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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
番外編
54/55

旧知の友

 

 たくさんのスーツ姿の男女が研修棟の出口から続く通路を歩いていた。

 その中の一人、八尋速人は欠伸をしながら途中にあるベンチに座っている。

 同室の友人である仁科聡は、同じく友人の川井良太を連れてどこかへ行ってしまった。

 仲良くなった同じクラスの女性たちと勉強会をすると言う話だった。速人もいつもは参加するが、今日は面倒で欠席したのだ。

 たまには一人でゆっくり過ごすのもいいか。

 速人はそんなことを思いながら、タバコに火をつける。

 しかし彼の目論見はすぐにご破算となった。

「八尋、ちょっといいか?」

 男が一人、速人に向かって声をかけた。下を向いていた速人が目を向けると、同じクラスの江越俊介が立っていた。

「俊介か。どうした?」

 同じクラスなのでもちろん面識はある。しかも速人と俊介は席が近く、クラスの中でも特に仲がいい方だった。

 お調子者で明るい俊介はクラスでも人気者だ。

「ちょっと頼みがあるんだよぉ」

 すがるような目で速人を見つめてくる。

 嫌な予感がしたが、速人は先を促した。

「こないださ、クラスのやつと飲みに行ったんだ。そこでベロンベロンに酔っちまったんだ。それで近くの席にいた二人組と揉めちまったんだよ。店の外へ出て適当に殴ったりしちまった」

「しょーもねえことしてんなあ。それで?」

「昨日、授業の後、駅前のカラオケに行ったんだよ。そしたら帰り道でその揉めたうちの一人とはち合わせしちまった。そいつは俺に文句を言いながら、誰かを呼び寄せたんだ。そしたら腕に包帯を巻いたやつが現れた」

