誰が一番辛いって
スランプなので、迷走息抜き。
いつだって、去っていく側は自分勝手だ。
他人の迷惑なんて考えない、他者の気持ちなんか考えられない、独りよがりのクズだ。
「……なんで」
テーブルの上の置き手紙に、まるで教科書みたいな綺麗な字で一方的な別れを告げられた。
「探さないでくださいって、どこのドラマだよ」
涙よりも先に動揺が顔を引きつらせる。呆気にとられているだらしない口元から、乾いた笑声が漏れ出てきた。
誰もいない、いなくなってしまった空間へと虚しく溶けていく自分の震えた声音が、酷く弱々しく頼りない。
やがてやっと受け入れた現実に、苦しかった喉の奥から嗚咽となって感情が溢れ出る。腹からせり上がってくる感情の名前には気づけず、目に映る物の輪郭が淡くなっていく。
「僕の何が駄目だった。僕達、どこから間違ってた……?」
彼女が残した紙切れにポタポタと落ちる涙が、哀愁に満ちた模様を描いた。ペンのインクが滲み、どんどん文字が不鮮明になっていく。
破いて捨ててしまおうと手にしたが、それはかなわずに胸に抱いてしまった。
「こんな別れ方あるかよ、優……」
大学から帰ってきたら、泊まりに来るはずだった彼女の代わりに言葉だけが残留されていた。
堪らず電話をかけるが、通話中らしく留守番電話サービスに切り替わる。無機質な音声がやけに冷たく感じられ、通話に出ない彼女に対しても重ねて突き放された気分になる。
「一方的だったのかな。繋がらない電話みたいに、想いだって……一方通行だったのかもしれないね」
行き場をなくした言葉をスマホにぶつけているところを誰かに見られていたら、きっと正気を疑われてしまうだろう。
そんな事を思っていると、画面が暗くなり、あまりにも自虐的な顔をした男が映る。僕だった。
思い返してみれば、最近彼女の笑顔を見ていない。どこか影のある笑みや、悲痛な表情ばかりを目にしていた。ふとした時に見せる悲しい瞳が、闇を湛えて虚空を捉えている事もあった。
何を思っていたのかは、今更知れるものではない。当時知ろうとしなかった後悔がどっと押し寄せる。
口を開けば喧嘩ばかりで、ここ数ヶ月はギクシャクしていたのも事実。
愛想を尽かされ捨てられたのだろう。
さよならを言う側は、ある程度の心の整理をつけてから言う。言おうと思った時から告げるまでの猶予の中で、覚悟らしいものを決められる。
けれど、言われる側はそうじゃない。
話し合いもなしに、突然奈落の底に突き落とされただけだ。――話そうとしなかったのは、僕だけど。
突然愛する人に横っ面をひっぱたかれたような気分になる。
後頭部を鈍器で殴られたような気分になる。
胸を刺されたような気分になる。
無価値だと突きつけられ全てを否定され捨てられたような、そんな自覚を持つ。
「……ズルいよ」
被害者面してごめんなさい。
でも僕は、優の事が大好きだった。
名は体を表すとはまさにこれだと言えるくらい、彼女はとても優しい人だったから。僕が悲しい時には慰めてくれて、嬉しい出来事があると自分の事のように喜んでくれるような人だった。
――――あれ、そうか。僕は……。
彼女との日々に、綻びとなった、元凶となったであろう歪みに気づく。
僕は彼女に何をしてあげただろう。
何をしてあげられただろう。
精神的な負担をかけるばかりで、彼女の悩みには鈍感を貫いていた。
自分の不平不満ばかりをぶつけ、反論できない彼女の性格を利用し、自分の都合のいいように扱っていただけだ。
クズは僕だ。とんだクズ野郎だ。
なんだって、去られていく側も結局自分勝手だ。
他人の心の動きになんて気づけない、大切な人の事なんか思い遣れない、自己中心的なクズだ。
その証拠に、今の今まで優を責めていたじゃないか。
逃げられて当然だった。こんなにも傲慢で、求めるだけ求めて彼女の求めるものから目を逸らすイタイ勘違い野郎に、優しすぎる彼女は心を消耗していったのだ。
愛は無限じゃない。有限であり、それは相手に大切にされてこそ通じるものだ。
「うん」としか頷けない弱い存在に、一年も目に見えない種類の暴力を振るっていた、人間のクズだった。
「探さないでください」――僕が幸せにできなかった彼女の最後の望みだ。最後くらい面倒くさい男として迷惑をかけるのはやめようと、連絡先を消した。
あっさり引き下がったのは、自分に絶望したからだ。
僕が世界で一番の不幸者だと感じている事を彼女が知れば、殺意を抱かれるに違いない。お前のせいで別れたのに、被害者面してんじゃねぇ、って。
