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八の(三) 転職

 材料第二課に異動して一年が経とうとしていた。新しい研究テーマも立ち上げることができず、悶々とした日々を過ごしていたが、年度末には学会で研究発表会が開催されていたので、大学の先生と意見交換するために足を運んだ。やはりT社の社員と話しているより、大学の先生と話している方がずっと楽しかった。

 結羽は、ゴールデンウィーク前に川崎部長に突然呼び出された。

 「君を材料第一課に戻そうと思っているのだが。」

突然の宣告に、結羽は驚いてしまった。まだ材料第二課に来てから一年しか経っていないのだ。いくら新しいテーマを立ち上げられなかったとは言え、空調関連のテーマを担当して成果を論文にまとめて学術雑誌に発表し、年度が変わったばかりだったので、できるだけ会社のため、世のため、人のために役に立つ新しいテーマを立ち上げる計画を立てていたところだった。しかし、たった一年で部署が変わってしまってはきちんとした成果が出るはずもなく、やり切れない想いだけが残った。一方、材料第一課で行っている電池のシステム開発は実用化の見込みが全くなかったが、川崎部長や魚谷課長が開発の失敗を認めようとしないため、多くの予算が投資されていた。本社の企画課や営業課からは無駄なテーマの代表のように見られていて、完全に呆れられているようであった。そんなテーマでは結羽のモチベーションも上がらなかったし、電池のシステムか開発には電気や機械の専門家が求められているのであって、材料が専門の結羽が活躍する場はないように思えた。結局、またしても川崎部長に将棋の駒のように使われただけの人事異動だった。

 それならばT社を辞めるのはこのタイミングではないか、と結羽は直感的に思った。しかし、次の職場がなければT社を辞めることができなかった。O大学からは面接から二週間経っても合否の連絡はなかった。ここで、公聴会の前日にK大学の池江教授から「研究員としてなら採用してあげてもいいよ」と言われたことを思い出した。すぐさま先生に連絡し、再びK市内の小料理店で会う約束をした。

 池江教授には、材料第一課への異動が確実になったこと、T社では材料開発ができないこと、O大学の教員採用試験を受けたこと、などを正直に話した。池江教授も異動の話は酷いと頷いてくれ、T社では結羽の活躍の場がないかもしれないな、というようなことを言った。そして、

 「O大学はきちんとしたポストだから受かったらそこに行きなさい、しかし、駄目だったらウチで研究員として雇ってあげるから。」

と言ってくれた。池江教授の話は、本当にありがたいものだった。こんなに結羽のことを親身になってくれること自体嬉しかったし、研究員の職まで用意していただいて本当に救われたような気がした。これまでも博士論文の執筆でお世話になったので、恩返しのためにこの先生のもとで頑張ろうと思った。

 結局、O大学の教員採用試験は不合格だった。しかし、好感度が下がっていたので、不合格でもあまりガッカリしなかった。むしろ、K大学の池江教授のもとで研究成果を出すことが夢になっていた。池江教授にもO大学の結果を報告し、研究員として正式によろしくお願いします、と言うと、池江教授は快く承諾してくれた。