「揉めたうちのもう一人か。よく聞くような話だな」

 そう言って速人は笑ってしまった。

「笑いごとじゃねえよ。そいつが言うには骨が折れたって言うんだよ。慰謝料をよこせって」

「いくら払えって言われたんだ?」

「二百万。俺は殴っただけで腕なんか怪我するわけないんだけどな」

「そんなの無視しちゃえよ。それか捕まえて包帯を外しちまえ。多分、無傷で綺麗な腕を見られるぞ」

「それが無理なんだよ。なんと相手は……」

 ああ、そういうことね。

 速人はその後の言葉が予想できた。

「ヤのつく自由業の方だったんだ」

「それでお前の身元は知られちゃってるの?」

「ビビっちまって言われるがままに財布を差し出したら、免許証とか取られた。ここの研修生だってこともバレてる」

 俊介は情けない顔をしてうつむいた。

「二百万か。払える……わけないよな?」

「当たり前だろ。そんな金あるわけない」

「悪いけど、俺にもそんな金はないぞ。警察に行ったらどうだ?」

「喧嘩をしたのは事実だからな。会社に知られたらクビになっちまう」

「それで俺に頼みってのは?」

「これからそいつらと会わなきゃいけないんだ。呼び出しされててさ」

 まだ俊介が話している途中だったが、速人はすかさず口を開いた。

「悪い。ちょっと急ぎの用事があるんだ。また今度な。じゃあ元気で。生きてたらまた話そうぜ」

 早口でそう言うと、速人はベンチから腰を上げた。

「ちょっと待ってくれよぉ。頼むよ。一緒に行ってくれよお」

 速人のスーツの端を掴み、俊介は懇願した。

 眉毛がへの字になり、とてもみっともない顔になっている。

「どうして俺なんだよ。他にもいるだろうが。それこそ一緒に飲みに行ったやつに頼め」

「だってよぉ、八尋っていつもヤクザみたいなのと一緒にいるじゃんか。だから、そういうの怖くねえのかと思って」

 一瞬、何を言っているのかと思ったが、速人はすぐに誰のことなのかに気付いた。

 速人はいつも田上雅夫という親友と一緒にいる。彼のあだ名はニコという。彼は無口で無表情な大男で、その体躯と坊主頭のせいかよくこの様な疑いを持たれる。

「ニコのこと言ってるのか? あいつはそんなんじゃないぞ。ただ強面なだけだ」

「お願いだから、頼む。お前しかいない」

 俊介はそう言って両手を合わせ拝むポーズをする。

 はあ、やれやれ。仕方ないか。

「わかった。顔を上げろよ。一緒に行ってやる」

「マジか? ありがたい。八尋様、感謝いたします。一生、足を向けて寝ません」

「はい、はい。それで何時なんだ?」

「十七時半に近くの公園なんだ」

 今の時刻は十七時少し前。まだ時間の余裕はあった。

 二人は宿泊棟へ向け並んで歩いていく。

 速人は部屋に戻り、スーツを脱いでTシャツにジーンズというラフな格好に着替えた。革靴も脱ぎ、スニーカーに履き替える。

 財布から一万円札と免許証や保険証などの大事なものを抜き取り、机に入れる。

 すべての準備が整い、速人が部屋を出ようとした時、ドアが勝手に開いた。

「どこか行くのか?」

 坊主頭の大男、ニコがそこに立っていた。

「お前、勉強会はどうしたんだ?」

「今日はパスだ。頭が疲れた」

 そう言って頭を振りながら、部屋に入ってくるニコに速人は事情を説明した。

「まあ、そういう訳なんだよ。めんどくせえけど、俊介が可哀想だからな。とりあえず一緒に行ってくるわ」

「何時に行くんだ?」

「今からだよ」

「そうか。わかった」

 速人は頷いているニコの横を通り、廊下に出る。

 俊介の部屋に向けて速人が歩き始めると、ニコが当たり前のように一緒に歩き始めた。

「何だよ。お前も来るのか?」

「面白そうだからな」

「物好きだな。話、ちゃんと聞いてたか?」

 速人はそう言ったが、ニコが一緒に来てくれるのはありがたいと思った。

 本心を言えばニコに説明したのは一緒に来て欲しかったからだ。

 ニコもそんなことはわかっているはずなのだ。だからニコは「一緒にいってやろうか?」などとは言わない。付いてくる理由も適当。

 普通の仲間ならこんなことには巻き込みたくはない。しかし速人とニコは親友だった。戦友だった。立場が逆なら速人は迷わず付いていく。

 速人はあまり人に頼るタイプではないが、ニコに対してはあまり遠慮の気持ちは無かった。

「おおー、助っ人まで用意してくれたのか」

 俊介はニコを見るなり、また拝み始めた。

 ニコはそれを見て苦笑いを浮かべる。

「それじゃあ、行きますか」

 速人の言葉で三人は研修所の正門を抜け、約束の公園へ向かって歩き始めた。

 その公園はとても小さく、住宅の隙間にポツンと存在していた。

 遊具もシーソーとブランコが一つずつしかない。キャッチボールすら出来そうにない広さだった。

 そこに二人の男が立っていた。一人は腕に包帯を巻き、それを肩から吊っている。一見してその筋の者とわかる身なりで、年齢は二十代半ばといったところである。

 速人はその二人を見た途端に、来たことを後悔した。

 本物じゃん。どうなることやら。

 その二人は速人らの姿を見ると、咥えていたタバコを投げ捨てて足で踏みにじった。

「おう、随分と待ったぞ」

 まだ十七時半になるまでに五分以上あるが、速人は黙っていた。

「なんだ、ぞろぞろやって来やがって。用があるのはお前だけだぞ」

 腕を怪我している男が俊介に向かって言った。

「いや、その、ただの付き添いです」

 しどろもどろになりながら、俊介は言う。

「まあいい。それで金は持ってきたのか? こっちは仕事が出来なくて困ってるんだからな」

「いや、それがその……」

「何だ? 用意してないのか? お前、俺らのこと舐めてるのか?」

「そんな、とんでもないですよ。ただ、二百万なんてとても」

「そんでいくら用意できたんだ? やるだけのことはやったんだろうなあ」

 怪我していない方が、俊介の顔を睨み付けながら言った。そのまま自分の顔を俊介のそれの目の前まで近付ける。

「五万円……くらいなら」

「ああっ! 五万? 桁が違うぞ。兄ちゃん」

 怒鳴られた俊介は下を向いてしまう。その肩を男は軽く何度も手で押した。

 速人は見ていられなくなった。

「ちょっといいですか?」

 男は速人の顔をチラリと見たが、無視して俊介を小突き続ける。

「二百万はちょっとやり過ぎじゃないですかね?」

 無視されたが、速人は構わず話し続けた。

「関係ない奴はすっこんでろ」

 怪我した方が睨みながら、速人に向かって言う。

「それともお前が払ってくれるのか?」

 そんなわけねえだろうが。速人は心の中で呟く。

「勘弁してくださいよ。飲んだ席でちょっと喧嘩しただけじゃないですか。そいつも反省してますんで、五万、いや十万出すんでそれでなかったことにしてもらえませんか?」

「十万だあ? お前なあ、横からゴジャゴジャとうるさいぞ。いいから黙っとけ。俺らはびた一文まける気はないからな。俺は腕を骨折してるんだ。仕事も一、二ヶ月は出来ないだろう。その分も考えたら二百万は妥当なんだよ」

