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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
番外編
53/55

Save the Cat !

 わたしには好きな人がいます。


 その人は今もわたしの見えるところで、友達の物真似をみて静かに笑っています。

 わたしは彼のそんな笑顔が大好きです。

 正直に言うと最初は取っつきにくい人かと思っていました。

 でも、知り合ってみるとそんなことはなくとても優しい人でした。

 その優しさは決して大げさなものではなく、ともするとわかりにくいものです。

 彼はたまに何かを思い出して、ふさぎ込んでいるように見える時もあります。

 そんな時、彼に声をかけてあげたい。

 何か彼の助けになりたい。

 そう思うけれど、それはわたしの役目ではないんです。

 彼にはもう優しさで包んでくれる人がいるのだから。


 わたしは網谷彩菜。

 大学を卒業してS&Sカンパニーという会社に就職して、今は新入社員の研修中。

 研修も半ばを過ぎて、仲の良い友達もできた。

 楽しい毎日を過ごしているけれど、ちょっとだけ寂しい気分もある。

 あーあ、いつもこうなんだよなあ。

 わたしが好きになった人、八尋速人君にはもう相手がいる。

 今はまだ付き合ってないけれど、それは時間の問題だけ。

 しかも相手の女性はわたしも仲良くしている友達で上本茜さん。

 彼女はとびっきり素敵なんです。

 自分の好きな男性の好きな女性。

 普通だったら気に入らない存在なんだけど、彼女に対してはそうは思えない。

 茜さんはわたしより少しだけ年上だけど、その年の差以上に女としての差を感じる。

 彼に対しての愛情を少しも隠さない。

 その表し方がとても自然でわたしにはとても真似できない。

 茜さんは美人だし、とっても優しい。

 茜さんは一人でいることが多いんです。

 でも友達が少ないとかではない。むしろ人気者です。

 呼べばいつでも誘いに応じてくれます。

 こういう研修所みたいなところに来ると、女性にしろ男性にしろ誰かと一緒にいることが多くなりますよね。彼女はそんなことがないんです。群れないというか。

 誰にでも分け隔て無く接して、いつも自然なんです。

 一人でいても寂しそうに見えない。そんなところも憧れてしまうんです。

 しかも彼女と一緒にいて嫌な思いを一つもしたことがないんだよね。

 だからわたしは茜さんのことも大好きです。

 憧れのお姉さん。

 はぁ、どうせなら嫌な人だったら楽だったのに。

 でも、そうだったらそうで腹が立つのかな。

 何にしろわたしの入り込む余地はありません。



 先日、球技大会がありました。

 スポーツの得意な速人君はとてもかっこよかった。

 ちなみにわたしは声に出す時は八尋君と言っている。

 心の中だけは速人君。そのくらいいいよね?

 わたしと一緒にソフトボールに出てくれて、何もできないわたしをずっと助けてくれました。

 ごめんね、茜さん。

 わたしはその日、ずっと彼と一緒にいました。

 何だか嬉しかったな。ずっと横にいるだけで幸せでした。

 でもそれが終わってビールかけが始まる時、速人君は茜さんと何かを話していた。

 顔を近付けて、最後に茜さんが速人君の頬にキスしたように見えた。

 まあ仕方がないんだけど。二人は愛し合ってるから。

 わたしはすぐに速人君を呼んでビールを思い切りかけてあげました。

 その後のビールかけの際、彼を集中的に狙ったのは内緒です。



 さーて、授業も終わったあ。

 流石に一日、机に座っていると疲れる。内容はちんぷんかんぷんだし。

 今晩は何するんだろう?

 そう思っていると由紀ちゃんが近付いてきた。

 彼女は西川由紀ちゃん。

 まだピッチピチの十九歳。速人君の隣に座っているのが羨ましい。

「彩ちゃん、眠そうだね」

 ばれてしまった。最後の方は夢見心地で授業を聞いていたのだ。

「だってつまんないんだもん」

「また補習になっちゃうよ」

 それはとても嫌だ。速人君も一緒に補習ならいいけど、彼は由紀ちゃんが採点の時にインチキをして助けてあげるので常に補習は免れている。

「補習がどうしたって?」

 そう言って近付いてきたのは三上涼子ちゃん。この人はわたしが今まで会った人の中で一番の美人。茜さんも可愛いけど、整ってるって点では涼子さんには敵わない。一見、クールそうだが中身は全然違って男っぽい姉御肌。

