一の(一) 就職活動
一
時は世紀の節目の二〇〇〇年。ノストラダムスの一九九九年七月世界滅亡という大予言が外れ、コンピュータが誤作動する恐れがあるという二〇〇〇年問題もそれほど大きな問題とはならかかった。二千年紀の記念として「ミレニアム」という言葉が流行し、新紙幣「二千円札」が発行されるなど、表面的には華やかな年であった。
しかし、日本は一九九一年のバブル経済崩壊の後遺症に苦しみ、二〇〇二年まで続いた平成不況は後に「失われた一〇年」と呼ばれるようになった。二〇〇一年は不況が始まってちょうど一〇年目の「末期」であったが、当時の人々は出口の見えない不況に疲弊し、元気も希望も持てない日々が続いていた。
そのような時代背景の中、一人の青年が就職活動をしていた。彼の名は結羽正和。NK大学工学部を卒業し、そのまま同大学院修士課程に進んでから一年が経とうとしていた。修士課程は二年間なので、博士課程に進むか就職するかのどちらかを選ばなくてはならない。しかし、結羽は博士課程に進む気はなかった。「博士」というのは、自分よりももっと頭のいい人がなるものだと思っていたからである。理系では、数学ができる人が本当の意味で頭の良い人だという考えを持っていた。結羽も大学の工学部に入学したくらいなので、少なくとも高校までは数学が得意だった。しかし、高校までの数学は公式が使いこなせればOKだが、大学では微分方程式などを自ら作り、自ら解かなければならず、結羽にはそれができなかった。だから、自分は博士課程を進む器の人間ではないと思ったし、そもそも自分は研究職が合っていないと考えていた。
となると、残る選択肢は「就職」ということになるが、二〇〇一年は長引く不況の影響で求人が少なかった。R社調べの大卒有効求人倍率は一・三三で、これはバブル期の半分であったが、一を超えているということは、頑張れば何とか就職できることを意味していた。実際、残念ながら希望通りの会社に就職できなかった先輩はいたが、どこにも就職できずに浪人になってしまった人は一人もいなかった。
しかし、結羽は何を基準に会社を選べば良いのか全くわからなかった。大学であれば、予備校の模擬試験を受けると自分の偏差値がわかるので、その偏差値付近の大学を選べば良かった。学部・学科は自分で選ぶ必要があったが、医者になれるほど頭が良いとは思わなかったし、死や病気のことは考えたくもなかったので、医学部や薬学部という選択肢は最初からなかった。そうなると、理系なら工学部を選ぶのが無難だろうと思った。学科を選ぶのは少し難しかったが、鉄橋やビルなどの巨大構造物には興味がなかったので、建築・土木系は除外。電気は高校の物理でよくわからなかったし、機械も自分が歯車に油を差している姿がイメージできなかった。化学も高校で亀の甲(ベンゼン環)が出てきた段階でよくわからなくなってしまった。こうなると、工学部で選ぶ学科がなくなってしまったようにも思えたが、NK大学には「材料工学科」という学科があった。世の中のすべてのものは材料から成り立っているわけだから、ここに行けば世の中の役に立てるかもしれない、という漠然な想いからこの学科を選んだのであった。
材料工学科出身となれば、就職先としては素材メーカーが第一候補に挙がる。実際、いくつかの会社から求人が来ていたが、その数は少なかった。むしろ、求人が多いのは素材を加工して製品に仕上げるメーカーからのものであった。その中でも、自動車メーカーからの求人が多かった。二〇〇一年は確かに不況ではあったが、自動車業界は輸出の依存率が高く、中国やインドなどの新興国向けに販売量を伸ばしつつあり、当時は他の業界に比べると業績回復の兆しが見え始めたと言われていた時期でもあった。しかし、自動車業界は「コネ」の世界があり、実際に自分の父親から採用の内定をもらったという学生もいた。そんな会社は、出世するにも「コネ」が必要になるんだろうなぁ、と思うと、そんな会社に入社する気は全く起こらなかった。
「さて、どうしたものか」と思いながら、結羽はぼーっと新聞の株価のページを見ていた。東証第一部だけでも一五〇〇もの企業の名前が並んでいる。その横に株価が載っているが、大学の偏差値とは違って、その数字が大きければ良い会社で、小さければ悪い会社というわけではないので、何の参考にもならなかった。まさか、どこかのテレビ番組のように、この新聞を壁に貼って、ダーツが刺さった会社を受けるというわけにもいかない。人生の岐路である「就職」についてはもっと真剣に考えて決めないといけないような気がしたが、何を考えれば良いのかさえわからなくなってしまい、だんだん憂鬱になっていく自分がいるのを感じていた。