所詮、こんな思いをしたって。
彼女への怒りさえ感じるような、自分の事しか考えられず、自分を中心にしか物事を見れないクズ野郎です。
自己嫌悪の直後、相手の悪いところを探し出す、救いようもないクソ野郎です。
「っあああぁアぁぁあアアアああァアアあああああァぁああッッッ……‼︎」
もう七日くらい外に出ずに引きこもっている。散々泣きもしたが、充電が切れたようにただただベッドで横になっていた。
親友からの連絡を無視していると、七日目にして遂にインターホンを鳴らしに来た。
近所迷惑だろうと思えるくらいに「おーい」「大丈夫かー!」と叫ばれ仕方なく出ると、ホッとしたように彼はあたたかな溜息をつく。
肺中の空気という空気を絞り出し尽くし、やっと声を上げた。
「たーく! 連絡しても返ってこねぇし心配したんだぞ! ……まあ、だいぶやつれてはいるけど生きてはいたから良しとしといてやる」
ふざけた口調で締める彼だが、心配しているのは伝わってくる。
一週間話さないと、声がすんなり出てこないらしい。こんな経験は初めてだった。掠れた声で「うん」と返すと、親友である颯太は悲しそうに笑った。
「入るぞ」
気怠げに頷き返すと、彼は恐る恐るといった感じに部屋に踏み入れた。きっと、僕の様子を見たせいで、部屋中を滅茶苦茶にするくらい心を病んでいた可能性が脳裏によぎったのだろう。
一通り見回し緊張の糸を解いた様子の彼は、六畳一間の部屋の床へ適当に腰を下ろす。
「なんか部屋荒れてんな。前に来た時にゃもうちょっと片付いてたろ」
そうだろうか。自分ではあまり判らないものらしく、成り行きで謝る。
「いやいや、責めてるわけじゃねぇって。ただ……こう、何があったんかなーって」
頰を人差し指でかきながら、困り顔で笑っている。ここまで心配してくれた彼の事だ。せめて彼が如才ない人間であれば邪険に扱えたのかもしれないが、はぐらかしたところで責めてはこなくとも余計気にかけるだろう。
「……そこの置き手紙、見ればわかる」
口にするにはまだあまりにも辛くて、ヒントを残し、読んでいる颯太からも目を逸らす。
数秒の間の後、彼はそれをテーブルに戻しながら唸った。
「どういう事?」
励ましの言葉でもかけてくれるのかと思いきや、動揺するような声音が飛んできた。
一瞬、彼の疑問の意味が捉えきれなかった。
手紙の内容が示唆する出来事に考えが行き着かない馬鹿でもなしに、驚き凝視していると、友人は思案に余ったらしい手紙から視線を上げた。
悲しみを慰めてくれると期待していた予想をまんまと裏切られ、困惑と共に絶望や怒りが湧いてきた。
「彼女が……彼女が突然消えたんだよ! 言わせんなッ!」
乱暴な口調で事の概要を告白すると、彼は眉根を寄せて口を一文字に結んだ。遂には首まで傾げだす。
物分りの悪い子供のようで、苛立ちに声を荒らげようとした途端にとんでもない事を口にする。
「お前、いつから彼女なんていたんだよ」
「――――え?」
何を言っているんだ、こいつは。
次にそう思わされたのは、僕の方だった。
親友の彼には、一年前に人生初の彼女ができた事を打ち明けたはずだ。どうして覚えていないのだろう。意味がわからないのは僕の方だ。
「一年前……大学二年に入ってから独り言が多くなってきたし、なんか変だ変だとは思ってたんだけどマジで大丈夫かよ、お前」
「ひとりごと……?」
大学内で仲良く話していたのも、テーマパークに行ったのも、家でデートしていたのも、全部全部、妄想だって言うのか。
そんなわけないだろう。ありえない。いくらなんでもそこまで頭がおかしくなっていたなんて思えない。
「だって彼女は確かに……」
彼女のいた証拠を探す。SNS系のやりとりは全て消してしまった。残っているのはスマホで撮った写真くらいだ。写真フォルダを開き、「優」という名のフォルダを選択する。
しかしその写真に写っているのは、どれも自分一人で笑顔を浮かべているものだった。まるで隣に誰かがいるような仕草。けれど、そこには誰もない。
あまりのショックと受け入れられない現実に放心していると、颯太が覗き込みあからさまに引いたような顔をした。
「おいおい、冗談だろ」
から笑いされ、まだ納得のいかない僕は置き手紙を目の前に突きつけた。
「これ、彼女の字だ! ほら、こっちが僕の字……僕の字なんか汚くてこんな綺麗なの書けないだろ! よく見てよ!」
