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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
第一部
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第7話

 たくさんの異形のカニの群れが、その人柱の周りで蠢いていた。あたりは切断された人間の身体の一部や、銃弾でズタズタになったカニの死骸で溢れている。一目見ただけで部隊は全滅したであろうことが見てとれた。


 速人は自分の持つM二四狙撃銃のスコープを覗く。人柱の中には中隊長が入れられていた。顔中を自分と仲間の血で汚していたが、目は大きく見開いていた。しきりに口が動き、何かを言っていた。訴えていた。じっとその口を見て、何と言ってるのか判断しようとする。


「助けてくれ」



 目を開き、速人は自分が今、どこにいるのか考えた。会社の研修所。就職して新人研修を受けている。現実を思い出し、今のは夢だとはっきりと理解した。今日はこのパターンか、と暗鬱な気分になる。昨夜はバスケの試合をして、色々と楽しいことがあった。その代償は、この悪夢だった。


 頭の中の何かが、楽しい時間を過ごした後に、きっちりと借金を返してくれたわけだ。後悔と罪悪感が、速人の心の中の奥底でなかなか取れない汚れのようにこびりついていた。


 時計を見ると午前二時四十七分。まだ起きるには早過ぎる時間だったが、すぐにまた眠れるとは思えず、とりあえずベットから出て、椅子に座る。薄暗いなかで、灰皿を探しあて煙草に火を付けた。心を落ち着かせるように、ゆっくりと煙を吸い込む。


 奥まで音を立てずに歩き、ガラス戸の前で止まった。電灯や通路の蛍光灯などは点いているので、真の暗闇には程遠く、隣の二棟はよく見えた。闇の中に立つ建物というものは昼の明るい時とは全く違って見えるもので、何となく不思議な気持ちで建物を眺める。


 しばらくしると、目の片隅がほんの僅かな赤い光を捕らえた。角度を変えて見てみると、二棟の入口から少し離れたところにワゴン車がバックで停まろうとしていた。電動で動いているのか、ほんの少しの音しかしていない。なんなんだ、こんな時間に。速人は煙草の火をすぐに消した。


 すると何人かの男が、素早く現れて通路を進み二棟の入口に向かっていった。鍵が掛かっているはずだが、ほとんどロスもなく中に入り、進んでいく。一人が廊下で待ち、残りが二棟の一階の入口から一番近い部屋に入っていく。廊下で待つ男は隣の部屋のドアのガラスを覗いている。


 細かい様子までは見えないが、眉根を寄せて速人は見続けていた。


 すぐに男らは出てきたが、何人かは人を担いでいた。車に担いできた人間を入れるとすぐに外に出てくる。廊下で待っていた男がドアに鍵をかけて、最後に出てきた。その男だけが車に乗り、すぐに発進させ、その場から消えた。来た時と同じように、小さな音しか出さない。残りの男たちもすぐに速人の視界から消えていった。時計を見ると二時五十二分だった。起きてから五分、煙草を吸っていた時から三分は経っていない。


 速人は椅子に座り、ジッと考えた。今、俺は何を見たんだ? 誘拐か? わざわざこんな研修所で? 具合でも悪くなったのか? 確かあの棟は男だけの四人部屋だったはずだ。


 いくら考えてもわからなかった。明日、達也にでも聞いてみよう。何か納得できる正当な理由があるのかもしれない。ベッドに戻って朝まで寝ることにするか。自分でも信じてないことを思いながら、身体を横にする。当然、朝まで一睡もできなかった。



 一日中、夜中に見たことを速人は考え続けていた。かなり衝撃的な場面のはずだが、大きな勘違いということもある。騒ぎ立てて、恥をかくのも馬鹿らしいが、あっさりと忘れられる様な出来事でもなかった。研修授業そっちのけで思考に溺れる。ぐるぐると同じ考えが回り始め、一向に結論めいたものが出てこない。情報が少なすぎるし、何より速人は自分が信じられなかった。戦場から帰ってきて、色々と心の障害とやらにかかり、薬も少なからず処方された。やっとそこから抜けだしたのだが、心の問題というのはそんなに簡単なものではない。しかもあの夢を見た直後だ。もしかしたら自分の妄想なのかもしれない。自分の見たことに、絶対の自信が持てなくなっていた。


