって?
それがですね、地面も一緒にのけぞっていったそうなんですよ。いや……山折りに近づいて丸まっていく、といったところでしょうか。
閉じ目を求めて、ますます狭くなっていく地面はついに上司の足元をとらえます。支えを失った上司は、そのまま見えない暗闇の中へ落ちていき……やがて、どこかに思い切り体を打ち付けてしまいます。
足は体の下敷きになり、落下の衝撃もあって、ご覧のありさまになってしまったとか。そして改めて見回すと、先ほどと変わらない景色がそこに広がっていて、あの体験の証拠はケガをした自分の身体のみしかなかったとか。
正直、友達は眉につばをつけながら聞いていたそうです。他のみんなも、「酔っ払ったせいで、どこか高いところか落ちたんだろ」程度にしか、思っていなかったとか。
話を聞いている間、ずっと放置しておいたコーヒーはすっかり冷めてしまっています。一気に飲み干してみると、若干、口の中に違和感。そっとティッシュで拭きとってみると、ミルクの膜がくっついていたそうです。
その日の帰り道。残業しながらも、どうにかその日のうちに仕事を終えた友達は、帰り道を急いでいました。
自分の住むアパートまでは、徒歩15分。そこの最後の十字路で信号待ちをしていた時です。
ぐらりと、地面が揺れました。「地震?」と、とっさに建物から離れて信号機につかまった友達ですが、やがて目の前で建物たちがゆっくりのけぞり出したんです。
地面ごと丸まっていくその姿に、今朝の上司の話が思い浮かびました。そしてこのまま待っていたら、自分も確実に落とされてしまうことも。
――上司は待ち続けていたからこそ、高いところから落ちてしまった……らしい、とのこと。だったら!
友達は信号機から手を離すと、すでに直立から急こう配へ姿を変えつつあった、すぐそばの写真屋の壁へ足を掛けました。
いくつかのテナントが入っている、ビルの一階です。その壁――厳密には登り坂から地面へ移ろうとしている――を、屋上めがけて突っ走ったんです。
自分の体重を支えられないかもしれない、ガラスはよけていきます。5階建ての建物の一番上――すでにビルそのものは下り坂へ転じ、「一番下」となっていますが――へたどり着いたときには、もう立つことさえ難しい角度になっていました。
滑り台の要領で、尻もちをついてずり落ちていく友達の目に見えたのは、確かに滑っているテナントビルの屋上。
それが遠ざかり出す直前、友達はそこの貯水層のてっぺんに着地していました。
振り返って見上げる空には、折りたたまれつつある、広いカバーのようなものが浮かんでいたそうです。
ちょうど石膏を使って、とった型のようだったとか。このビルを含めた、一帯の建物の「ガワ」だけを再現したものが、じょじょに丸まっていき空高く消えていきます。
最終的にくしゃくしゃになっていくその姿は、今朝がた友達が処理したミルクコーヒーの膜を思わせたそうですよ。