「へえ、そうなんですか。一、二ヶ月で二百万稼ぐって凄い高給取りなんですね。そんな風には見えないですけどねえ」

 茶番に飽きた速人が少し挑発する。

 男はその言葉の意味がすぐに理解できなかったらしい。いきなりそんなことを言われるとも思っていなかったのだろう。

「何っ! このガキ。馬鹿にしやがって」

 そう言うと、怪我していない方の腕で速人の顔を殴った。

 避ける必要も無いと思い速人はそれをそのまま受けた。頬と唇に軽く痛みが走る。

 くそっ、やっぱり避ければよかった。

 舌で血の味を感じながら速人は思った。

 そこでそれまで黙って立っていたニコがスッと速人と男の間に入る。

 長身のニコは男の顔を無表情な顔で見下ろしていた。

「何だ? このでかぶつ。やる気か?」

 男は怪我した腕で顔を隠そうとしながら、少し怯えた様子で言った。

 ニコはそれにはまったく反応せずに、速人の方を振り返る。

「こいつら、やっちまっていいか?」

 そう言うと、男の胸ぐらを掴み片手で持ち上げた。

「とりあえず、やめておけよ」

 速人はそう言ったが、掴んだ手を離せとは言わなかった。

 男はジタバタと暴れたが、そのうちに肩から吊っていた包帯がほどけた。男は包帯を巻いている腕も使ってニコに手を離させようと両手をバタバタさせる。

 ニコはそれを見ると男を放り投げた。

「あらま。今、怪我してる腕を使おうとしてましたよね? おかしいなあ。骨折してるんでしょ? 普通はかばうんじゃないかなあ?」

 速人はニヤニヤしながら、座り込んだ男に向かって話しかけた。

 俊介は口を開けてその様子を見ていた。

「てめえ、俺らにこんなことしてどうなるかわかってるんだろうなあ?」

 もう一人の男がニコに放り投げられた男の元に駆け寄りながら言った。

「それは知らないけど、腕の怪我が嘘だってのはわかりましたよ」

「このガキ! 殺してやる!」

 そう言って速人に襲いかかろうとしたが、またもニコが速人の前に立つ。

 軽く顎を掴むと、再び片手で持ち上げる。

 チラリと速人の方を見るニコ。

 速人は笑って頷いた。

 ニコは男を地面に投げ捨てる。

「八尋、やばいって。俺、免許とか取られちゃってるからさ」

 俊介が速人の耳元で囁いた。

「そうだったな。返してもらわないと」

 速人は地面に倒れている二人に近寄り、そこで座り込んだ。

「というわけで、こいつから取ったものを返してもらえませんか?」

 その二人は憤怒の表情だが、ニコの怪力を見せられた後なので大人しく黙っている。

「しょうがないなあ。ニコ、お二人さんにはもう少し空を飛んでもらおう」

 速人は満面の笑みを浮かべ言った。

 ニコが一歩、前にでる。

「ちょっと待て、今は持ってねえ」

「ニコ、今度はもう少し長距離で頼むわ」

「本当なんだ。事務所に保管してある」

 速人は立ち上がり、少し考える。

 こいつは困った。取りに行かせるか? いや帰ってくるわけがない。

 俊介の身分証明書が何に使われるかわかったもんではなかった。

 となれば選択肢は一つしかなかった。

 行くしかないか。

 出来れば一生、近寄りたくない場所だが仕方がなかった。

「取りに行くしかないな」

 ニコに向かって言うと、俊介は目を丸くした。

「お前、何言ってんだよ。そんな怖えとこ絶対に行きたくないぞ」

 俊介が抗議の声を上げるが、ニコは何事もないように頷き了解の意を示す。

「このままだとお前、大変なことになるぞ。いつのまにか借金まみれとかさ」

「ああーっ、どうしてこんなことに。俺のバカ、大バカ」

 俊介が天を仰いでいる。

「さあ、お二人さん。案内してもらいましょうか」

 繁華街から少し離れた場所にその建物はあった。

「大賀明日組」と書かれた看板が目を引く。二階建ての何の変哲もない小さな建物だが、どこか他の建物とは違う雰囲気を醸し出していた。

 入る前に速人は念のため、親友の福永達也にラインのメッセージを入れておくことにした。置かれている状況、これからすることを簡単にまとめて送信する。

