二の(一) 入社と結婚式
二
二〇〇二年四月一日。全国各地の会社では入社式が行われていた。結羽もT社の入社式の中にいた。従業員三〇〇〇人の会社で、新入社員は三〇人とこぢんまりとした入社式であったが、一応社長の式辞があって、その横には役員や部長と思われる五〇〜六〇歳の男が三〇人ほど座っていた。
入社式が終わると、人事部の教育担当という三〇歳前半の男のもと、一ヶ月の新入社員研修を受けた。最初にマナー研修があり、電話の取り方や手紙の書き方、慶弔時の扱い、名刺交換の方法など、色々なことを学んだ。常識知らずの結羽にとっては新鮮な研修であったが、逆に社会人ともなると責任も背負わされるんだな、という想いの方が強くなり、少し沈んだ気持ちになっていた。それよりも、依然気の合う仲間が見つけられずに、新入社員の間では一人浮いている存在のような気がして、それが嫌だった。
マナー研修の後、営業研修、メンテナンス研修、工場研修、研究所研修とすべての部署を一通り経験するプログラムが組まれていたが、結羽がびっくりしたのが、その研修の間に日記のようなものをつけさせられたことだった。その日記は、帰宅してから記入し、翌朝人事部の教育担当に提出すると、帰宅時までにコメントが付いて返ってくるというものであったが、三〇歳前半の男と交換日記をしなければならないと思うと、少し気持ち悪かった。小学校の時に日記の宿題が出たことがあったが、日記はそれ以来で、何となく子供じみたことが好きな会社なんだな、と思った。
新入社員研修の一ヶ月間が終わり、ゴールデンウィーク明けに正式な配属先を言い渡された。相変わらず同期入社の人たちは目立ちたがり屋が多かったので、自分の営業部配属はないな、と結羽は思っていたが、言い渡された部署は研究所であった。ここは他社製品をカスタマイズする方法を開発する部署で、二次面接のときにも、研究所研修のときもP社やM重工の最新機種を見せてもらったこともあって、ここなら面白そうだな、と思っていた部署だったので一安心だった。結羽の他に、小林という男と高卒で事務職の城之内あゆみという女が研究所配属であった。辞令交付が終わった後、以前結羽の研究室へ邪魔しに来た中野が、一ヶ月の研修の打ち上げをやろうと言って飲み会が行われることになった。目立ちたがり屋の多い同期の中でも、一番目立っているのが彼であった。研修では、同じ研究所配属の小林と城之内とはあまり接点がなかったので、飲み会の時に「よろしく」と言いながら二人と話してみた。小林は童顔で、外見だけだと高校生に間違えてしまいそうな風貌だったが、妙に明るく、関西出身ということで関西弁だけが耳に残った。城之内は高卒なので、結羽の六歳下であった。彼女は大卒以上の人には遠慮をしているのか、飲み会の席では大人しく座っているだけであった。
研究所に配属され、こちらでも一週間ほど研修があり、研究所の下部組織である「課」の配属を言い渡された。城之内は元々事務職で採用されているので、当然「庶務課」というところに配属された。小林は「開発第三課」というところで、ここはP社の最新機種の評価およびカスタマイズ方法の開発を行っているところであった。そして、結羽は「材料研究課」というところであった。ここは、他社製品は扱っておらず、新しい材料を開発してメーカーに売ることで新しいビジネスを立ち上げよう、ということを目標にしていた。実際に職場へ行ってみると、大学と同じ実験台があり、ビーカーやフラスコなど、つい一ヶ月前まで使っていたものと同じものが目の前に置いてあった。どうやら、T社の中では最も基礎的な研究をする課のようであり、研究職は合っていないのかもしれないと思って就職した結羽は、この職場を複雑な想いで見つめていた。材料研究課の課長は魚谷という四〇歳の男で、その下に鳥飼という三〇歳の男が働いていた。
研究所に配属されて初めての日曜日。結羽は同期の小林と一緒に電気街へ行った。小林がパソコンを買いたいと言ったので、彼についていいたのだ。結羽はパソコンなどの家電が好きだったが、小林が自分もパソコンに詳しいと言うので、どんなものを買うのか、少し興味があった。実は、結羽は二ヶ月前にパソコンの部品を買ってきて、自分で組み立てたものを使っていた。当時、高性能パソコンを手に入れるのにはこの方法が一番安かったし、何しろ組み立てる作業自体が楽しかったのだ。当然、小林もパソコンに詳しいというので自作するのだろうと思ってついていったのだが、彼は大手メーカーのパソコンの前で止まり、店員と何か話していた。いきなり関西弁で値切りの交渉をしていたのだ。話を聞いていると、大阪商人のような値切りテクニックは素晴らしいものがあったが、パソコンには全然詳しくなかった。結局、見栄を張っていただけだと言うことがわかった。どうも、この小林という男はハッタリの話が多かったし、外見も童顔で子供っぽかったが、やることも子供じみているところがあった。おそらく本人は営業部希望だったのだろう。しかし、人事部から見ると少しうさん臭く見えたのだと思う。結羽はどうも小林を信用する気になれず、次第に敬遠するようになっていった。
