六の(一) ストレスと別れ
六
企画第三課で働いているうちに、文系の人と理系の人で仕事のやり方が違うということがわかってきた。課長はずっと理系の藤原課長だったが、部長は最初の一年半が文系の栗山部長、次の一年半が理系の下村部長だった。文系の栗山部長の場合は、企画書のアウトラインだけ持っていっても受け付けてもらえなかった。とにかく、完成版に近いものでないと見る気にならないと言われた。こういうのを「レンガ積みタイプ」と言うのだろう。完成に近いところまでレンガを積み上げないと、それが暖炉なのか、家の外壁なのか、塀なのかがわからない。しかし、途中で積み間違えたレンガがあると、上に積んだレンガを崩して積み直さなければならない。栗山部長は納得がいかないところがあると、部下の苦労もお構いなしに平気でレンガを崩してしまうのであった。ある時は、部署ごとに集計した予算を棒グラフで見せるのが良いのか、円グラフで見せるのが良いのかを決めるだけで、部長が納得するまで八時間も議論に付き合わされたこともあった。何度も何度もレンガを積み直す結羽の負担は尋常でなく、残業時間も必然的に多くなっていた。しかし、栗山部長が満足のいく塀ができると、その塀が部下の結羽たちを守ってくれた。ハシゴを外す藤原課長とは違って、栗山部長が全て責任を取ってくれたのだ。重要な会議を無事に終えることができた時にはきちんと結羽たちを慰労してくれるなど、意外に人間味のある一面も持っていた。ただ、目上の人にはゴマをするところは、藤原課長と何も変わらなかった。
一方、理系の下村部長の場合は、企画書のアウトラインだけ持って行くと、途中の段階でも良し悪しのジャッジをしてくれた。そういう意味では、だいたいの形を針金で作ってから、その外側に粘土を付けていくことで像を完成させる「粘土塑像タイプ」と言えるだろう。針金の段階で右手を上に上げたいと言われれば、その通り曲げてから粘土で肉付けすれば良かった。レンガ積みとは違って、最初から完成版を作る必要がなかったので、結羽の負担も大幅に減った。しかし、精神的なストレスは、むしろ下村部長の時の方が大きかった。その原因は、部長が善し悪しをジャッジする根拠が全く理解できなかったからだ。例えば、ある新しい技術開発にトライしてみてはどうかと提案すると、いきなり「その技術開発はやらなくてもいいの!」と怒り出すことがあった。しかし、何故その開発をやる必要がないのか聞いてみても、具体的な理由を教えてくれないのだ。「とにかくやらないの!」の一点張りなのである。その開発は営業課からぜひやってほしいと言われており、「何故その開発をやってくれないのか!」と叱責されることもあった。その板挟みになったのが結羽だったのである。ある時は、実用化が無理だとわかっている研究に対して「継続してやるべきだ!」と言い出し、多額の予算を付けることもあった。栗山部長と違って、人間味が全く感じられない人だった。
そんな中、新規電池材料の開発をしていた材料研究課の研究もおかしな具合になっていた。結羽がいた頃は、一ミリアンペアの電流しか取り出すことができず、材料のさらなる改良が必要な状況だったが、その後五〇ミリアンペアの電流が取り出せるようになっていた。性能向上はもちろん喜ばしいことであったが、まだ実用レベルの一〇の一以下の性能だった。ところが、無停電電源装置(UPS)のシステム開発を始めてしまったのだ。性能が十分に出ていないため、T社と共同で開発したいという電池メーカーや重電メーカーは現れなかった。チャレンジすること自体は悪くないが、そんな簡単に実用化できるほど現実は甘くなかった。予想通り、システム開発は失敗してしまったのである。電気屋が設計に携わらず、材料屋だけで作ってしまったので、当然の結果と言えばそれまでだった。しかし、魚谷課長を含めた上層部は開発の失敗を認めようとせず、あくまでシステム開発の継続にこだわったのだ。絶対に実用化する見込みがない開発に、どうして年間数億円もの大金が平然と使われてしまうのだろうか。他にも多くの予算が無駄な研究開発に投資されているのを見て、結羽はT社に愛想を尽かしてしまい、この頃から「T社を辞めたい」と思うようになっていた。しかし、すぐに辞めても行く先がなかった。少なくとも、他社の研究所に転職する場合は、博士号の取得が必要なことが多かった。したがって、学位取得までは歯を食いしばってT社で頑張るしかなかった。