 一人くらい話がわかる人がいればいいなあ。

 速人はそんな楽観的な考えを持っていた。

 ニコが一緒にいることも大きい。最終的にはどうにかなるだろうと思っている。

「さて、大丈夫なんでしょうかねえ」

 速人はまるで緊張感の無い声で言った。

 俊介に頼まれた時はとても嫌な気がした。

 公園に立つ二人を見た時も関わったことを後悔した。

 しかし事態がこうなった以上、速人はすでに恐怖や後悔を感じていない。

 俊介の物を取り返し、無事にここから抜け出す。そのこと以外は考えても無駄だとわかっていた。

 案内した内の一人、怪我をしていない方が建物の入り口にあるインターフォンを押す。

「関川です。ちょっと問題がありまして。はい、石橋も一緒です」

 少しのやり取りの後、ピーっと音が鳴りドアが解錠される音が聞こえた。

 二人が先に入り、速人らはその後に続く。

 ドアの先は階段でとても狭かった。大人が一人歩くのが精一杯の横幅しかない。

 ニコなどは少し斜めにならないと歩けないくらいだ。

 なるほど。一気に攻め込まれない工夫か。

 速人は狭い階段を登りながら、場違いな感心をしていた。

「うちの若頭はな、こえーぞ。地獄から帰ってきた人だからな。覚悟しとけよ」

 さっきまで大人しかった関川が急に元気を取り戻し、速人らを脅してくる。

「地獄だってさ、怖い怖い」

 速人が軽口を叩くと、俊介が慌てて速人のTシャツを掴んだ。

「やめろって。きっと刑務所とかのことだぜ」

 小さな声で囁く。ニコは口を歪めるだけで何も言わない。

 その階段を登り、また扉がある。

 先に行った二人が何か言うと扉は開いた。

「ちっと、ここで待ってろ」

 中には数人の男が速人たち三人を睨み付けていた。ただ見ているだけかもしれないが、それでもその威圧感は尋常ではない。

 奥から怒鳴り声が聞こえてきた。

「なんだとっ! そんなくだらねえことで事務所に連れてくるんじゃねえ」

「いや、だってやつらうちのこと舐めてやがりまして」

「舐められてんのはてめえらだろうが。仕方ねえ、奥へ連れて来い」

 二人はドヤ顔で戻ってきた。

「おい、てめーら、兄貴が話してくれるそうだ。ついてこい」

 速人らは言う通りにする。

 奥に向かって歩いていくと、男が立っていた。

 窓の外を眺めているのか、背を向けているのでその男の顔は速人たちからは見えなかった。タバコの煙を窓に向かって吐き出している。立派なスーツを着ていてさっきまでの二人とは明らかに身分が違うようだった。

「随分と威勢のいい兄ちゃんたちらしいな」

 その男は背を向けたまま話しかけてきた。

「いや、ただこいつの免許とか返してもらいたいだけですよ」

 速人は男の背中に向かって返事をする。

「事情は何であれ、うちのもんと揉めたらしいな。随分と舐めたことしてくれるじゃねえかよ」

「別に舐めてないですよ。ただ何となくそんな感じになっちゃっただけで」

「のこのこと事務所に来るってこと自体が舐めてるってことじゃねえか!」

 そう言って怒鳴りながら男は振り向いた。

 男はさらに恫喝しようとしたようだったが、途中で目の色が変わる。

 速人も記憶の中が刺激された。

 あれ? こいつって。

「八尋軍曹じゃないですか!」

「博か。高代博だろ、お前」

 速人の目の前にいる男、高代博は以前、髪の毛を短く刈り揃えていた。今は首の半ばあたりまで髪を伸ばしている。後ろ姿が全然違うのも無理はなかった。

「ニコさんまでいるじゃないすか。お二人ともお久しぶりです」

 そう言って博は頭を下げる。

 高代博。速人とニコは海兵隊にいた頃、この男と同じ部隊にいたことがあった。彼の階級は上等兵で速人の分隊の一員だった。

 カニの化け物から世界を守った戦いに一緒に従軍したのだ。ちなみにその戦いはクラブ戦役と呼ばれている。

 一度、彼はクラブのタコ足に捕まり死にかけたことがあった。その時、速人が遠距離射撃でクラブの急所を撃ち抜きその化け物を倒した。そして倒れている博を抱きかかえて安全な場所まで運んだのがニコであった。