縋りつくような思いでノートも差し出し比較させるが、颯太は首を振った。
「お前こそよく見ろ。そっくりじゃねぇか」
言われて、何を馬鹿な事をと見比べた。得られたのは、ほら見ろという慢心ではなく、更なる混乱と自分を疑う気持ちばかりだ。
「じゃあ、優ってなんだったんだよ……」
自分しか認識をしていなかった存在について親友に問うのも変な話だが、何かしらの救いが欲しかった。付き合っていたのは妄想だったとしても、せめて優という妄想の被害者が実在していてくれと、かなり特異だと自覚できる願望で彼の中の記憶を尋ねた。
大学の友人かなんかかもしれない。せめてもとそんな希望に泣きつこうとしたのに、
「な……に、いってんだよ……」
彼は恐怖を色濃く顔にはりつかせ、あまりにも突拍子のない事を口にした。
「――――優は、お前の名前だろ」
無機質な呼び出し音が続き、やがて相手が電話に出る。
「もしもし、記憶屋です。花巻千尋さんの携帯でしょうか」
『はい。ボイスレコーダーの音声を聞きました。本当に恋人以外の記憶からは消えるんですね。写真や記録からも……』
少し寂しそうな声音で現実を噛み締めているような様子が、電話越しに伝わってきた。
「ご満足いただけましたか?」
『……えぇ。実は半信半疑だったんですけどね』
すみませんと謝られ「皆さんそんなものです」とフォローする。
『そういえば、どうして優君は貴方を親友だと思い込んでいたんですか?』
「記憶を書き換えたんです。ただ、恋人への想いって結構根強いもので、記憶を完全に消す事は困難なんです。なので元からいなかったと思うように差し向けました」
『手紙の字はどうやって……?』
「記録を書き換える事もできるんです。手紙を書いた貴方の記録を、彼と差し替えました。この能力のおかげで、戸籍やその他の貴方が存在したという記録も消す事ができたんです」
『不思議ですね。まだちょっと信じられませんもん。……けど、親友に会っても誰ですかって聞き返されて確信しました。私、本当に元から存在していなかった人になっちゃったんですね』
えへへっと力なく笑う彼女の声に、少し、心が痛んだ。
「後悔していますか?」
『いいえ……私はずっと死にたかったから」
安堵を滲ませた言葉に押し黙ってしまう。
「幼かった頃、ダメだと言われていたのに隠れてお仏壇のろうそくに火をつけました。私もできるもんっていう、背伸びした子供のちょっとしたいたずら気分だったんです』
まるで懺悔するように、静かに彼女は語り出した。
『それなのに……。そのまま火を消し忘れたせいで火事になったんです。寝ている間に燃え移ったようで、父も母も姉も、私のせいで亡くなった。私一人がのうのうと生きているなんて、もう、耐えられなかった』
「そうだったんですね」
悼む気持ちを声に乗せる。自殺を止めてはいけない決まりがあるため、それ以上の事は言えなかった。
『優君には悪い事をしてしまったけれど、彼との日々は辛かった。あまりにも……』
その先に何を言うのかはなんとなく予想がついた。けれど、電話口でかぶりを振る気配の後に出かかった言葉を飲み下した。
『いいえ。死ぬ前に人の悪口を言うなんて、閻魔様に怒られちゃいそうですよね。やめておきます!』
わざと明るい口調で笑っている。なんて痛々しいのだろう。
優という青年も、ボロボロな笑顔で笑ったり、様々な感情に翻弄されたりしていた。
今まで接してきた置いていかれた側の人達と重なって見えるくらいに、皆、みんな、ミンナ、悲劇を受けた人間の直後は似ていた。
見ていられないよ。聞いていられないさ。
――――こんな、あまりにも悲しいだけの群像劇。
依頼者なんて、バッドエンドしか運んでこないんだから。
『これで心置きなく消えられます』
「それはよかった」何がいいんだ。
『では、そろそろ……』
「ええ。良い来世を」今世を生きろよ。
『ありがとう、記憶屋さん』
切られた電話の画面を、名残惜しくて眺めた。彼女だから話していたかったわけではない。別に、彼女自身に執着しているわけじゃない。
今世を放棄し、死を選択した人間の肉声がこれ限りだと思うと、他人であったとしても悲しくなるだけだ。
嘘を量産する仕事に就いている俺は、当たり障りのない事しか伝えられなかった。その人が存在してきた日々も、生きてきた軌跡も嘘で塗りたくって。辛くて苦しくて助けを求める人間の最期を迎える前にでさえ、本心で語る事はない。
