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七の(二) 変化と挑戦

 一人暮らしを始めてからも、しばらくは電車通勤を続けていた。自転車で三〇分のところに部屋を借りたので、自転車で通おうと思えば通うこともできたのだが、ある女性が気になっていていたため電車通勤を続けていた。あゆみと付き合っている頃からずうっと同じ通勤電車に乗っていた例の女性であった。一人暮らしを始めても会社の最寄り駅が変わるわけでもないので、相変わらず同じ電車に乗っていた。その駅は普通電車しか止まらない駅なのだが、ある日のダイヤ改正でその一つ前の駅に急行電車が止まるようになった。すると、彼女は一つ前の急行電車に乗るようになったのである。結羽は彼女の姿を確認すると、いつもは乗らない急行電車に乗った。そして、彼女を観察していると、一つ前の急行停車駅で下車したのである。その駅と会社の最寄り駅は七〇〇メートルしか離れていないため、歩いても一〇分程度しかかからなかった。彼女は急行が停車するのを機に、ウォーキングを始めたようであった。ストーカーのように後を付け回すのは良くないと思ったが、自分だってこれを機にウォーキングしてもいいだろうと思い、結羽も一つ前の駅で降りるようにした。彼女の会社は結羽の会社と道を挟んで反対側にあるようで、駅を出ると目の前の横断歩道を渡った。自分は渡る必要がないので、そのまま道に沿って歩くことになるのだが、七〇〇メートルは併走するような形になり、結羽はその女性を見ながらウォーキングするのが密かな楽しみになった。

 そんなことを一ヶ月もしていると、本当にその女性のことが気になって仕方がなくなってしまった。まだ話したことはなかったが、以前会社の同僚の人とお話ししている感じも良かったし、顔も結羽好みだった。身長が低い点だけが不満だったが、それでもファッションにもこだわりがあって、決して子供っぽく見えないところがかえって魅力的に見えた。しかし、電車の中で突然声を掛けたら変だと思い、どうしたら知り合いになれるか、ということばかり考えるようになった。

 その時、学生時代に不思議な出会いがあったことを思い出した。結羽は、学生時代も電車でNK大学へ通っていた。ある日、帰りの電車で英語の論文を読んでいると、何かが手に当たったような感覚を覚えた。すると、

 「ごめんなさい。くすぐったかったでしょう。」

と隣に座っていた女性から声を掛けられた。別にそんな感じはしなかったので、結羽は

 「そんなことないですよ。気にしないで下さい。」

と答えた。普通であれば、ここで会話は終わりになったであろう。しかし、彼女は続けて

 「難しそうな文章を読んでいるんですね。」

と結羽が読んでいる英語の論文に関心を示した。その論文は、翌日のゼミで紹介しなければならなかったので、慌てて電車の中で読んでいるものだった。ただ、こんなものに興味を示す女性も珍しいと思い、その女性と大学のゼミの話をした。彼女はN駅のT百貨店で販売員をしているということで、その話をしてくれた。自宅の最寄り駅に近づき、

 「ここで降りますので。」

と彼女に伝えると、彼女は

 「これは私の連絡先です。良かったら連絡下さい。」

と言って、結羽にメモを渡した。ゆっくりしていると乗り越してしまいそうだったので、結羽は返事もせずにそのメモを受け取って電車から降りた。

 家に帰ってメモを見返してみると、そこには携帯電話の番号とアドレスが書いてあった。とりあえず、携帯メールで結羽の連絡先を送ってみた。すると、彼女からいきなり電話がかかってきた。風呂場からかけていると言うのである。裸の女性と話していると思うと少し不思議な感じがしたが、何となくその女性に興味を持つようになった。

 二週間ほど携帯メールの交換をして、もう一度会うことになった。待ち合わせ場所はT百貨店の最上階にあるレストランにした。そこで、結羽は彼女の顔を初めてじっくり見た。電車に乗っているときは横に並んでいたので、彼女の顔をよく見ていなかったのだ。顔はあまり好みではなかったが、とりあえず夕食を食べながら話をすることにした。しかし、電車で話したときとどうも印象が違うのである。まず、彼女は自分の話を一方的にするタイプで、結羽の話をなかなか聞こうとはしなかった。結羽もどちらかと言えば話す方が好きなので、全く会話が噛み合わなかったのである。彼女の話を辛抱して聞いているうちに、徐々に退屈な気分になっていった。レストランから出ると、外はもの凄い暴風雨に見舞われていた。駅へ行くと、電車が止まっているとのことだった。二人はN駅で足止めされてしまったのだ。しかし、何となく彼女と一緒にいたくなかった。彼女も結羽に失望しているようだった。しかし、結羽が彼女を置いて何処かへ行くわけにもいかなかった。すると、彼女は

 「この近くに友達の家があるので、ここで失礼してもいいですか?」

と言った。彼女から切り出してくれたので、結羽も断る理由がなかった。本当に友達の家があるのかどうかわからなかったが、結羽は彼女とそこで別れて、NK大学で一夜を明かした。その後、彼女から連絡は来なかったし、結羽も連絡をすることはなかった。

 そんな学生時代の不思議な出会いを思い出し、何か声を掛けるきっかけさえあれば、それ以降の会話が続くような気がした。そこで、結羽は落とし物を用意し、彼女の物でないかを確認することで声を掛けることにした。このアイデアが不自然かどうかはわからなかったが、これしか思い付かなかったのでやってみるしかなかった。

 アイデアを思い付いてからは、何度も頭の中でシミュレーションをした。そして、いざやってみようと思うと、その日は雨が降ってやめてしまったこともあった。そんなことをしているうちに、あっという間に一ヶ月が経ってしまった。しかし、結羽は諦めなかった。ある日、自分の気持ちとシチュエーションがピタリと合う瞬間が訪れた。勇気を振り絞って、彼女に声を掛けた。