 年齢は速人の二つ上。二十七歳だ。階級がすべての軍隊では年など関係なかったが、復員した後でも年齢より階級を重んじる兵士は多い。

「いやあ、まさかこんなところでまたお二人に会えるとは」

「俺もびっくりだよ。その年で幹部さんとは大したもんだ」

「久しぶりだな」

 ニコの言葉はいつものように短いが、その口調から速人にはニコが喜んでいるのがわかった。

「はい。ニコさんもお元気なようで」

 俊介は事態に付いていけず口を開けて、ただ突っ立っている。

「でさ、こいつの免許証とかなんだけど……」

「ああ、そうでした。おい、関川。すぐに返してやれ。全部だ」

 関川と呼ばれた男は例の二人組のうち、怪我をしていなかった方だ。

 関川は何が起こっているのかわからない様子だったが、博に言われるとすぐにどこかへ消えていった。

 すぐにビニールケースを一つ持って戻ってくる。それを俊介に渡した。

「何か足りない物はあるか?」

 博が俊介に向かって尋ねる。

「大丈夫みたいです」

「兄ちゃんには迷惑かけたな。これで勘弁してくれ」

 そう言って博は自分の財布を取り出し、そこから無造作に一万円札を何枚か取り出した。それを俊介に向かって渡そうとする。

「いや、もらえないっすよ」

 首をブルブルと振る俊介。

「いいから、いいから。取っておいてくれよ」

 俊介はチラリと速人の方を見た。

「大丈夫だと思うよ。もらっておけば?」

「じゃあ、すいません。ありがたく」

 そう言って俊介は、賞状でも貰う時のように背筋を伸ばし、両手でそれを受け取った

「それじゃあ、兄ちゃんはもう用は無いよな。こんなところにいるのも気分よくないだろ。帰っていいぞ」

 博の言葉に俊介の顔がパッと明るくなる。

「それじゃあ、すいません。俺はこれで」

 そう言って来た時とは正反対の弾むような足取りで出口へ向かって歩いていった。

「じゃあ、俺たちもこれで帰るわ。会えてよかったよ」

 速人にしてもこの場所は決して居心地のいいものではない。意外な旧友との再会はあったが、さっさと帰りたいというのが本音であった。

「いやいや、何をおっしゃいますか。せっかく久しぶりに会ったんですよ。今夜は帰しませんよ」

 博はそう言ってニッコリと笑っている。

 ニコの方を見ると苦笑いしている。

 俊介が出ていく音が聞こえた。

「誰か冷たいもんでも出せや。気が利かねえやつらめ」

 すぐに冷たいお茶が速人とニコと博の前に出される。

 少し話をしていると、博が速人の唇の傷に気が付いた。

「口のとこ、どうしたんですか? もしかしてうちのもんが……」

「いやあ、さっきね。ほんのちょっと。全然、大丈夫だよ」

 速人は軽い気持ちで言ったのだが、その言葉をすぐに後悔することになる。

「関川! 石橋! ちっとこっち来い」

 名前を呼ばれた二人組がすぐに現れる。

「てめーら、八尋さんに怪我させたみたいだな。おう?」

 二人は下を向いて黙っている。

 博はいきなり二人とも蹴り飛ばした。無抵抗な二人を踏みつけ続ける。そのうちに耐えられなくなった関川が口を開いた。

「俺じゃないっす。その方を殴ったのは石橋っす」

「石橋。こら、てめー、何したかわかってんだろうなあ」

 石橋は青い顔をして土下座している。腕の怪我はやはり嘘だったようで今では普通に動かしていた。

 博はその石橋の顔面を殴る。吹っ飛んだ先にジャンプキックの追い打ち。

「すいません。すいません。博さん。すいません」

「この野郎、わかってんのか、おおっ? 石橋!」

 博はもの凄い剣幕で石橋を蹴り続けた。

「あのー、博君。それくらいで……」

 速人が見かねて声をかけると、博はうって変わって笑顔を速人に向ける。

「まだまだ、こんなもんじゃすまねえっすよ。てめえ、どうやって落とし前つけるんだ、こら」

 そう言って靴で石橋の顔を小突く。

 まずい。このままだと指がどうのとか言いそうだ。

 そんなものもらっても気持ち悪いだけだ。

 速人は何とか博に落ち着いてもらいたかった。

「いやね、落とし前とかさ、そういうのいいから。もう許してあげて」

 博は少しの間、速人の顔を見たがやがて納得したように頷いた。

「ええ、わかりました。昔から八尋さんは優しかったですもんね」

 内心で安堵しながら速人は早くこの場から立ち去らなければとあらためて思った。

 そしてしばらくの間、三人で思い出話に浸っていると、一人の組員が近付いてきた。

「お話中、すみません。おやっさんのお帰りです」

「親父か。二人ともすみませんね。ちょっと出迎えてきますんで」

「そしたら、俺たちもこれで」

「いやあ、ちょっと待っててくださいよ。親父にも紹介したいですし」

 そう言って博は席を立った。中にいる男たちもみなぞろぞろと外へ出ていく。

 その事務所の中には速人とニコの二人だけになった。

「親父って言ってたよな。博の〝お父さん〟……じゃないよなあ?」

「みんなの〝お父さん〟みたいだからな」

 ニコにしては珍しく、軽口を叩いた。

 はあ。早く帰りたい。

 速人は溜息を付きながら、勝手に帰るわけにもいかずにその場で座っていた。

 そのうちに男たちは戻ってくる。

 場の雰囲気が微妙に変わっていくのを速人は感じ取っていた。

 博が初老の男性を連れて戻ってくる。

「こちらがそのお二人です」

 博が敬語で話すと、その男性は大仰に頷いて速人たちを見た。

「八尋さん、ニコさん、うちの親父です」

 速人たちは紹介されたので、すぐに立ち上がり頭を下げた。

「わしは車井寅八郎というもんです。今回はうちの若いもんがえらい迷惑をかけたみたいで。ぼんくらばかりなんで勘弁してやってください。それとうちの博が戦地で随分とお世話になったみたいですな」

 そう言って寅八郎親分は頭を下げた。

 これには速人もびっくりして慌ててしまう。

「いえいえ、とんでもないですよ」

「それにしても、お二人ともいい顔をしてなさる。博からいつも聞いてましたよ。二人とも最高の兵士だったって。博も近頃の若いもんにしては珍しく肝がすわった男です。それで、わしも目をかけてるんですが、その博がそこまで言う男ってのはどんなもんかと思ってたんですがねえ。今日、お二人を見て納得できましたわ」