しかし、大学院の博士課程に進む気がないのであれば、就職するしかない。仕方がないので、新聞の株価のページを閉じ、自分のやりたいことは何だろうと自問自答してみた。結羽はパソコンや家電などのデジタル製品が好きだった。Windows95が出た頃は、パソコンを買う用事もないのに、最新機種のCPUがどのくらい性能向上したかを調べに、よく電気街へ足を運んでいたくらいだ。大学に来ている求人票を見ると、S電機のものがあった。S電機はどちらかというと欧米型の会社で、年功序列の制度を廃止し、いち早く成果主義を導入した会社であった。ここなら、自動車業界のような「コネ」もないだろうなぁ、と好感を持った。しかし、S電機は電気工学科出身の人もたくさん受けに来るだろうし、選考の開始時期が遅かったので、その前に他の会社も受けておかないと不安であった。
そこで、素材メーカーの求人票も手にしてみた。一応、材料工学科を卒業するのだから、素材メーカーを考えないのもおかしいと思ったからである。先述の通り、素材メーカーからの求人は少なかったが、その中でKC社に目が止まった。ここは、元々はC素材の製造一筋で事業を行っていたが、最近はC素材を利用した電子製品も製造するようになり、最近では携帯電話の販売が好調とのことであった。早速、結羽は会社説明会へ足を運んでみた。やはり、最新の携帯電話の話が中心であった。「弊社に入社すれば、このような開発ができます」と、人事担当者らしき人は一生懸命説明していたが、結羽は何故かピンと来なかった。一つは、開発部署が本社ではなく、一〇〇〇キロも離れたところにあるということであった。N市生まれの結羽は、何となく地元で働きたいと思っていた。もう一つは、KC社の説明会の中で紹介された最新技術の話が、携帯電話しかなかったことだった。携帯電話は大学一年生の時から持っていたので、その便利さはよく知っているのだが、高校三年生の時に持っていたポケットベルは既に見かけなくなっていた。したがって、今後の通信技術の進歩によっては、携帯電話もなくなってしまうかもしれないのだ。携帯電話の次の世代の通信機器の話もあれば魅力的に感じただろう。しかし、携帯電話の話しかなかったことに、少し落胆してしまったのであった。結羽は、とりあえずこの会社を「第二志望以下」ということにして、他の会社を探すことにした。
結羽の「第一志望」の会社というのはどこにあるのだろうか。S電機はKC社よりも選考が遅いので、それまで何もしないというわけにはいかなかった。改めて求人票を眺めてみると、一つの会社のところで手が止まった。T社である。T社は国内あるいは海外で作られた製品をカスタマイズし、それをメンテナンスサポート込みで顧客に販売するビジネスを展開していた。業界では大手二社から離れた三番手であったが、従業員数は約三〇〇〇人で、会社としては中堅規模といった感じであった。メーカーとユーザーの橋渡し的な仕事も、研究開発が自分には合っていないかな、と思っていた結羽にはちょうど良いような気がした。選考の時期もKC社やS電機よりも早かったので、結羽はとりあえず履歴書をT社に送ることにした。
そんな中、J鉄道からの求人が来た。自動車なら個人が買うものなので、色々なデザインの車があるのは当然だと思われるが、鉄道会社が買う列車はもっと無個性であってもいいのに、同じ通勤電車でも色々なところに違いがあるのは面白いなぁ、と思っていた。また、鉄道は多くの人をあらゆるところへ運ぶ使命を持っており、そんな社会基盤を支える仕事はカッコイイなぁ、と思ったりもした。最近では、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の排出量が、自動車や航空機と比べて少ないとPRしている点も好感を覚えた。早速、J鉄道に履歴書を送ると、先方からすぐ連絡があり、N駅にあるホテルのロビーに来るように言われた。ロビーへ行くと、J鉄道の社員がいて、その隣にある喫茶店で一時間くらい話をした。どうやらJ鉄道では会社説明会の代わりに社員が直接学生に説明するというスタイルを取っているようで、S車両区に所属しているというその社員は、事故や悪天候でダイヤが乱れたときに、翌朝までに列車を元通りにしなければならない時の苦労話など、色々な話をしてくれた。最後に、書類選考が通ったら次の面接試験の連絡をすると言われ、その社員と別れた。しかし、J鉄道からの連絡が来ることはなかった。おそらく社員と会ったときに採点されていたのであろう。残念だったが、仕方がなかった。
ついでに、鉄道車両を作っているNS社の求人にも目を通してみた。応募資格の欄に「機械系または電気系工学科を卒業または卒業見込みの者」と書いてあった。この時点で結羽には応募資格がなかったのである。実際、機械系や電気系と比べると、結羽が所属している材料工学科の求人は少なかった。有効求人倍率は先述の通り一・三三であったが、手元にある求人数を数えてみると、一を超えるか超えないかの数しかなかった。世の中のすべてのものは材料から成り立っているから応用も利くはずだと思って材料工学科を選んだが、学問としては「広く、浅く」になってしまうため、他の学科と比べると専門性が低いようにとらわれがちであった。改めて大学の偏差値を見てみると、同じNK大学でも材料工学科は他の学科よりも値が低かった。結羽は「そういうことだったのか」と今頃になってその理由がわかったような気がしたが、だからと言って今さら学歴を変えることはできないこともわかっていた。