ある青年と少女の話
万人に理解される必要があるのか、と、彼は聞いた。
必要性はわからないけれど、理解されたいと彼女は泣いた。
透明な雫が彼女の瞳から溢れ、頬を、床を濡らしていく。
ソレを見た彼は心底不思議そうにただ「ふ~ん」と頷いた。
そんな欲求、わいたことが無いと言いたげなその顔のまま、彼は泣き続ける彼女を見つめる。
硝子玉のようなその瞳に映る少女の姿はどんなものか問う者は、此処にはいない。
延々と響き続ける彼女の泣き声。
彼はうんざりしたように溜息を吐くと、ゆるりと宙に円を描いた。
みれば、ポカリと浮き出る夜空のような闇。
星々のような小さな光は、その円の中で静かに瞬く。
彼は再びゆるりと宙に円を描いた。
抜き出された闇の中から、再び丸い円が浮かぶ。
小さな星が更に狭い空間で瞬いた。
涙を流していた彼女が、そんな彼を不思議そうに見つめた。
「ねぇ、君はこれが何に見える?」
「何って……切り取られた夜空……」
「そう」
「あなたは、違うの?」
「違うね。僕には、これが世界に見える」
彼はそう言うと、繰り抜かれた円と小さな円を腕に纏わせる。
ふよふよとまるで水の玉のように揺れながら浮いている夜空のような円。
ソレを目で追いながら、彼女は「世界?」と呟き、眉を寄せた。
理解できない。とその顔には大きく書いてある。
しかし、彼は大きく頷き「世界さ」ともう一度呟いた。
「……こんな風に、同じ時間を長い間過ごしてきた僕達ですら理解し合えないことがある。それなのに、本当に万人に理解されるなんてこと、あると思う?」
彼の言葉に、彼女の表情は分かりやすく曇った。
「本当は『世界』というのも曖昧なんだよ。だって、生まれた場所や育った環境……自分で途中から幾らか選択することが出来る様になるけれど、どうにもできないことのほうが多い。そんな『誰かから与えられた』かもしれない中で作られたのが『世界』だと、僕は思ってる。だとしたら、世界は広いと言われても僕は理解できない。地図を見れば確かに広い。すれ違う人全員と知り合って、その人達が知ってる世界を知れば、自分の世界も広がるかもしれない」
「なら……」
「でもさ、それは結局誰かに与えられた『モノ』なんだよ。僕にとってはね」
彼はそう言うと、指をゆっくりと左右に振った。
すると、腕に纏わりついていた二つの円は、ブルブルと震え消えていく。
「よく、わからないわ」
溜息を吐く彼女に、彼は小さく笑った。
「分からなくて当然だよ。それが……これが、僕の持つ『世界』なんだから。君には、君の……君だけの『世界』がある。同じように生まれ育ったとしても、僕と君という二つの命である以上、全てが一緒になるわけがない。洗脳されたのなら別かもしれないけどね」
彼の言葉に彼女は何か言おうと口を開いたが、言葉が見つからなかったのか、気まずそうに目を逸らしながら口を閉じた。
「……理解されたいという欲求を笑うつもりはない。持った理由も聞かない。けれど、僕は考える。君のその『万人に理解されたい』という欲求と必要性を」
「そう……ねぇ……」
「なに?」
「あなたはどうして考えるの? どうして、沢山の人に理解して欲しい、認めて欲しいと思わないの?」
彼女の言葉に、彼はゆっくりと笑みを浮かべた。
どこか芝居がかったその姿に、彼女は不満気に唇を尖らせる。
「そんな顔しないでよ。あまりにも素朴な疑問だなと思っただけさ」
彼はそう言うと、宥めるように彼女の頭を撫で、そっと口を開いた。
「簡単な答えだよ。考えるのは、気になるから。沢山の人に理解して欲しい、認めて欲しいと思わないのは、万人ではなく、たった一人の理解者が欲しいと思っているからさ」
彼はそう言うと、再び芝居がかった動作で両腕を広げた。
そのまま天を仰いだ彼は彼女に聞こえるギリギリの声でそっと囁く。
