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七の(一) 変化と挑戦


        七

 あゆみと別れて一ヶ月後、結羽は一人暮らしを始めることにした。事件のことで家族に迷惑をかけたという後ろめたい気持ちがあったのも確かだったが、それよりも何かを変えないと自分も変わらないような気がしたからだ。博士号の学位を取得するのはもう少し先になりそうだったし、会社の部署や上司、仕事内容などは自分で変えることができないので、この時点で変えられるのは住む場所くらいだった。彼女と別れてから一ヶ月後の一人暮らしは余計に淋しくなるように思えたが、自分自身のことをゆっくり見つめ直すにはちょうど良い機会になると前向きに考えていた。また、これまで実家暮らしでほとんどやってこなかった料理や洗濯、掃除も、実際やってみると意外に楽しく、新しい自分が発見できたような気がして嬉しかった。

 引っ越しをしてさらに一ヶ月すると、職場にも変化が現れた。企画第三課に奥村という新しい人が入ってきたのだ。歳は結羽より一つ上だったが、博士課程を出ていたので、入社は結羽より二年遅かった。彼は電気工学を専攻しており、入社してからも通信研究課で仕事をしていた。しかし、T社で博士号を持っている人はみんな研究課で活躍していたのに、何故企画課へ移動してきたのか、少し不思議だった。また、結羽がいるにもかかわらず、同じ課に同世代の奥村が来たのも変だった。ある日、入社二年目で通信研究課の男が資料を持って彼のもとに来た。上手く業務の引き継ぎができておらず、前任の彼にわからないことを聞きにきたらしい。しばらくすると、

 「何故こんなことがわからないの! 何回も言ったでしょ!」

と凄まじい怒号が聞こえてきた。普段から奥村のことを喜怒哀楽が激しい奴だな、と思って見ていたが、あそこまで感情をむき出しにして怒り出す人を初めて見たような気がした。後になってわかったのが、彼の異動理由が「後輩社員へのパワーハラスメント」ということだった。そのやりとりだけ見ていても何となくわかるような気がしたが、歳が五つくらいしか離れていないのにパワハラが起こってしまうこと自体、衝撃的だった。彼は見るからに運動音痴な感じがしたので、おそらく部活動などで厳しい上下関係を経験する機会がなかったのだろう。上司に対する態度も「その言い方はあり得ないだろう」というものが多く、仕事のやり方も一番ラクできる方法を安易に選択して反感を買うなど、社会人としては既に失格といった感じだった。

 例えば、企画第三課では安全装置に関する技術調査をM総研という会社にお願いしており、奥村が移動してきてからは担当者が結羽から奥村に変わっていた。技術調査の報告書を三月末にいただく必要があったのだが、M総研では年度末の業務が忙しいという話を聞いていたので、結羽は報告書の締め切りを三月一五日に設定し、万が一遅れても月末には間に合うようにしておいた。案の定、一五日には間に合わないので、五日ほど締め切りを延ばしてほしいと先方からお願いがあった。しかし、奥村は何故一五日に間に合わないのか、必要以上に先方を問い詰めた。しかも、社外の人なのに、言い方が社内の通信研究課の後輩社員を叱りつけるのと同じ口調なのである。結羽はさすがにまずいと思い、奥村が出張で不在の日にM総研に電話し、こちらの非を詫びて二〇日に報告書をいただく約束をした。その後も、請求書発行のお願いも電話で丁寧にすればいいところを、命令調の電子メールを一方的に送ってしまうなど、相手に対して平然と失礼なことをしてしまう男だった。

 また、他の仕事で奥村は資料を作っていた。それは、役員向けに説明する重要な資料で、下村部長や藤原課長と何度も打ち合わせをして資料を作成していた。最終段階に差し掛かったとき、藤原課長は同じ資料で「コンピュータ」と「コンピューター」のように、語尾の長音符号の有無が揃っていないことに気がついた。JISのZ八三〇一では、「英語の語末のer、or、arなどはア列の長音とし、三音以上の場合には語尾に長音符号を付けない」と決まっているので、長音符号を統一して消そうということになった。しかし、次の日に奥村が作ってきた資料ではこうなっていた。

 「コンピュタ」

一瞬、何が書いてあるかわからなかったが、彼の話を聞いてやっと理解できた。どうやら、ワープロの「全置換」という機能を使って、長音符号を全部消してしまったらしい。確かにこの機能を使うのが一番ラクに仕事が片付くかもしれなかったが、語尾以外の長音符号が消えてしまうのは一目瞭然で、それに気づかずにそのまま課長のところへ持っていってしまうのは問題だった。「ドクターは使えない」と言い出す人も出てきたが、若い頃からそのように言われてしまう彼も少し気の毒だった。