 「すみません。これ、落としませんでしたか?」

彼女の答えは

 「落としていませんよ。」

というものであったが、これはもちろん想定内。

 「いつも同じ電車ですよね? 自分は急行が止まるようになってから歩くことにしたのですが、同じような人がいらっしゃるなぁ、って思っていたんです。」

 「私も急行が止まるようになってからですよ。一緒ですね。」

と笑顔で返してくれた。その後、会社に着くまでの一〇分間、話が途切れることなく、たわいのない世間話が続いた。別れ際に、自分の連絡先を書いた名刺を渡すと、笑顔で受け取ってくれた。

 「私は事務職で名刺持っていないんですよ。でも、会社はそこのB電子工業で、名前は蒲田めぐみです。」

と教えてくれた。

 会社名も名前も教えてくれたので、これで仲良くなれると結羽は安心し切っていた。しかし、次の日はうまくいかなかった。電車が遅れていて、いつもより混んでいた。いつも通り結羽が電車に乗ると、彼女の姿が見られなかった。もし声を掛けたことを気味悪く思っていて、彼女が乗車位置を変えてしまったら、それ以上追うのはやめようと決めていたので、もしかすると一瞬で恋が終わってしまったのかな、と思った。降車駅で電車を降りてから後ろを振り返ると、彼女はまだ電車の奥の方にいた。しかし、いつもより人が多かったので、そこで待っているわけにもいかなかった。結局、結羽は先に駅を出てきてしまったのだった。後ろから声を掛けてもらえるのを期待したが、彼女は結羽に話し掛けることはなかった。その日は、前々日までと同じように一人で歩いて会社へ向かったのであった。

 その次の日は、前日の失敗を繰り返さないように、彼女の姿を確認してから電車に乗った。運良く、彼女の真横に行くことができた。彼女は流行りのデジタルオーディオプレイヤーで音楽を聴いていたが、ためらわず声を掛けた。

 「おはようございます。」

めぐみは少し驚いた表情をしたが、すぐ笑顔に戻って挨拶を返してくれた。何を話そうかと思ったが、ちょうど彼女が音楽を聴いていたので、好きな音楽の話になった。その日は電車の中から話し始めたので、会社に着くまで二〇分くらいお話しすることができた。それだけで、結羽は嬉しくなったのであった。

 次の日は結羽が出張で、いつもの電車に乗ることができなかった。そして、週が明けた月曜日の朝。いつもの電車に乗ると、彼女の姿はなかった。今日はお休みなのかな、と思っていると、隣のドア付近に彼女の姿を見つけた。ドア一枚分だが、乗る位置を変えたのだ。これをどう解釈していいのか、わからなくなった。会話しているときは、そんなに嫌な顔をしていなかったので、嫌われていないと思っていたのだが、彼女の本心はわからないのだ。彼女が乗る位置を変えた理由としては、

 ・彼女が乗る駅で電車の停止位置がずれたため、乗車位置も一つずれた。

 ・自分に限らず男性に接するのが苦手で、普段から避けがちだ。

 ・自分に話し掛けられるのが嫌だ。

の三つが考えられた。もちろん、一つ目の理由であれば、次の日からはまたお話しできるようになるだろう。問題は二つ目と三つ目の違いはわかりようがなかった。しかし、二つ目の理由は結羽がかなりポジティブに考えた理由であって、普通に考えれば三つ目の理由が正しいような気がした。

 仕方がないので、もし話すことができたら正直に理由を聞こうと思った。その翌々日にめぐみと同じ位置に乗車することができたので、勇気を振り絞って話し掛けてみた。

 「おはようございます。あの〜、こうやってお話し掛けるのはご迷惑ですか?」

 「いや、そんなことないですけど……。」

 「でも、電車の乗車位置を変えられましたよね?」

 「えっ、車両は変えてませんよ。」

確かに車両は変わっていない。変えたのはドア一枚分である。もしかすると、深い意味はないのかもしれない。しかし、それ以上聞くと嫌らしくなると思い、ちょうど途中の火災現場で消防車が消火活動をしていたので、その話題でその日の会話は終わった。

 次の日はホワイトデーだった。会社の同僚から義理チョコをもらっていたので、そのお返しを持って行かなければいけなかったが、その年は一つ余分に持って行った。もし、めぐみに会ったら、さりげなく渡そうと思ったからである。その日は何故か元の位置に乗っていたので、話し掛けることができた。昨日起こった火事が新聞に載っていたので、その話の続きをしたりした。そして、別れ際に

 「会社の同僚にホワイトデーのお返しを買ってきたんですが、一つ余りがあるのでどうですか?」

と言ってみた。彼女は申し訳なさそうな顔をしながら、それでも結羽のプレゼントを受け取ってくれた。結羽はその中に、メモで携帯メールのアドレスを入れておいた。正直、彼女と乗車位置で駆け引きするのに疲れ始めていた。それなら、一層のこと連絡先を教えておいて、連絡があれば親交を深めていけば良いし、連絡がなければ諦めようと思ったのである。彼女に意志決定をしてもらうというのは少し卑怯な手のような気もしたが、結羽にはこれ以外にアイデアが浮かばなかった。その夜、彼女からのメールを待ったが、何も来なかった。

 その後、彼女の姿を見なくなった。完全に乗る車両も時間も変えてしまったのかもしれない。しかし、それを追い掛けるようなことはしなかったし、絶対にしたくなかった。彼女との接点は二週間しかなかったが、五年近く気になっていた女性との小さな恋愛は終わりを告げたのであった。

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