 そう言って寅八郎親分は一人で納得して頷き続けている。

 これには速人もニコも恐縮するしかなく、ただ曖昧に笑って頭を小さく下げるだけだった。

 それから一時間ほど、博が従軍していた時の話などをして過ごした。

 速人たちは殊更に博を褒めあげ、親分を喜ばせた。

 聞けば末端の構成員だった博は男を磨くために海兵隊に入隊したという。

 そして前線で戦い、無事に帰ってきた時、ちょうど当時の若頭が一本立ちして新しい組を立ち上げることとなった。

 そして寅八郎親分は戦場から帰ってきた博を若頭に大抜擢したという。

 話が一段落した時、そろそろ頃合いだなと速人は思った。

「それじゃあ、今日はありがとうございました。そろそろ失礼いたします」

 腰を上げて一礼する。ニコも続けて同じ動作を繰り返す。

「ちょっとちょっと。お二人ともそれはないっすよ」

 博がそう言うと、親分は近くにいる組員を呼んだ。

「おい、店を用意しとけ。客人をもてなせるような綺麗どこがたくさんいる店だぞ」

 言われた組員は飛ぶようにその場を離れ、携帯でどこかへ連絡し始める。

しばらくして先ほどの組員が電話を手で抑えながら戻ってきた。

「仲西の叔父貴の店が貸し切れるそうです。女も用意できるっておっしゃってます」

「兄弟のところか。あそこなら最高だな。よし、手配しろ」

 親分は満足げな顔をして速人たちを見る。

「そういうわけでしてな。博の恩人をもてなさずに帰ってもらうわけにはいかんのですよ」

 うおお、この人たちと飲みに行くのかよ。

 速人は天を仰ぎたい気持ちだったが、こうなっては断れない。

 すぐに車が用意され、店に向かう。

 速人はスモークが張られたベンツに生まれて初めて乗った。

 目的地にはすぐに到着した。

 予想と違って小綺麗な店で、今風のクラブといったところだ。

 速人は場末のスナックとかを予想していたので少しだけ驚いた。

 入り口のドアを開けると中にはもう一つドアがあり外国人のドアマンが二人立っている。

「マット、マウロ、久しぶりだな」

 博がそう言うと、二人はニヤッと笑いドアを開けてくれた。親分と速人たち、そして付いてきた組員がぞろぞろと店に入っていく。

 店の中は控えめな照明が絶妙な雰囲気を作り出し、十人ぐらいのホステスが手を振って出迎えてくれた。中にはかなり際どい格好の女性もいる。

「おう、兄貴。急だったからこんなもんしか用意できなかったぞ」

 そう言って歩み出て来た男はまさしく〝本物〟だった。

 うわー、絶対この人、イケイケってやつだよ。

 速人はそれを確信する。その男は口髭を生やし、少し薄くなった髪はオールバック。目の上に傷があり、その眼光は鋭かった。葉巻をくわえていないのが不思議なくらいだ。

「兄弟、すまねえな。これで充分だ。なあ、博」

「いつもすみません、叔父貴。お世話になります」

「なあに、お安い御用だぜ。それでその二人が例の?」

 博は頷き、速人らにその男に紹介する。

「こちらは仲西さんといって、うちの親父の兄弟分にあたるお人です」

 紹介された仲西は速人とニコをジッと見る。

 いや、マジでこえーって。

 流石の速人もこの男の放つ威圧感には平常でいられない。

 しばらくして仲西はニヤッと人懐っこそうな笑顔を見せた。

「はっはっはっ。博から噂は聞いとるよ。二人ともかなりやりそうだのう。博はわしも目をかけとるんじゃ。まあ、今日は楽しんでってくれや」

 豪快に笑いながら、後ろを振り向き女たちに向かって指図し始める。

 そのうちに仲西は例の石橋の顔に気が付いた。

 石橋は博に散々、殴る蹴るの暴行を受けたので顔は腫れ上がり、気落ちした顔をして下を向いていた。

「おう、石橋。そのツラぁ、どうしたんだ?」

「すいません。ちょっと下手うちまして」

「あっ? 何があったんだ。おい、誰か教えろや」

 すると組員の一人が仲西に耳打ちする。

 仲西は静かにそれを聞き終えると石橋に近付いて行った。