 そんな奥村にも彼女ができた。すると、中学生や高校生でもないのに、彼は彼女ができたことを周りに自慢し始めた。三〇歳を過ぎてそんなことをしているのはとてもみっともなかったが、彼は見るからにモテなさそうな感じだったので、もしかすると初めてできた彼女だったのかもしれなかった。結羽は何度も彼女が写っている写真を見せられ、うんざりしていた。彼は、部長や課長が同席している飲み会でもその写真を見せびらかしており、とても幼稚な男だった。すぐに結婚を決めてしまい、新婚旅行に行くという話になった。しかし、藤原課長と相談せずに大事な会議の一週間前に新婚旅行へ行くことを決めてしまったため、課長はもの凄く怒っていた。奥村は、かなり空気が読めない男だったのだ。新婚旅行から帰ってくると、結羽たち同僚にぜひ新居に遊びに来てほしいと言い出した。写真を見る限り、奥村の相手はお世辞にも美人ともかわいいとも言えない女性だったが、どうしても見せたいらしい。しかし、あまり気が進まなかった結羽は、いろいろ言い訳をしながら彼の誘いを断った。そのうち、子供ができたと言って誘われなくなった。子供ができたことも何度も聞かされ、次第に結羽は彼を遠ざけるようになっていった。

 奥村が企画第三課に来てからは、精神的な負担は彼の方に集中するようになり、結羽の仕事のほとんどが彼の面倒を見ることになっていた。会社も結羽に奥村を更生させることを期待して、敢えて同世代の二人を同じ課に配置したようだったが、改善の兆候は一向に見られなかった。結局、当初の予定から三ヶ月遅れで、結羽は材料研究第二課に異動することになった。

 材料研究課は元々一つの課であったが、電池関連はシステム開発で規模が大きくなったため、電池以外の研究は第二課で行うことになっていた。以前、結羽は電池関連の仕事をしており、その時の成果を博士論文にまとめている最中だったので、電池関連の材料研究第一課に行くとばかり思っていた。しかし、下村部長から移動の辞令をもらうときに

 「君に電池関連はやらせないからね。」

と言われた。何故結羽が電池関連の研究をやっては駄目なのか、理由はやっぱり教えてもらえなかった。しかし、第一課では実用化の見込みがないシステム開発を相変わらず続けていたので、そんなところで仕事をするよりも、第二課で新しいことを始めた方がおもしろいかもしれないな、と思った。材料研究第二課では、前任者の倉本から空調機器のテーマを引き継いだが、これもT社の研究らしく実用化の目的が曖昧なまま続いているテーマであった。倉本は工作が好きだったのか、評価装置は素晴らしい物が出来上がっていた。しかし、肝心の空調機器の性能評価が行われていなかったのである。結羽が評価してみると、いきなり従来よりも三割ほど高い性能が出た。コストや耐久性の面で大きな課題があり、商品化は難しそうであったが、それでも性能が出たのは事実だったので、久しぶりに成果を論文にまとめ、学術雑誌へ投稿した。相変わらず社内から論文を評価されることは全くなかったが、社外からは大きな反響があった。そのほとんどが大学の先生からであったが、懇親会の場などで色々な先生とお話ししていると、研究の話で意気投合することが多かった。企画課にいるときに大手二社の人と仕事の話しているときも楽しかったが、それよりも大学の先生と研究の話をしているときの方がずっと楽しかった。何人かの先生とお話しするうちに、博士号取得の意義がようやく見えてきた。

 「そうだ、大学教員を目指そう。」

 この頃になると博士論文はほとんど完成しており、K大学の池江教授から修正を求められることも少なくなった。社会人ドクターの場合は、三年間の博士課程の倍以上の時間、すなわち六年以上をかけて博士号を取得することがアンリトゥン・ルールとして知られていた。修士課程修了が二四歳だったため、博士号取得は早くても三〇歳ということになる。結羽も年度末でようやく三〇歳になる予定だったので、ようやく審査してもらえることになった。博士論文は主査の池江教授の他、副査二名の教授から合格をもらわなければならなかったが、副査の先生からは少し修正を求められただけで、あとは公聴会と学位授与式というイベントを経て、正式に「博士」になれるところまで来ていた。

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