「八割以下だと補習だからな。今日は金曜で夜からの時間は自由だが、補習の対象者は外出禁止。二十一時からこの教室で勉強することになるぞ。仕事でここに来てることを忘れるなよ」と言う逸見の声で速人の意識は現実に戻った。


 断片的にしか聞いてなかったので、はっきりとしたことは速人にはわからなかった。隣の西川由紀に声をかけてみる。


「ごめん、ちょっといい? なんか補習とか言ってるけど、何の話?」


「えっ、八尋さん、何も聞いてなかったんですか? 今まで研修で学んだ商品や法令とかのテストをするんですよ。それで八割以下だったら補習らしいです。今日の夜の外出も無しになるみたいです。かなり難しいって言ってましたよ」


 由紀は半ば呆れ顔だが、詳しく答えてくれた。


 何だと、そいつはまずい。昨日、達也らと交わした約束を思い出す。今日は夜から、四人で飲みに行く約束だった。それに当たり前だが、補習なんてしたくない。


 正直なところ、全く自信が無かった。普段も一生懸命、話を聞いて学んでいるとは言えないのに、今日などは何を勉強したのかを聞かれても、すぐには答えられない始末だった。テストなどできるわけがない。まあ仕方が無いな、三人で楽しんできてくれ。速人は早々に諦めた。


 プリント用紙が前から後ろへと手渡される。速人の席にも回ってきたので後ろの席に振り向いて渡す。その際に隣の由紀も不安そうな顔をしているのに気付く。


「どうしたの? やたらと不安そうじゃん?」


 余計なことだと思いながらも尋ねてみる。


「今夜は実家に帰ろうと思ってたんです。土日休みじゃないですか。うち母親がちょっと具合悪いし。でもあんまり自信ないし、帰れなくなっちゃいそうだなって」


 メガネの奥の瞳が憂いを帯びていた。速人は遊びに行けなくて困っていた自分が恥ずかしくなった。


「それじゃあ十五分で終わらせてくれ。終わったら隣の席同士で採点するように」と逸見が言うのが聞こえる。


 仕方ない、俺が何とかしてやるよ。速人は彼女を救うことを決めた。


「どうしても今夜、帰りたいのかい?」


 由紀は無言で頷いた。


「答えはボールペンじゃなく鉛筆で書いといて」


 速人は悪戯そうな顔で言った。大丈夫、君は家に帰れる。


 早速、速人はテストを見てみる。彼には一読した時点でかなり難しいことがわかった。幾つかの問題は答えることができたが、八割は無理だろうと思う。特に今日やったらしい研修の内容から出ている問題がほとんど答えられない。


 すぐに時間が来て、由紀とお互いの答案を交換する。ちゃんと言ったとおりに鉛筆で書いてある。


 よし、いい子だ。何度も書き直したらしい消しゴムの後が、彼女の必死さを表していた。


「多分、ダメだと思います」


 由紀はガッカリした様子である。本気で気落ちしているのが速人にもわかった。


「絶対に大丈夫。安心していいよ」


 消しゴムを指ではじいて転がしながら速人は言った。


 速人のやろうとしていることがわかったのであろう。一瞬、嬉しそうな顔をしたが、すぐに真面目な顔に戻った。


「でも、そんなことしたらまずくないですか?」


「やるのは俺だから大丈夫。頼まれたわけでもないしね。勝手にやるだけだから君は何も悪くない。俺のはそのままでいいからさ。でも、そういうのが嫌だって言うならやめとくよ。どうする?」


「うーん、じゃあ、お願いします」


 意外と軽くお願いされる。この辺がまだ十九歳だからだろうか。何となく可愛いやつだと思う。


 逸見が読み上げる答えで採点していった。間違っているところにはバツをつけずにマルだけを付けていく。最終的には八割にあと一問だけ足らなかった。速人は前の逸見を見ながら、本来バツであった二つの問題の答えを直した。すぐに赤丸を付け、何事もなく合格の答案が完成する。