 おもむろに石橋の体が吹き飛ぶ。仲西が石橋を蹴り飛ばしたのだ。

「てめえ、博の恩人に手をあげただあ? このクソガキが」

 そう言ってさらに倒れている石橋を蹴り上げる。

 哀れな石橋は事務所の時と同じように土下座をして謝り続けた。

「すみません。勘弁してください。本当にすみません」

「あのー、俺のことなら全然気にしてないんで。その辺で……」

 速人は石橋があまりに可哀想になり、後ろから仲西に声をかけた。

「あっ、すっこんでろ、この野郎!」

 言った後、仲西は相手が速人なのに気付き、石橋を蹴る足を止めた。

「客人だったかい。怒鳴ってすまんかったな。仕方ねえな。石橋、今日はこのくらいで勘弁してやる。これから気を付けろよ」

 石橋はペコペコと頭を下げ続ける。

 仲西はその石橋の腕を掴み立ち上がらせた。

「もういいからよ。てめえも飲めや。なっ?」

「はい、すみませんでした」

 石橋はほとんど泣きそうな顔をしている。完璧に平身低頭という状態だ。

 それからは飲めや、歌えやの大騒ぎ。

 見た目は怖いが仲西はとても面白い男で、場を盛り上げる方法を熟知していた。

 言い含められているのか、女たちも速人とニコに群がり、胸や体を押しつけてきては挑発を繰り返す。

「誰か気に入ったのがいたら、言ってくださいね」

 途中で博に耳打ちされたが、速人はいわゆる性的不能なのでその必要はなかった。

 元々、酒に弱い速人は寅八郎親分や仲西のすすめる酒を断れずに飲み続けた結果、かなり酔っ払ってしまった。

 ニコはいくら飲んでも酔わない。

 それを見て仲西が飲み比べを挑んだがニコの圧勝に終わる。

 そして宴も終わりを告げ、速人たちは研修所に帰ることとなった。

「博、客人をお送りしろ」

 親分の言葉を聞いた博は何かを考えているような仕草をする。

「おやっさん、うちの車では送らない方がいいですよ。お二人にも立場があります。タクシー呼びましょう」

 速人は聞こえてきた博の気遣いを有り難く思った。

 確かに黒塗りのベンツで研修所には帰れないよな。

「それじゃあ、客人。またなんかあったら気軽に寄ってくれよな」

 仲西は上機嫌で速人らに向かって言う。

 速人はホステスに囲まれていたが、それをかき分けて仲西に頭を下げた。

 ニコは仲西に肩を組まれて苦笑交じりの表情をしている。

 仲西はかなりニコのことが気に入ったようだった。

「いやあ、今日は楽しかった。八尋さんも田上さんも元気でな。何かあったらわしに相談してくれや」

 親分の有り難い言葉に速人もニコも姿勢を正し、お礼を言った。

「タクシーが来ました」

 散々な目にあった石橋が腫れた顔をしてそれを告げる。

 博が立ち上がるが、速人は手で制した。

「見送りはいいからさ。親分さんのところにいなよ。今日は会えて嬉しかった」

 そう言って速人は両手を広げる。博も同じようにして二人は抱き合った。片手でお互いの背中を強く叩く。

 ニコと博も同じことを同じようにした。

「俺も嬉しかったですよ」

 博はそう言ってから、石橋に一万円札を渡した。

「よし、石橋。運ちゃんに金を渡すのを忘れんなよ」

「はい、兄貴」

 そして速人とニコは店の外に出る。タクシーが一台停まっていた。

「どうもすみませんでした」

 石橋が膝に額が付きそうなくらいの角度で立ったまま頭を下げる。

「いや、こっちこそ。何かごめんな」

「とんでもないっす」

 そう言って石橋は運転手に行き先を告げ、一万円札を手渡した。

「じゃあね。ありがとう」

 速人がそう言うと石橋は速人の顔をジッと見ていた。

 何か言いたそうだったが黙ったまま二人に向かいお辞儀をする。

 タクシーが走り始める。

 速人はかなり酔っ払っていた。いい気持ちになり、頭を背もたれに投げ出す。

「ふう、まさかこんなことになるとはなあ」

「そうだな。まさしく予想外ってやつだ」

「随分、あの仲西って人に気に入られたみたいじゃん」

「ああ、うちの組に来ないかって言われたよ」