こんなこともあった。小林が庶務課のある女性を食事に誘っているところを、結羽は偶然見てしまった。すると、小林は「お前も一緒に来るか?」と何故か誘ってきた。その誘いはあまり嬉しくなかったが、仕方なくついていくことにした。しかし、何故その女性を誘ったのだろうと思った。その女性の左手の薬指には指輪が入っていたのだ。確かに綺麗な女性だったが、いくら何でも人妻を誘うのはいただけない。食事の最中、彼女は携帯電話で誰かに電話していた。しばらくすると旦那さんが現れた。どうやら社内結婚らしい。小林はバツが悪そうな顔をしていたが、そんなことは左手の薬指を見た時点で一目瞭然であり、「バカな男だな」と結羽は思った。実は、結羽も庶務課にいる山村優子という女性が最初気になった。結羽の作業着を注文する際に、夏服と冬服を間違えてしまうような少しドジな女性だったが、長身で美人の山村に少し惹かれていた。しかし、よく見ると右手の薬指に指輪が入っていたので、カレシの存在は容易にわかった。そして、半年もしないうちに右手が左手に代わり、さらに半年もすると結婚して会社を辞めていった。
仕事は、六歳年上の鳥飼と一緒にすることが多かった。伝票の書き方から備品の使い方まで丁寧に教えてくれた。新入社員研修のときに書いていた日記もなくなり、やっと社会人になった気がした。しかし、職場は相変わらず大学と同じような研究室で、材料の調合などをしていた。
ある日、鳥飼が「今晩空いていないか」と聞いてきた。結羽が理由を聞いてみると、週に一回社内でバドミントンをやるサークルがあって、そこに来ないか、という誘いであった。結羽は、中学時代にバドミントン部に所属していたので、社会人になったらバドミントンサークルに入ろうと思っていた。なので、本来であれば大歓迎の話なのだが、本当は社外のサークルが良かった。それは、結羽に彼女がいなかったからである。純粋にバドミントンをやりたい、と思っていたわけではなく、女性との出会いの場もあるのではないか、という下心もあった。それが社内のサークルとなると社内恋愛になってしまうので、何となくそれはいけないことのような気がした。しかし、鳥飼に誘われて断る理由も見つからなかったので、その晩は社内のバドミントンサークルに行くことにした。
鳥飼に連れて行かれて近くの体育館へ行くと、そこにはそれぞれ四人くらいの男女がいた。その中には、上司の魚谷課長もいて、材料研究課の三人全員がそこに揃ったことになる。また、同期の城之内がいた。彼女も庶務課の先輩社員に連れてこられたということで、庶務課の女性社員が城之内の他に二人いた。結羽は仕事とプライベートを完全に切り離したいと思っていたので、同じ職場の人とバドミントンをするのはどうも気が進まなかったが、やはり断る理由が見つからなかったので、しばらくの間は毎週そのサークルに参加することになった。
同期の城之内あゆみは、少し不思議な雰囲気を持った女性であった。外見はスレンダーで、美人と言うよりはかわいらしいといった感じ。二ヶ月前までは高校でミニスカートの制服にルーズソックスを履いていたということで、いかにも今どきの女の子という感じでもあった。いつもニコニコしていたが、口数はそれほど多くなく、そのあたりが不思議な雰囲気を醸し出していた。これが社外のサークルであれば、結羽も気になる女性の一人になったかもしれないが、六歳下ということもあったし、社内恋愛はそもそもいけないことだという先入観があったので、城之内にはあまり関心を持たなかった。
仕事の方は、研究所配属から三ヶ月も経つと慣れてきて、少しずつ楽しくなってきた。研究職は向かないと思っていたが、元々実験するのは好きだった。ノーベル賞をもらうような人は偉大な発見をするのだろうが、平凡な研究者でも実験をすればチリのような小さな発見くらいはできるのであった。結羽も大学時代に材料の調合割合を間違えて測定したら、新しい性質が発見されたということがあった。薄型テレビや電卓の表示画面で使われている液晶技術も、研究員が容器のフタを開けっ放しにして帰ってしまったのが実用化のきっかけだった。容器内に不純物が入ってしまったのが、逆に性能が上がるという現象につながったのだ。結羽の発見は、特に何かの実用化につながるようなものではなかったが、学術論文として発表することができ、指導教官にも褒めていただいた。それでも研究職に向かないと思ったのは、先述の通り大学に入ってから数学が苦手になってしまったからなのであるが、実験自体は好きだった。新入社員ということで、実用化が程遠いような材料ばかりあてがわれたが、そういうものは少しの発見で性能が飛躍的に向上することもあり、いつもワクワクしながら毎日を過ごしたのであった。