三の(一) 社内恋愛
三
T社に入社して四ヶ月が経ち、徐々に仕事に慣れてきた。同期には気の合う人はいなかったが、同じ課の魚谷課長や鳥飼とはうまくやっていた。研究の方は、依然として実用化が遠いようなことばかり取り組んでいたが、それでも少しずつ材料の性能が上がっており、当時はそれだけで結羽は満足していた。
相変わらず、週に一回のバドミントンサークルにも参加していた。別に社外のサークルに行きたくなったら掛け持ちすれば良いだけだったので、社内のサークルをすぐにやめる必要もなかった。
ある日、サークルが終わって帰ろうと最寄りの駅に行くと、人身事故で電車が止まっていた。「参ったなぁ」と思ったが、同期の城之内も帰れないということで、一緒に駅の近くの喫茶店に入った。結羽と城之内は電車の方向が逆で、普段はサークルが終わるとまっすぐ家に向かうので、これまでは一緒に喫茶店に入ることはなかった。職場でもあまり話をしなかったので、もしかすると城之内と面と向かって話すのは始めてだったかもしれない。話はサークルの話から始まって、職場のことなどたわいのない話をした。喫茶店に入って一時間くらい経ったであろうか。電車が動き出したとのアナウンスが聞こえたので、結羽は二人分のコーヒー代を出し、彼女と別れたのであった。
運転再開直後ということもあって、電車の中は非常に混んでいた。結羽はドア付近に立って、窓の外をぼんやり眺めていた。しかし、外の風景は目に入っておらず、城之内のことばかり考えていた。話としてはたわいのないことばかりであったが、実に楽しい一時間だった。彼女は他の人とはちょっと考え方が変わっていて、それを聞くのが楽しかった。また彼女と話してみたいと思った。
翌日、結羽は城之内に次の週末の予定を聞いてみた。土曜日なら空いていると言う。
「お昼でも一緒にどう?」
と誘うと、彼女は
「じゃあ、ご馳走になります。」
と笑顔で言った。結羽はその週末をとても楽しみにした。毎晩の眠りが何となく浅くなったような気がした。
遂に待ちに待った土曜日がやってきた。結羽は約束した時間の十分前に待ち合わせ場所に行った。彼女は時間ぎりぎりにやってきた。
「ごめんなさい。待ちましたか?」
「いや、今着いたところだからちょうど良かったよ。」
と会話を交わし、レストランに入った。お互い、パスタを注文し、食べながら色々な話をした。
お互い話し足りなかったのか、喫茶店に場所を移し、さらに一時間ほど色々な話をした。結羽は最後にどうしても聞きたいことがあった。彼女が「そろそろ帰ろうかな」と言ったとき、結羽は勇気を振り絞って聞いてみた。
「今、付き合っている人はいるの?」
彼女は少し黙った後、こう答えた。
「最近まで高校時代から付き合っている人がいたけど、今はいないですよ。」
それを聞いて、結羽は心の中でガッツポーズしていた。また、彼女が「何故そんなことを聞くんですか」と尋ねなかったことが心地良かった。
楽しかった約二時間が終わり、帰りの電車の中では先日と同じように城之内のことばかり考えていた。自分が恋に落ちてしまったのは分かっていた。しかし、彼女とは同じ職場の同期である。果たして社内恋愛をしても良いのだろうか、という想いがあった。それに、彼女が結羽のことをどう思っているのかもよくわからなかった。一度目の喫茶店は、人身事故がなければ一緒に行っていなかったわけで、そういう意味では今日が初めて彼女を誘ったことになる。その誘いに彼女は応じた。しかも、彼女には特定の恋人がいない。しかし、それだけでは彼女が結羽のことを気に入ったということにはならない。付き合えるかどうかは別にして、とりあえず仲良くなることが先だと思い、これからも彼女を誘ってみることにした。
職場でも彼女と話す機会が増えた。会話自体は何でもないことばかりであったが、少しずつ距離が縮まっていくのが嬉しかった。次のお誘いは三週間後にした。間を空けたのは、その時点ではただの同期同士の関係でしかなかったし、あまりしつこくされたら嫌だろうな、と思ったからである。幸い、三週間後も空いているという返事がもらえたので、その日は繁華街を一緒に歩くことにした。
別に買いたいものはなかったが、雑貨屋へ行くと彼女は子供のようにはしゃいだ。まだ一九歳と結羽よりも六歳若かったので子供っぽく感じたのも当たり前だが、結羽にはそれがかわいらしく見えた。彼女も久しぶりに男の人と街を歩くというのもあって、それを楽しんでいるような感じだった。お互いが心地良い気分でL百貨店のエスカレータに乗ったときであった。急に
「お前ら、何しとるねん!」
と下の方から男の声が聞こえた。階下を見ると、同期の小林がいた。明らかに彼の声であった。しかし、エスカレータに乗っていたので、結羽と城之内はそのまま上の階に上がってしまった。その後、小林の姿は見なかった。
結羽と城之内は気まずい雰囲気になってしまった。小林は同じ職場の同期である。同じ職場に同期は三人しかおらず、そのうちの二人が一緒にいたとなると、面白いはずがなかった。子供っぽい彼がどんな行動に出るのかは全く予期できなかったが、とにかくただでは済まないような気がしてならなかった。