「スカウトされたか。まあ、お前なら無理もないよな。ドラフト一位ってやつだよ」

 そんな話をしているうちにタクシーは研修所の前に停まった。

 速人とニコは運転手に礼を告げて車から降りる。

 すると研修所の門の付近に仲間たちがいるのが見えた。

 速人は事務所に入る際、親友である福永達也にラインで状況を伝えたのだが、それをすっかり忘れていた。

 しかし俊介が帰ってきているはずである。

 彼の口から事情が話されていれば仲間たちは心配するはずはなかった。

 達也と仁科聡、川井良太という男友達と三上涼子、竹下久美子、網谷彩菜、西川由紀の女友達。さらに速人の恋人未満、上本茜の八人が研修所の門の前で心配そうに立っていた。

 酔っ払った速人が近付いて行くと、メガネの十九歳、西川由紀が駆け寄ってきた。

「八尋さん、大丈夫だったんですか? って、えっ?」

 由紀は速人に近付き顔を見ると、表情が変わった。メガネの奥の目が細くなる。

「何なんですか? それ」

 何故か怒ったような口調で言う由紀。

 他の仲間たちも近くに寄ってきた。

 女性陣はみな一様に眉をひそめている。

 速人には意味がわからなかった。

「茜ちゃん、こんなバカ者は放っておいて部屋に帰ろう」

 三上涼子がそう言って速人に背を向ける。

 言われた茜も呆れた顔で溜息交じりに首を横に振り、それに続く。

 竹下久美子は何も言わずに速人の顔を一瞥した後、同じように背を向けて歩いていく。

「はあー、何か心配して損しました」

 由紀もそんな言葉を残して去って行った。

 網谷彩菜だけは、苦笑いしながらもそこに留まっている。

 達也や他の男友達は速人を指差し笑っている。

 速人が後ろにいるニコを振り返ると、ニコですら笑いをこらえていた。

 一体、何だって言うんだ?

 そこで彩菜がバッグから手鏡を取り出す。

「八尋君さ、ちょっと見てみて」

 そして速人はその鏡で自分の顔を見てみた。

 頬や首筋がキスマークで埋まっていた。

 ホステスたちがやたらとベタベタしてきたのを思い出す。彼女たちはばっちりメイクをきめていた。もちろんルージュもしっかりと。

 ニコの方を睨み付ける。

 知っていて黙っていたのだ。

 ニコは堪えきれずに大笑いを始めていた。

 タクシーに乗った際の石橋の視線を思い出した。

 あいつめ、黙ってやがったな。

 達也らの笑いは一向に収まらない。指を差してゲラゲラと笑っている。

 するとそこに一台のタクシーが停まった。

 そこから降りてきたのは俊介だった。顔を見ると頬が赤く染まっている。酔っているようだった。

「おお、八尋。さっきはありがとうな」

「お前、何してたんだ?」

「いやさ、臨時収入があっただろ? だからちょっとキャバクラでもってさ」

 速人は深呼吸した。

 なるほど、こいつは博から貰った金でキャバ嬢と仲良くやっていたようだ。

 俊介が真っ直ぐに研修所に帰り、達也らに事情を話していれば、みんなが心配して門のところで待っていることも無かったし、速人がこんな目に遭うこともなかったのである。

「ニコ、こいつ始末してもいいかな?」

 ニコは笑いながら頷いた。

 速人は俊介に向かって突進する。

 しかし酔っているのでいつもの快速仕様ではなかった。

「何だよ、やめろよ」

 俊介は驚きながらも研修所の中に向かって逃げ始める。

「待て、この野郎」

 追いかける速人。

 後ろから男たちと彩菜の笑い声が聞こえる。

 こうして速人の旧友との再会は、ただ速人が醜態をさらすという形で幕を閉じた。




 ちなみに涼子と久美子と彩菜、そして一番大切な茜などはすぐに事情を説明したところ、笑いながら速人のことを許してくれた。

 何とか速人は地位を取り戻したが、由紀だけは他の女性たちよりも怒っていたようで、二日ほど口をきいてくれなかったのであった。


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