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八の(一) 転職


        八

 入社直後に材料研究課に配属されたときは仕事が楽しく感じられたが、企画第三課から材料研究第二課に戻ってきてからはつまらなく感じるようになっていた。ここでは前任者の倉本から空調機器のテーマを引き継いだのだが、実用化の見込みがないことがわかってしまっていたからである。企画課に在籍したことで、どんな研究開発が会社のため、世のため、人のために役に立つのかがわかるようになり、とても勉強になったのだが、改めてT社の研究テーマを見渡してみると本当に無駄なテーマが多く、がっかりすることが多かった。そんな状況なのに平然と無駄な研究を続けている人と当然気が合うはずもなく、結羽は研究課の中でも孤立している感じだった。空調関係のテーマでは、成果を論文にまとめて学術雑誌にて発表することができたのだが、実用化する見込みは全くなかったので、無駄なテーマは続けてはいけないというメッセージを発信する意味を込めて、このテーマを途中で打ち切ることにした。周りから「まだ続けられるのに」と残念がる声が聞かれたが、結羽はもっと会社のため、世のため、人のためになる仕事がしたかった。そこで、一年間頑張ってテーマを探してみて、それでもやることがなかったら会社を辞めようと、心の中で決めた。

 研究課には、新規材料を開発してメーカーへ販売するなど、新しいビジネスモデルを創出するミッションがあった。そこで、組織や予算を守るために辞められないテーマは放っておくとして、商品化や実用化にチャレンジする新しいテーマを研究課の有志で考えるプロジェクトを立ち上げることにした。川崎研究部長に趣旨を説明すると

 「まあ、好きなようにやりなさい。」

と言った。この言葉だけを取ると、了解を得たように思えたが、実際は人ごとのような発言だった。結羽は川崎部長が嫌いだった。以前、空調機器の成果を論文にまとめたときに、その内容を説明したことがあった。研究課から成果が出たことに対して喜んでくれると思っていたのだが、実際の反応は全くなかった。それだけではなく、一生懸命している結羽の説明を途中で遮り、「好きにしなさい」と言ったのだ。反応が芳しくないのは仕方がないと思っていたが、話を途中で遮られたのは初めてで、随分自分勝手な人だなと思った。また、研究課の課題について話し合っているときでも、川崎部長はまるでテレビのコメンテータのような他人事の発言ばかりで、とても自分の部署のことを真剣に考えているような感じではなかった。

 また、川崎部長になってから研究課内の人事異動が多くなった。五年の研究プロジェクトを進めていたが、途中の三年で異動させられ、達成感がないままに次の仕事に変わってしまった人もいた。多くの分野で専門性を磨いてほしいという期待を込めて異動させるのであれば良いのだが、その場合はプロジェクトが終了したときなど、本人が納得のいく時期に異動を発令するのが普通であろう。しかし、部下を将棋の駒のように扱い、「あと動かしていない駒はどれかな」なんて口ずさんでいる川崎部長を見ていると、異動させられた人も到底納得できるものではなかった。

 そんな川崎部長は無視することにして、次に課長へプロジェクトの趣旨を説明した。しかし、ここでは賛同が得られなかった。

 「総論は賛成だが、すぐに成果が出そうにないので、やっても無駄ではないか。」

という意見が大半を占めた。現在実施しているテーマは、実用化に向けて苦労はしているが、長年の経験から少しずつ成果が出るので、これらを継続した方が良い、というのが彼らの主張だった。しかし、結羽から見れば、これらのテーマは実用化の可能性がないのに、組織や予算を守るために続いているものばかりであったので、それとは違うテーマを立ち上げたいのだ。ただ、議論をすればするほど、既得権を守るのに必死な課長の姿しか見えてこなかったので、課長への説得をやめることにした。

 そうなると、次は係長である。係長は結羽と歳が比較的近かったので、最初はプロジェクトの趣旨に賛同してくれる人が多かった。しかし、最初に出てきた企画書は、現行テーマを焼き直したものばかりであった。