次の週に会社へ行くと、同期の連中はみんなL百貨店での出来事を知っていた。目撃者は小林しかいないので、彼が喋ったのであろう。しかし、研究所内で知っている人はいなかった。それなら普段の仕事には差し支えないな、とホッとした気持ちになったが、城之内とは気まずい雰囲気のままであった。何しろまだ付き合っていなかったし、結羽も想いを伝えたわけでもなかった。L百貨店での出来事がなければ、そのうち付き合い始めたかもしれなかったが、小林のせいで気真津胃雰囲気になってしまったのが妙に腹立たしかった。しかし、どうしようもなかった。
結局、二ヶ月ほど何もできず、時間だけが過ぎていった。しかし、例のバドミントンサークルでは一緒だったので、週に一回会うことはできた。ただ、会話はめっきり少なくなってしまった。このままでは何の進展もないと思い、結羽は思い切って彼女をドライブに誘ってみた。彼女を安心させるため、今度は誰もいないようなところへ行こうと言ったのだ。彼女はしばらく考えていたが、OKと言ってくれた。すでに紅葉のシーズンになっていたので、結羽と城之内は日帰りできる範囲でできるだけ遠くの名所まで遊びに行った。最初は気まずい雰囲気だったが、彼女の携帯電話に一通のメールが届いた。そこには
「今度、一緒に紅葉でも見に行きませんか? 小林」
と書いてあった。これを見て、二人で思わず笑ってしまった。L百貨店で結羽と城之内が一緒にいた現場を目撃した張本人である。その男がどういう気持ちでこのメールを送信したんだろうという話題で盛り上がった。しかも、二人が一緒にいるときにこのメールが来たというのも面白かった。このメールをきっかけに、これまでの気まずい雰囲気が一気に解消したような気がした。小林は城之内のことが好きだったのだろうか。それとも結羽とのライバル心から送ってしまったのだろうか。いずれにせよ、笑っている彼女の表情からは、小林のことは眼中にないという感じで、それが結羽にとって嬉しく思えた。そこで、結羽は城之内に聞いてみた。
「僕たちって、今どんな関係なんだろうね?」
彼女は笑って答えた。
「そうね。友達以上恋人未満って感じかな。」
それは結羽も同じ想いだった。確かに城之内のことは好きだったが、恋人になったという感じではなかった。でも、ただの女友達という関係でもないと思った。
「L百貨店の件もあるし、しばらくはこんな宙ぶらりんな関係で良いんじゃない?」
と彼女は言った。結羽は何も言わず、首を縦に振った。
その後も結羽と城之内は隔週で会っていた。もうL百貨店の出来事も気にならなかったし、その後小林からのメールもないとのことだった。そしてクリスマスのシーズンがやってきた。結羽はクリスマスを特定の恋人と過ごすのは初めてだった。学生時代はどうも恋愛が長続きせず、夏に出会ったカノジョも冬になると別れを告げられるという恋愛を繰り返していた。しかし、城之内とはまだ友達以上恋人未満の関係だった。そこで、クリスマスイブの二四日はやめて、一日前の二三日に会うことにした。この日も結羽は車を出して遠くまで行った。L百貨店のことが気にならなくなったとは言え、色々なところで噂をされるのはうっとうしいと言えばうっとうしかった。帰りの道中でオシャレなレストランを見つけたので入ってみると、そこはクリスマスのコース料理しか出せないと言われた。しかし、結羽は城之内と良い雰囲気になりたかったので、「それでお願いします」と言って店内に入った。二三日ということもあってか、予約なしでコース料理を楽しむことができた。城之内は
「こんな大人っぽいクリスマスは初めて。」
と、とても喜んでいた。車を運転していたのでワインは飲めなかったが、結羽は城之内に酔っていた。
レストランを出た後、彼女を家の近くまで送っていった。彼女は「ありがとう」と言って車を降りようとするときに、結羽は顔を彼女に近づけた。彼女は目を閉じ、唇を重ねた。彼女と初めてしたキスだった。唇を離すと、彼女は「おやすみ」と言って、家の方へ歩いていった。結羽は、やっと恋人同士になれたんだ、と実感していた。
次は、会社が年末年始休みの初日と最終日に会う約束をした。年末の仕事納めの日は、T社の研究所でも律儀に納会が行われた。そこには結羽も城之内もいたが、小林もいたので二人は離れたところにいて他の社員と話をした。そのこと自体は何もおかしいことではなかったが、結羽は城之内の視線が何となく冷たいような気がしてならなかった。
次の日、結羽と城之内は約束通り会った。しかし、彼女は明らかに怒っていた。会うといきなり
「何故あの日キスなんかしたの?」
と問い詰めてきた。結羽は何も答えられなかった。
「カレシでもない人とキスしたくないの!」
と強い口調で言うので、結羽も頭に来てしまった。
「それなら、好きなようにすればいい。」
と突き放すような言い方をすると、彼女は何も言わずにどこかへ行ってしまった。それを結羽も追いかけなかった。
城之内とは初めてした喧嘩だった。しかし、結羽は他の女に浮気をしたわけでもなかったので、謝る理由もなかったし、どうしたら良いのかわからなかった。年末年始休みの最終日も会う約束をしていた。とりあえず、約束の待ち合わせ場所に行ってみよう、と思いながら年を越した。