「よかったね、これで帰れる。お袋さんに優しくしてあげなよ」


 嬉しそうな由紀の顔を見て、速人も嬉しくなった。笑うと余計に若く見える。


 由紀からも答案を手渡された速人は、それを見て驚き、すぐに由紀の方を見た。メガネの奥の瞳が悪戯っ子の様に笑っていた。速人の答案はギリギリ八割を超えていたのだ。速人は一度も消しゴムを使わなかったのに、たくさん答えが消されて直っていたので彼女が速人と同じことをやったのは間違いない。しかも速人が直したのは二つだけだったが、パッと見て十個以上は直されていた。いつの間にやったんだ、この子は。ジッと見ていたわけではないが、そんな様子は見られなかったし、なによりも彼女はそういうタイプには見えなかった。意外といい度胸していて、そして義理堅いやつなのかもしれない。


「サンキュ」とだけ速人は言った。


 後ろの席の仁科を見ると、こちらに気付き親指を立てている。どうやら彼も難関を突破したようだ。隣の人は天を仰いでいるので、普通にできたのだろう。なかなかどうして侮れないやつだ。


 逸見が答案を集め終わり、半分くらいが補習だと言った。例年だともっと多いので今年はなかなか優秀だそうだ。


 補習の予定と解散が告げられ、みんなが席を立った。至る所で人が集まって会話が始まる。今夜、どこに行こうかとか、補習で最悪、と言った言葉があちらこちらから聞こえてきた。速人の元にも仁科がやって来た。