 「これでは今と何も変わっていません。もっと奇抜なアイデアでお願いします。」

と言っても、新しいテーマは何も出てこなかった。「係長でも駄目か」と思ったが、彼らの普段の業務を見ている限り、期待する方が無理だった。一人の女性係長は、結羽と同じ材料研究第二課で、金属材料の耐熱性に関する研究をしていた。ある時、営業課から

 「このステンレス材料の耐熱性がもう少し向上すれば、他の部品と同じタイミングでメンテナンスできるようになるので、何か良い方法はないか。」

という相談が来た。この女性係長は、色々な合金を実験し、一ヶ月後に次のような結論を出した。

 「このニッケルベースの合金を使えば、耐熱性が飛躍的に向上します。」

ステンレスよりもニッケルの方が耐熱性に優れることは誰でも知っている。しかし、コストが一〇倍以上になってしまうのも明らかなのだ。営業課は同じコストで何とかならないかと暗に言っているわけで、そんな高価な材料が使えないことは少し考えれば誰でもわかるのであった。この件で営業課は怒ってしまい、その後相談が来ることはなかった。これは問題意識が持てない人の典型的な失敗例だったであろう。また、別の男性係長は、ある日東京へ出張するために新幹線のチケットを手配していた。しかし、出張の当日になって突然大きな声で叫び出した。

 「わっ、今日の会議はウチの会議室ではないか!」

会議の日時や場所を間違えるのもあり得ないのだが、自社の会議室で開催するということは、その男性係長がお客さまを迎える立場なのだ。当然、お茶の手配などの接客準備も必要なのだが、係長がそんな調子では準備が整っているとは到底思えなかった。これが一回、二回の出来事ではなく、毎週のように「わっ」とか「きゃっ」とか叫んでいる姿を見ていると、結羽は同じフロアで仕事しているのがだんだん情けない気分になっていった。ちなみに、この二人の係長はヒューマンアセスメントの点数が高く、将来の課長候補に挙がっていると聞くと、ますますモチベーションが下がるのであった。

 そのヒューマンアセスメントというものを結羽も受けることになった。これは主任から係長に上がる前に受けなければいけない試験の一つで、普段の業務とは関係のない一般的な業務をやらせてみて、業務処理能力やリーダーシップ,プレゼンテーション力などの点数を付けるものだった。そんなものは普段の業務を見ていればわかるではないか、と結羽は思っていたが、営業課でも企画課でも研究課でも人事評価が不公平にならないように、という大義名分のもと、本音は人事課が社員の点数を付けて昇格の基準にしたいというものであった。試験は二日間に渡って行われたが、五年余り積み重ねてきた業務実績よりも、たった二日間の試験だけで人事評価されてしまうことに結羽は不満を感じており、この試験は受けたくなかった。試験は三つあって、一つは短い時間の中で二五個の案件を処理する業務,一つは職場の問題について五人でグループ討議を行う会議,そしてもう一つは業績不振の会社の経営課題についてその解決策を提案するプレゼンテーションであった。この試験を受けると、業務遂行上における自分の長所・短所がわかるので、意外にも勉強になるところもあったが、日が経つにつれて人事課から「コイツは○点で、アイツは△点だった」という噂が聞こえてくるようになり、すごく嫌な気分になった。結羽は自分に対する他人からの評価を普段から気にしないことにしていたので、自分の点数を自ら聞くことはなかった。

 結局、研究課のプロジェクトは失敗し、商品化や実用化にチャレンジする新しいテーマを立ち上げることはできなかった。一方、恋愛の方もイマイチだった。蒲田めぐみへの片想いの恋愛が終わってしばらくは何もなかったが、それではいけないと思い、合コンに参加するようにした。何人かの女性と知り合い、誘われてデートに行くこともあったが、そこは城之内あゆみと行ったことのある場所で、どうしても彼女を思い出してしまうのであった。そして、彼女といたときの方が楽しいと思うことが多く、そう思うと新しい女性とは付き合う気になれなかった。

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