 ゴールデンウィークが明けて、T社に退職願を提出した。すると、会議室に呼び出され、川崎部長と材料第一課の魚谷課長、材料第二課の遠山課長の三人がいた。そこで、猛烈な慰留工作を受けた。何故辞めるのか、何がやりたいのか、何故電池開発では駄目なのか、次はどこで働くのか、というようなことを延々と聞かれた。結羽は、研究成果を学術雑誌に論文として発表できるような研究がしたいが、T社の方針とはズレがあるので、他のところで働きたい、というようなことを話したが、なかなか納得してくれなかった。いろいろ話しているうちに、何故納得してもらえないのかがわかってきた。次第に質問が変わってきたからだ。会社を辞めることで周りに迷惑をかけてないか、異動を発令したばかりのタイミングで辞めるというのは上司の顔を潰すことにならないか、新しい部署で実績を残してから辞めるのが筋ではないか、というようなことを言い出したのだ。結局、部下が会社を辞めると、その上司が人事課から評価を下げられてしまうので困るという自己中心的な話だったのだ。この人たちは最後まで自分のことしか考えていないのか、と情けない気持ちになったが、それは余計にT社を辞めたいという想いを強くするだけだった。二日間に渡って一〇時間ほど慰留工作を受けたが、結羽が日本国憲法第二二条に定められている職業選択の自由を主張すると、川崎部長も最後は退職願を渋々受け取った。その後、人事課の常識的な判断によって異動は取り消され、材料第二課で残務処理を行うこととなった。それが決まると、材料第一課の魚谷課長は何も言わなくなった。自分の部下にならなくなったことで、自分の評価が下がることもなくなったからだ。入社して最初の二年間お世話になり、研究のイロハを教えていただいたので恩に感じていたが、魚谷課長も所詮T社の人間か、と少しガッカリした。しかし、お世話になった魚谷課長に迷惑がかからなくなったと思うと、結羽も少し気が楽になった。部下を将棋の駒のようにしか思っていない川崎部長なんかどうでもよかったし、材料第二課の遠山課長はT社には珍しく評価とか気にしない人だったので、これで円満にT社を退職できる見通しが立ったのであった。

 慰留工作が終わると、結羽は久しぶりに風邪を引いてしまった。博士号の学位が無事取得できたこと、T社を円満に退職できること、そしてK大学で研究員として新たなスタートが切れることで、今まで蓄積していたストレスが一気に解放されたような気がした。しかし、ストレスから解放され気が抜けたところで、体調を崩すことはよくあることだろう。有給休暇が余っていたので、遠慮なく休むことにして、次への英気を養うことにした。

 風邪が治って出社すると、色々な人から飲みに行こうと誘われるようになった。その頃になると、結羽が退職することは漏れ伝わっていて、何故T社を退職することになったのか、次はどこで働くのか、ということに興味津々といった感じだった。しかし、T社の人たちが知らないところで新しい人生をスタートさせたいという想いがあったので、飲み会の誘いにはお断りすることにした。

 一方、人事課から退職の手続き関係の書類が送られてきて、その中に退職理由を書かせる書類が入っていた。一般的には、退職願には「一身上の都合」とだけ書けば良いはずだったが、その書類には転職の場合は転職先を、寿退社の場合は結婚相手の氏名を記載するように、という指示が書いてあった。事務手続き上必要なのかもしれなかったが、他社で転職した人の話ではそんなことを書かされたことがないということだったので、最後の最後までT社の嫌な面を見せつけられたような気になってしまったのであった。

 退職手続きが一段落したところで、母校であるNK大学の恩師や、T社と共同研究をして下さった先生に博士号取得と転職の報告をした。五人ほどの先生にご報告へ行ったのだが、T社を退職することを残念だと言う先生は誰一人おらず、大学で高度な研究にチャレンジする結羽の決意に理解を示してくれた。結羽はそれがとても嬉しかったし、自分の判断が間違っていなかったことを実感した。ただ、大学教員のポストに就いたわけではなかったので不安な気持ちもあったが、これだけ応援してくれる人がいるのであれば、努力次第で道が開けるのではないか、という前向きな気持ちの方が大きくなった。

 振り返ってみると、就職活動を含めてT社での七年間は何だったのだろうか。電池や空調関連の研究に三年間従事し、企画課にも三年間在籍した。その間に、大学の先生や他社の人などにお世話になり、海外出張を含めて色々な経験をした。しかし、T社の組織や評価を重んじる官僚的な世界に埋もれ、ストレスの溜まる毎日だった。それは、どこの会社でも同じかもしれない。しかし、他社の人と話す限り、T社は特に異常だった。それでも何とかやっていけたのは、社内恋愛をしていたからだろう。城之内あゆみと付き合った五年間は楽しかったが、別れてしまっては何も残らなかった。形として唯一残ったのは「博士号」だけだっただろうか。ストレスに埋もれ、自分らしさを全く出すことができなかったT社での人生。それは、結羽にとってまさに「失われた七年」だった。


 ※この小説の一部はフィクションで、基本的には実際の人物・団体・事件とは関係ありません。

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