「どうでした? 俺はOKですよ」


「大丈夫だったよ。何故か知らないけどね」


 由紀の方をチラリと見て答えた。


「正直、問題見た時に、八尋さん終わったなって思いましたよ。いつも全然、話聞いてないし」


 そんな会話をしていると、隣の由紀の元にも同室の三上涼子、網谷彩菜、竹下久美子の三人がやって来た。彩菜が由紀に話しかけ、すぐに驚いた顔をする。


「由紀、凄いじゃん。わたし全然ダメだったよ~遊びに行きたかったのに補習なんて。もうやだ」


「彩ちゃん、ダメだったんだ。わたしはね、あまり大きな声では言えないけど、隣のこのお兄さんのおかげだよ」


 速人の方を向き由紀は答えた。四人は顔を近付けて、小さな声で話し始めた。由紀以外の三人が速人に視線を向ける。


 速人は視線に気付いていたが、気付かない振りをしていた。


「いいなあ、由紀は。話がわかる人が隣で。わたしも彩と一緒に補習。一人じゃないからまだよかったけどね」


 そう言ったのは三上涼子だ。そして知らない振りをしている速人に向かってからかうように声を掛けてくる。


「八尋君、やっぱり若い子だから助けてあげたの? やっぱり男は未成年の女には弱いよね」


「いやいや、助けられたのは俺の方でね。それにしても三上さんも補習なのは意外だね」


 からかいに対しては華麗にスルーして速人は答えた。


「もう全然ダメ。あたしと彩はボロボロ。久美子は満点だけどね。仁科君はどうだったの?」


 黙ってピースサインを出す仁科。


「これからもテストあるんだよねえ、きっと」


 心配そうに彩菜が言う。


「きっとあるよねえ」


 涼子も憂鬱そうにそれに答えた。溜息をつく二人。


 いつもニコニコして脳天気な風にみえる彩菜は何となく想像通りだが、常に颯爽としている涼子のこういう一面は意外だった。


「わたし、今日、絶対帰りたかったんだよなあ。まあ、いいや。明日の朝一番でここから出るから」


 彩菜が高らかに宣言する。そんなに帰りたい理由は何なんだと、速人は知りたくなったが聞くのはやめておいた。彼氏。そうとしか考えられない。


「でも竹下さん、凄いよね。満点なんて。俺なんてギリギリだよ。八尋さんはどうやらインチキみたいだし」


 それまで黙っていた仁科が口を開いた。


「インチキ言うな」


 とりあえず一つ言っておこうと速人は思い、ツッコミをいれる。


「うーん、正直、まぐれかな。一応、ちゃんと聞いてたしね」


 優等生的な発言を久美子が言った。


「わたしも聞いてはいたんだけどねえ。由紀さ、次のテストでは席交換してね。お願い」


速人は、その彩菜の冗談を聞いて微笑む自分の顔を、由紀がジッと見ているのに気付いた。目線で尋ねると由紀は小さく笑うだけだった。


 そろそろ行こうかと、速人たちは挨拶をして立ち去ろうとする。


 最後に由紀が速人のそばにやってきて、「ありがとうございました」と小さな声で言った。


 軽く頷き、「じゃあね」とだけ言って彼女たちと速人は別れた。



「俺、竹下さん、凄い好みですわ。ストライクど真ん中ですよ。頭いいし。いやあ、何とかしてお近づきになりたいものだ」


 部屋まで帰る道中、さっきから仁科はずっとこの調子だった。達也と何ら変わらない。


 しかし速人は気付いたことがあった。ほとんが二十代前半から後半の男女で構成されるこの集団。これから会社員として働くことになるのだが、恐らくほとんどの人間がこういうシチュエーションは最後だろう。クラスがあって、みんなで何か勉強して、スポーツで盛り上がって、夜は部屋で同年代が集まって無駄話をする。学生時代にしか味わえない時間が、大人になって少しだけ与えられたようなものだ。みんな多かれ少なかれ浮かれるのは当然だろう。少しくらいガキっぽくなったって構わないさ。


「涼子さんは誰が見ても美人ですよね。でもね、ちょっと美人過ぎるんですよ。と言うことでやっぱり竹下さんだなあ、俺は」


 お構いなしに話を続ける仁科。


「三上さんかあ、確かに可愛いな。いや、可愛いってのは何か違う気がする。美しいってやつだね。そんな言葉使ったことないけど。網谷さんはどう?」


「網谷っすか。あいつ凄いいい子っぽいですよね。いつも笑ってるし。まあまあ可愛いんじゃないですか」


 随分とさっきと口調が違うなと思いながら速人は、同感、と思った。


 そうなのだ。涼子や久美子ほど美人ではない。初日から何となく気にして見ていたが、彩菜はいつもニコニコしていて、どちらかと言えばいい女友達候補ナンバーワンといった感じの女性だ。それは速人も感じていたが、それでも何故か彩菜が気になっていた。先日、食堂で携帯で楽しそうに話しているのを見て、誰と話しているのだろうと気になったり、あんなに帰りたがるのは何故なんだろうと思ってしまう。


「もっと色々、つっこんだ話したいですよね。実際は全然知らないし」


 仁科の言葉に一人頷く。まだまだ、実際は全然知らないのだ。話はまだ何も始まっていない。


 部屋に戻ると、すぐに達也から携帯へラインのメッセージがきた。ニコが補習になったことと十八時四十五分に正門の前で集合するようにとのことだった。何故か風呂を済ますようにと補足してあった。すぐに企みに気付いたが、どちらにしろ風呂には入りたかったので丁度いい。仁科にその旨を伝え、夕食と入浴を一時間足らずで済ませた。


 約束の時間まで、あと十五分といったところで速人は茜にメールをした。通常はラインで済ませるがメールにしておいた。初日に連絡先を聞いてから初めてのことで、忘れていたわけではないが、なんとなく今日まで延ばしてきたのである。昨日、催促されたこともあったのだが。


『お疲れ様。八尋です。テストどうだった? 俺はなんとかパスしてこれから出かけます』という味も素っ気も無い文章を作り、少し逡巡したあと送信ボタンを押す。


 返信は非常に早く、『やっと連絡くれた。わたしもテストは大丈夫。これからクラスの人たちと飲み会なの。正直、わたしは微妙なんだけど、部屋が同じ子たちが乗り気でさ。とりあえずこれでこっちからも連絡できるね。じゃあ楽しんでくださーい』


 一緒に出かけようとか言われるかもしれないと、速人は少し思っていたので拍子抜けだった。はい、自意識過剰。自分だけが世界で動いていると思うのは大間違いだ。茜には茜の付き合いもあるだろう。速人にも速人の付き合いがあるように。


 そろそろ時間になる。仁科と促し、待ち合わせ場所に向かった。達也の企みは、何となくわかっている。そしてそれが予想通りならば速人には難しい問題になることになるだろう。さて、どうやって回避するべきか。回避しないで挑戦するか。速人はすぐには決められなかった。


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