四の(二) 人事異動
ゴールデンウィーク明けから、数メートル離れた企画第三課で仕事をすることになった。最初は何をすればよいのか分からなかったが、とりあえず藤原課長から渡された資料を読んでみることにした。それは「平成○○年度開発方針」と書かれた資料だった。考えてみれば、同じ研究所にいるのに、隣の企画第三課が普段どんな仕事をしているのか、全く知らなかった。年に一回、所定のフォーマットに従って次年度の研究計画を出すように言われるのだが、接点はそれくらいであった。したがって、結羽が材料研究課でやっていた研究も含めて、T社の研究開発テーマをどこで誰が決めているのか、よく知らなかった。企画課といえば、普通の会社で言えば花形の職場で、企画課が作った方針や計画によって会社を動かすことができるという点では、やりがいのある仕事であるはずだった。結羽は前の仕事に未練が残っていたが、企画の仕事もそれはそれで楽しいかもしれないな、と思うようになっていた。
七月になると急に忙しくなってきた。T社の株主総会は六月末にあって、そこで役員の交代があるのだが、企画第三課では新体制になってから半年間で次年度の研究開発計画を立てなければいけなかった。残業時間は増えたが、仕事内容としては予算の集計など事務職の女性がやるようなことばかりやらされて、つまらない毎日を過ごしていた。残業が増えたことで、社内のバドミントンサークルにも行けなくなってしまった。交際相手の城之内あゆみも秘書課に異動してから研究所とは疎遠になってしまったため、いつの間にかサークルには顔を出さなくなっていた。それでも、週末になると結羽とあゆみはどこかへ遊びに行ったりしており、それが結羽にとって唯一の楽しみだった。しかし、あゆみも二一歳になったばかりで、まだ結婚という話は出てこなかった。
企画第三課は藤原課長と吉村、結羽の三人しかいなかった。このうち、吉村は五〇歳を過ぎており、普通の会社だったらリストラになっているのでは、と思わせるような男であったが、彼はT社の特許を管理する仕事を与えられ、特許の書類を整理整頓するだけの誰でもできるようなことをやっていた。したがって、本当の意味で企画・計画の仕事をしていたのは、藤原課長と結羽の二人だけだった。従業員三〇〇〇人のうち、開発に携わっているのは研究所を中心に三〇〇人ほどであったが、それに対して企画スタッフが二人だけというのはどう考えてもアンバランスだった。七月中に次年度の研究開発方針を作って、八月に各課へ研究開発テーマの検討を依頼するのだが、二人で作った方針というのも大したことがなく、各課はそれを無視して自分たちのやりたいテーマを挙げてくるのであった。一応、挙がってきたテーマは企画第三課で査定して、会社の利益につながらないものなどについては再考を促すのだが、各課は「企画スタッフは現場を知らないからそういう査定になるんだ」と言って、企画第三課の言うことを聞かなかった。結局、各課の希望通りのものを次年度計画として社長に説明する、というのが企画第三課の仕事であった。一二月頃になると社長の了承が得られ、仕事のヤマ場を越えることになるのだが、これでは各課の言いなりになっているだけで、とても会社を動かす企画課という感じではなかった。現場で研究開発もできなければ、企画・計画もロクに作れない企画第三課の仕事は、決してやりがいがあるものとは言えなかった。
しかし、藤原課長という人は不思議な人だった。そんな仕事でもやる気満々で毎日を過ごしていたのだ。とても気配りができる人で、人が嫌がるような調整役も自分から引き受けるようなところがあった。そして、地道なことの積み重ねからT社の駄目なところを変えていくんだといつも結羽に言っていた。そんな課長に最初は結羽もついて行こうと思っていた。ところが、実際は上層部にゴマをすることだけが上手い、ということがだんだんわかってきた。ある日、結羽の作った資料で、今後の計画をどのようにしていくのかを検討する会議があった。結羽が作ったと言っても、当然藤原課長と綿密に打ち合わせをしながら作った資料である。結羽は一通り資料の説明をした後、研究所長、企画部長、研究部長、開発部長の意見を伺うことになっていた。その時の資料は、所長や部長の考え方とは合っていなくて、会議では厳しい意見が飛び交った。当然、責任は企画第三課長にあるわけだが、藤原課長は信じられない言葉を発した。
「所長や部長のおっしゃる通りですよね。結羽君は何故こんなことを書いたのかな?」
