スペンサー家の人々 9
「あー、えっと、それじゃ、エルミーユ様の後でお風呂をいただくから、場所だけ教えてくれる?」
エルミーユ様がお風呂に向かったので部屋に残されたのはわたしとマール、そしてわたしに専属で付いてくれるポリーちゃんだけになった。
「はい。お風呂場はこの部屋からですと……」
ポリーちゃんが説明してくれた場所をしっかり覚えておく。わたしは父さんと違ってそれほど方向音痴じゃないから大丈夫。たぶん。
それからポリーちゃんが寝間着とタオルを用意してくれるのを待つ。寝間着はエルミーユ様の使っている物を貸してくれるらしい。
「……それでは、私は隣の部屋に控えておりますので、なにか御用がお有りの際には、そちらのベルを鳴らしてくださいませ。浴室は内鍵が掛かっていなければ、いつでも使えるようになっていますので、お好きな時間に……あ、やっぱり母に怒られるかもしれないので早めにお願いします」
レジーナさんはポリーちゃんのお母さんで正解だったんだね。姉妹にしては年が離れてるように見えたし、従姉妹とかだと似過ぎな感じだったから母娘だとは思ってたけど……。
それにしてもレジーナさん若いね。領主婦人のシャルロット様も二人の子持ちとは思えないくらい若かったから、この世界だと結婚や出産年齢そのものが若いのかも。
ポリーちゃんがサイドテーブルにある小さなベルを指し示してから、頭を下げて部屋から出ていくのを見送ると、わたしは小さく息を吐いてベッドに腰掛ける。
「ねえ、マール? これからどうなるんだろ?」
布団の中に潜っているマールにそう声をかけた。
「そんなの分からないにゃ。とりあえず、今はゆっくり寝るにゃ。明日の事は明日考えれば良いにゃ」
あまり興味が無さそうな声でそう答えるマール。
わたしは小さく溜め息を漏らして、マールが脱ぎ散らかした服を丁寧に畳んでから、教えられたお風呂場へ一人で向かう事にした。
結局、マールは今日のお風呂は無しって決めた。
環境が変わったばかりなのに、無理矢理お風呂に入れて体調を崩されても困るから、濡れタオルで身体を拭いてあげるだけにする。
ポリーちゃんに教えてもらったお風呂場は、実際にはシャワールームで残念ながら湯船は無かった。
壁面にシャワーヘッドが取り付けられてて、その下に赤と青のレバーがある。これは赤い方が温かいお湯で青い方が水かなと予想を付けて、試しに赤い方のレバーを捻ってみると、予想通りに温かいお湯がシャワーヘッドから出てきた。
これはどういう仕組だろう? まさかガス給湯とかのはずがないし、多分、魔法でお湯を作ってるんだよね?
魔法を使ってまでシャワーを充実させるのは、やっぱりわたしより先に転移してきたドロシー・オズボーンさんの功績なのかな。女の子的には、お風呂は大事だもんね。
そんなことを考えながら、備え付けの石鹸を手に取ってみると、とてもいい匂いがする。この石鹸もドロシー・オズボーンさんの発明品なのかな。泡立ちとかは日本のものと比べると物足りないけど、中世風ファンタジーな世界って考えれば期待以上だ。
この世界に来て、まだ一日も経過していないのに、あちこちにドロシー・オズボーンさんの影がチラついているような気がする。
これと同じレベルを求められても、正直困るんですけど……。
全身の泡を洗い流して、ポリーちゃんが用意してくれた寝間着に着替え、部屋に戻ってベッドに入る。
横になって天井を見上げると、先にベッドに潜り込んでいたマールが身体を寄せてきた。わたしのお腹の右側、手が届く辺りで丸くなってる。相変わらず、野生の本能的なものは感じられない。
森の中を走り回ったせいか、それとも領主婦人のシャルロット様と令嬢のエルミーユ様の質問攻撃のせいなのか、ちょっとグッタリしてるみたい。
