プロローグ:貧民街の少年の回想録
幼いころの俺は知らなかった。
俺は愛されない存在なのだと。
俺は許されない存在なのだと。
俺はいてはならない存在なのだと。
幼い俺の世界は小さかった。
家から出ることを許されなかった俺にとって、
世界とは母親であり、母親こそ全てであった。
母親の言うことには何でも従った。
鳴き声が癪に障ると言われれば、泣くことをやめた。
笑い声が腹が立つと言われれば、笑うことをやめた。
目つきが気に食わないと言われれば、常に床を見るように心がけた。
どんなに殴られてもただ耐え続けた。
着るものも食べるものも碌に与えられなかったが、それでも俺は母親を愛していた。
信じていたからだ。母親は俺を愛していることを。
理不尽に振るわれる暴力も、激しい罵倒もすべては俺のためだと信じていた。
俺を愛しているからこそ、俺のためを思って、俺のために…。そう思わないと耐えられなかった。
だからこそ許せなかった。いつも通りの日課を終えた母親がこぼしたあの一言が。
「どうして……あんたなんか産まれたのよ。」
愛されていると思っていた。
必要とされていると思っていた。
なんて愚かだったのだろう。最初から世界に俺の居場所などなかったのだ。
……その後のことはよく覚えていない。ただ今までに感じたことがない……なんとも言いようがない激情と衝動に心が押しつぶされたことだけは覚えている。我に返った時にはいびつにゆがんだナイフを握りしめ、荒い呼吸で物言わぬ真っ赤な塊に馬乗りになっていた。
10年にも満たない未熟なものだったが、俺の世界のあっけない幕切れ。
なんだかそれが面白いものように感じ俺は思わず笑いだしてしまった。
そうしてひとしきり笑った後、俺は急に怖くなった。
恐怖にかられるまま家を飛び出し走り出す。
これ以上見たくなかった。
これ以上そこに居たくなかった。
何もかも受け入れられなかった。
俺は世界から目を背け、恐怖にかられるまま家を飛び出し、行く当てもないまま走り出す。
今でも続く、みっともない俺の逃避行の始まりだった。