「ウソツキうそつき嘘つき嘘吐き嘘憑き……俺の、大嘘吐きが……っ!」
でも、だって。俺なんかに引き止める資格があるのかよ。
彼女は悩んで悩んで悩んだ末に、もがいてもがいてもがいたすえに、地獄を味わって味わって味わった末に、くのうしてくのうしてくのうしたすえに、必死に今まで生きて生きて生きてきた末に、死ぬ事を選んだんだろ。
「軽々しく、生きてなんて言えねぇじゃん。……救えもしない俺が、そんな無責任な事言うのはおかしいだろ」
仕事を終えた後に必ず襲ってくる気持ちにそう言い聞かせた。
記憶屋を頼る時、大抵の人は自殺するために利用する。生前の後片付けという形でだ。
後は、多大な借金を抱えた人間や、人に追われる人間が最後の手段として辿り着く事もある。金を借りていた事か自分の存在を消してしまえば全てをチャラにできるからだ。
今回の彼女は、たまたま前者だった。
記憶屋を利用できる客は限られている。
一つ、両親共既に亡くなっていること。
一つ、十二歳以上、二十五歳以下であること。
たったこれだけではあるが、平和な日本ともなればこの条件を満たす人間は他国に比べれば比較的少ない。
どうしてこの条件があるのかはわからないが、記憶屋をしていた祖母に「これに当てはまらない人に関する記憶や記録は、消せないし書き換えられない」と教えられた。
両親を亡くした若者に、十年余りの間だけに与えられる危険な特権だと、俺は思う。
そして自分自身、記憶屋を利用する人間とは同じ穴の狢だった。
両親を亡くし、夢もなりたいものもなく、ただただ死ぬためだけに日々を生きている。
いつかこの自殺幇助的な罪ばかり背負う役を子孫に譲るべき時がきたら、人々の記憶から自分を消そうと思っている。
そして、記憶屋という概念と共に最初からいなかったものとして死んでいくのが望みだった。こんなにも悲しいさがを背負う人間を今後生み出さない為に。
「また、一人の人間が消んだ。記憶屋なんてものがあるからだ……」
罪悪感に脱力し自室の床に寝転ぶと、ズボンのポケットにしまったスマホがバイブレーションの振動と共に着信を伝えてくる。
非通知の表示に、これは記憶屋案件だと直感する。
――嗚呼、なんだってこんなに消えたがりが多いんだ。
「それは……俺もか……」
いつだって、去っていく側は脇役だ。
自他の繋がりなんて考えない、他者への影響なんか深く考慮しない、独りよがりで不憫な人間だ。
消えていく脇役の人間に、スポットライトを当てられるのは記憶屋だけである。
記憶屋だけが、人々の中から消えていく依頼人をしっかりと覚えている。
それは、途轍もなく重荷に感じる事でもあった。
「記憶屋は……生きたがりになり損なった人間のゴミ箱じゃねぇんだぞ」
センチメンタルな気分に浸っていると、スマホは大人しくなった。
人間という生き物は、死後も様々な人の記憶の中で生きている。俺は、誰からも忘れさられてしまったその時が、人間の本当の死だと思う。
だから、たった今切れてしまった電話の着信音に心底安堵した。以上の理由と、そして、自分が間接的にでも死ぬ事を手助けしてしまう罪の回数を減らせた事にも、安心したのだ。
目を開くと、一面に広がる眩しい青が目の奥を刺す。目を眇めれば、鮮明になった視界へと飛び込んできた清々しい単色の広さに圧倒された。
「空って、こんなに広かったっけか」
ベタな感想を抱いて目を瞑れば、光が瞼の裏にまで透けてきた。
今日の空はこんなに澄んでいるというのに。
嗤われている気分になる人間っていうのは、どいつもこいつも捻くれてる。
悲しみに酔っ払った灰色の僕を、くすんだ汚い色だと貶われている気がした。
スマホがまた振動しだす。
やめてくれよ、もう。生きてくれよ、この死にたがり共が。
この世界の中で、誰が一番辛いのかなんか関係ない。
辛さは自分だけの気持ちだから。他人が介入する余地なんてない。その人が辛いと感じれば、確かにその人は辛いのだ。
だから俺は辛いんだ。辛いと思って良いんだ。それなら、今、この人生に幕を閉じたって、良いんじゃないのか。
死という誘惑から耳を閉ざし、思考の海から現実へと戻ってくる。
こんな罪悪にまみれながらも先祖代々この世襲を受け継いできた理由は、俺の本名に刻まれている。
次第に着信音が救いを求める人の悲鳴に聞こえてきて、耳障りで仕方がなくなった。耐えきれずに電話を受け取り、忌々しいその名を名乗る。
「もしもし、記憶屋の○○○○○です――――」