正直、信じられなかった。ハシゴを外されたというのはこういうことを言うんだな、と思った。実は、結羽の考え方は所長や部長に近かったのに、藤原課長がこだわって内容を変えた部分を指摘されたのだった。それなのに、課長にハシゴを外され、かと言って「これは課長に書けと言われました」と言うわけにもいかず、結羽が課長の意見を代弁して罪を被る役割を演じなければいけなかった。それでも、会議が終わった後に課長からフォローがあれば少しは気が晴れるのだが、そういうことは一切なかった。最初は結羽も驚いたが、次第にこんなことは日常茶飯事となってしまい、結羽は少しずつストレスを溜めていった。
企画第三課で仕事をしていると、だんだんT社の性格がわかってきた。それは、従業員三〇〇〇人の会社の割に組織が大きく、縦割り意識というか縄張り意識というものが非常に強いということであった。あるメーカーから商談があり、開発第一課に相談しに行くと、「それは開発第二課の仕事ではないか」と取り合ってくれない。第二課に持って行くと、「何故その仕事をやらなくてはいけないのか」と言い始める。第一課と第二課が話し合って、会社にとってプラスになる方法を考えるという発想がないのだ。一方、他の部署から依頼を受けた仕事で成果が出ると、「これはうちの課で出した成果だ」とあからさまにPRし過ぎて、依頼元の印象を悪くする。まるで、「これは経済産業省のプロジェクトの成果だ」とか「これは国土交通省の管轄ではない」とか言っている国の役人と同じではないか、と結羽は思うようになっていた。
T社の予算を見ていても「官僚的だな」と思うことがあった。T社は三月決算であったが、年明けの一月頃から予算を使い切ることを強要されることが多かった。普通の会社であれば、経費を削減すれば、それだけ利益が増えることになるので、経費はなるべく使わない方がいいのだが、T社にはそんな発想がなかった。それは、予算を使い切らないと、次年度の予算が削減されてしまうからだ。三月までに予算を使い切って、次年度は同額またはそれ以上の予算を取ってきた課長が高い評価を受けるらしい。しかも、実際は実用化が無理だとわかっている研究開発でも、何とか誤魔化して予算を取ってきてしまう課長もいて、結羽は何とも言えない気持ちでそれを見ていた。
それでも、現場の各課に好き放題やられていては、企画第三課の立場もなかった。全部は変えられなくても、会社にとって大事な研究開発だけでも少しずつ変えていければ、と思い、結羽は各課の課長に色々なお願いをしたり、相談をしたりした。しかし、お願いしに行くと、
「企画第三課の課長を通して話を持ってきてくれ」
と言われ、その通りすると、
「何故そんなことをしなければいけないのか」
と文句を言われた。お願いは上司経由でしかできないのに、文句は同じルートをたどらずに平社員の結羽に直接言ってくる。権力は課長にあるが、責任は部下にあると言わんばかりの対応だった。どうやら、T社では権力を手にすると性格が悪くなってしまう人が多いようだった。結羽も係長から課長に昇格して決裁権を持つようになると、性格が別人のように変わってしまった人を何人も見ていた。自分はそうなってはいけないな、と思いながら、そうなるくらいなら課長になれなくてもいいな、とも思っていた。部長ともなると、これに人事権まで掌握でき、まるで部下を将棋の駒のように扱う人が多かった。結羽の人事異動の件でも、研究者としての人材育成を考えれば、入社二年での企画課異動というのはあり得ないと思うのだが、将棋の「歩」くらいにしか思われていなかったのだろう。
結羽はこのまま企画第三課で仕事をしているだけでは、自分が駄目になるような気がした。これでは毎日のモチベーションが上がらないからだ。何か新しいことを始めなければ、と思っていたときに、ちょうど材料研究課にいた頃に投稿した最後の論文が、ようやく学術雑誌に掲載されることになった。
「これを使わない手はない。」
と思った結羽は、早速前の上司である魚谷課長のところへ相談に行った。発表した五報の論文に関連して、将来また研究課に戻って仕事ができるように、大学へ勉強しに行けないかという相談をしたのだ。魚谷課長は、K大学の池江教授を紹介してくれた。しかも、これだけ論文があれば、博士号も取れるのではないかという話だった。結羽は自分が博士になれるほど頭が良いとは思わなかったが、何でもいいから目標が欲しいと思っていたので、博士号取得を目標にすることとした。後日、結羽は魚谷課長と一緒に池江教授のところを訪れ、学術指導のお願いをした。池江教授は
「結羽さんはまだ若いので、しっかり指導させていただきますよ。」
と言って、快く承諾してくれた。結羽は二ヶ月に一回K大学へ通い、博士論文執筆に向けた学術指導を受けることになった。