「万人に表向きの理解をされるより、僕はたった一人でいいから、僕を深い所までちゃんと理解してくれる人が欲しい。理解者が全くいないということよりも、中途半端に自分を理解されて、残りの理解されていない部分を『お前はこういう人間だ』と自分の考えを押し付けてくる、もしくは、『こういう人間だと思う』という想像と期待を勝手に持って接してくる誰かが居ることのほうが苦しいと思うからね」
「それは……」
「虚しいじゃないか。そんな僕の事をよく知らない人の為に『偽りの僕』を作るなんて」
「そんなの作らなきゃ……」
「作らずにいられるかい? 己を偽らず、他人に『自分』を見せ続け……延々といつ終わるかわらない自分の生を歩き続けるなんて……できたら素敵かもしれないけれど、きっとそうはいかないだろう? 僕達が産み落とされた『世界』は、そこまで優しくない」
彼の言葉に、とうとう彼女は黙りこみ、ただ瞳を揺らした。
悔しげに噛まれた唇が、目を引くほど赤くなる。
「……君は優しすぎるよ」
「そんなこと……そんなことない……だから、私は……」
「君の思いは、きっと誰しもが思うことさ。そして、嘆くんだ。『理解してくれる人がいない』って」
「でも、それは……!」
「うん。事実かもしれない。けどさ、嘘かもしれないじゃないか」
「え?」
「気づいていないだけかもしれない。万人は無理でも、一人は理解してくれているかもしれないし、理解しようとしてくれてる人が沢山いたかもしれない。確認する術なんて無いどね」
彼はそう言うと、静かに彼女の瞳に溜まった涙を掬い取る。
「……いつか君の願いが叶うといいね。万人に理解されたら、君を襲う孤独は消え去るかもしれないもの」
「あなたは?」
「え?」
「あなたは……あなたは、見つけられるの? たった一人の理解者……」
「見つけられるかもしれないし、見つけられないかもしれない。僕の『世界』は、きっとそんなに広くないから」
「それじゃ……」
「だからこそ、生きるのかもしれないね」
「……そう」
「見つけられずに死ぬのも、見つけようとして生きるのも、自由だよ。ただ僕は生きると決めただけ。だから、君も君のしたいようにすればいい」
彼はそう言うと、その場に座った。
話しすぎたと言いたげなその顔には、僅かな疲労の色が滲んでいる。
彼女もそんな彼の隣に座ると「うん」と何かを決断したかのように頷いた。
「決めたの?」
「うん。私は……」
彼女の決意。
それを聞いた彼は、一瞬目を見開き、すぐに優しげな眼差しを彼女に向けた。
「……行くといい。君は、君の道を」
「ありがとう。また、会おうね」
「さよなら」と言わず、彼と彼女は自分達の思う言葉を交わし、微笑みあった。
彼女の目の前に現れる真っ白な扉。
ゆっくりと開いたその扉は、目を開けていられないほどの眩しい光を放っている。
彼はそっと彼女の背を押し、彼女の身体は扉の中へと吸い込まれた。
そして――
生きてる。
彼女はそう呟いた。
優しいアイボリーカラーの部屋、柔らかいとは言いがたいベッドと鼻をつく薬の匂い。
規則正しい電子音と誰かの泣き声。
「生きてる」
彼女はもう一度呟くと、動かない身体の代わりに目を動かした。
腕に繋がれたチューブと、様々なところに巻かれている包帯。
彼女が目覚めたことを喜んでいる母親と慌てて駆けつける医者。
自ら命を絶とうとして失敗したことを知った彼女は、笑みを浮かべた。
つっと目尻から雫が落ちる。
医者が話しかけてくる言葉に返事をしつつ、彼女はそっと心の中で呟いた。
(あの男の子は誰だったんだろう……)
*****
誰もいない、何もない空間に一人、青年が立っている。
目の前には真っ黒な門。
隙間からは不気味な赤黒い光が漏れている。
「次の罰は何かな……」
理解者を求めて、絶望して……自ら命を絶った僕への罰は。
青年はそう呟くと、真っ黒な扉の中へと飛び込んだ。