だけど、わたしがそっと耳の後ろ辺りを撫でると、ゴロゴロと喉を鳴らしたのがわかった。続けて喉から首の周りまで念入りに撫でる。やっぱり、ぬいぐるみとは思えない手触りだ。
「マール? まだ起きてる?」
「もう寝てますにゃ~」
起きてるじゃない。
「今日は、ほんとにありがとね」
「何のことですにゃ?」
「森で助けてくれたでしょ? だから、ありがと」
「マールは何も出来なかったにゃ……」
「そんな事無いよ。わたし一人だったら、多分あのまま……」
森で遭遇したコボルトの血走った目を思い出して、身体が震える。
「マールは、もっともっと強くなるにゃ。強くなって、ルミしゃまを守れるようになるにゃ……」
そこまで言うと、マールはゼンマイが切れたように静かな寝息を立て始めた。
わたしはマールを起こさないように、撫でる手を止めて、ぼんやりと考える。
右も左も分からない世界。自分には何が出来るのかも分からない。
これから先、元の世界に戻る方法を探したくても、何から始めれば良いのかも分からない。
家族から、たくさんの愛情を注がれ育ててもらった十六年間は、幸せだった。
毎日の様に遅くまで会社に残って働いて、わたし達家族を養ってくれた父さん。
母さんもわたしがどんな進路を選んでも良いようにと、少しでもお金を稼ぐためにパート仕事をしてくれていた。
メグ姉は、わたしの勉強を見てくれたり、色んな事を教えてくれたり。
長い休みには色んな所へ連れてってくれたし、必要な物は用意してくれた。
いつも気にかけてくれて、心配して、叱ったり、慰めたり、褒めたりしてくれた、わたしの大事な、大好きな家族。
だけど、わたしは恩返しの一つも出来ないままに、この世界に来てしまった。もちろん望んで来たわけじゃないけど、これまでの恩を返せないままに、更に心配を掛けてしまってるんだろうなと思うと、申し訳ない気持ちで一杯になる。
しばらくは会えないかもしれないけど、きっと今のわたしに出来る精一杯の恩返しは、元気に家族のもとへ帰ることだと思う。
そして、もし家族に会うことが出来た時には、胸を張って「わたしは幸せだよ」って言えるわたしでありたい。
さて。どうしたものやら……。
ため息。
悩んでも仕方がないって事は分かってる。目の前にあることを、一つ一つこなしていくしか無い。
最終目標は、元の世界に戻ること。その為には、この世界の壁を飛び超える方法を探す必要があって、それには知識が必要だ。
そして知識を身につけるには、ある程度の身分やお金が無くちゃならない。なので、わたしはこの世界の事、そして、わたし自身が何を出来るのかという事を知らなくてはならない。
この世界には、魔法がある。そして魔物やエルフ、ドワーフ、獣人なんてのがいる。
それが分かっただけでも、一歩も二歩も前進したはずだ。
──大丈夫。わたしは前に進めてる。
そう、自分を励まし奮い立たせる。
ゆっくりでも、一歩ずつでも、前に進みさえすれば、この世界の事が分かるようになるはず。そして、この世界の事が分かれば、元の世界に帰る手段も見つかるかもしれない。
「明日の朝、目が覚めてまだ元の世界に戻れてなくても、落ち込まない。ガムシャラに足掻いて、元の世界に戻る方法を見つけるんだ」
自分自身に小さく決意表明をして瞼を閉じる。
こうして、わたしの異世界での最初の一日が終わった。
今日は7月21日でヘミングウェイの誕生日らしいです。
ヘミングウェイといえば猫好きとして有名で、多指症(字のごとく指の数が多い)の猫を飼っていたとか。
実は私、ヘミングウェイの作品は読んだこと無いんですが、このにゃんこの事は知ってました。
ヘミングウェイは多指症の猫の事を、幸運を呼ぶ猫として可愛がっていたそうな。
ウチのマール君も幸運を呼んで欲しいですね~