 わたしと彼女は最初のテストの時、仲良く一緒に補習を受けた。

 涼子ちゃんわたしより三つ年上で茜さんと同い年。

 おっといけない、彼女の誕生日はまだ来てないからまだ二つだった。

 涼子ちゃんと茜さんは研修所でも人気の二人。

 なぜか涼子〝ちゃん〟で茜〝さん〟になってしまう。

 これはわたしが速人君を好きなのと関係しているのかもしれない。

「ちゃんと聞いてないとまた補習になっちゃうよって由紀に怒られちゃった」

「別に怒ってはないですよ」

「由紀はいいよね。お隣さんが八尋君でさ」

 わたしは複数の意味を込めて言った。

「本当だよね。わたしなんて隣のやつ、くそ真面目でさ」

 涼子ちゃんは顔をしかめて言ったけれど、そんな顔も綺麗だ。

「そう言えば、さっき逸見さんが部屋長は残ってくれって言ってたよね」

 横から落ち着いた声で言ったのは竹下久美子ちゃん。

 久美子ちゃんは二十五歳だと言っていたが、とても落ち着いていて大人っぽい。

 それに頭がよくてテストなんかはいつも満点だ。

 わたしたちはいつも久美子ちゃんに勉強を教わっている。

 この三人とわたしは同じ部屋で研修を過ごしている。

 毎晩、ガールズトークに花を咲かせているけれど、速人君のことは話していない。

 これからも話すつもりもない。

 わたしは部屋長だったので残ることになった。

「先に帰ってていいよ」

 待っていてくれようとする三人に向かって言う。

 たまにある部屋長会議というやつだけど、これは三十分くらいで終わる。

 担当教官である逸見さんから色々な連絡事項が伝えられるだけだ。

 わたしたち部屋長はそれを同室の仲間に伝えるだけ。そんな簡単な仕事だ。

 でもわたしにとっては楽しいイベント。

 速人君も部屋長なのだ。

 そう思って彼の姿を探したけれど、どこにも見当たらなかった。

 彼は授業中、いつも眠そうだし、ぼけーっとしていることが多い。

 だから逸見さんの言ったことを聞いていなかったのだろう。

「あれ? 八尋はどうした?」

 逸見さんが部屋を見回しながら尋ねた。

 ほかの人たちが首を振ったり、知らないと答えている。

「えっと、何か具合が悪いって言ってました」

 咄嗟に嘘をついてしまった。

「そうかあ、それじゃあ仕方ないな」

 逸見さんはそれを聞くと軽く頷いてそう言った。

 よかった。信じてくれたみたいだ。

 そして部屋ごとに割り振られた仕事や、研修内容の変更などが伝えられる。

「網谷さ、悪いけど今日の内容を八尋にも伝えておいてくれないか。あいつが具合悪いなら仁科でもいいからさ」

 会議が終わり、手帳をバッグにしまっていた時、逸見にそう頼まれる。

 もちろんわたしは断るわけがない。むしろ嬉しいお願いだから。



 部屋から出て階段を降りている途中に八尋君の携帯に電話をかける。

 呼び出し音が聞こえるが、彼は出なかった。

 わたしは少し考え込んだけど、すぐに彼の居場所の見当がついた。

 研修所の一階には広間があってソファーなどが置かれている。

 人通りもあるし、そこにはテレビも置いてあるのでよく研修生が集まってお喋りしたりしている。

 そこにあるソファーで彼はよく寝ている。

 色々な人たちがそこを通るのにソファーで堂々と寝ている姿を最初に見た時はつい笑ってしまった。 

 一度、どうしてそんなところで寝るのかを聞いたことがあった。

「夜さ、あんまりよく眠れないんだよ。でもここだと何故かよく眠れる」

 彼の答えの意味はよくわからなかったけれど、それ以上は聞かない方がいい気がした。

 彼がそのソファーで寝ている時、たまに茜さんは近くに座ってそれを眺めている。

 決して起こそうとせず、まるで宝物でも見ているような眼差しで彼の眠る姿を静かに見守っていた。

 その光景はわたしにとっては少し寂しいものだけれど、そんな二人の姿はとても素敵で邪魔しちゃいけないと思った。

 今日はどうだろう? 一緒かなあ。

 広間に出ると、たくさんの人の往来がある。ソファーの近くのテレビではニュースがやっていて何人かの人がそれを見ていた。

 やはり彼はそこで寝ていた。

 スーツの上着とバッグが近くに落ちている。ネクタイを外して、それを何故か首に巻き付けてあるが、脱いだ靴はきちんと揃えて置いてあった。

 公共の場で堂々と眠る彼の姿はやっぱりわたしの笑いを誘う。

 茜さんの姿はなかった。何となくほっとしてわたしはいつも茜さんが座っている場所に腰を下ろす。

 茜さんと同じように彼の姿を眺めてみるが、周りからはどう見られているのだろうか。

 多分、わたしが茜さんを見ているのとは違う気がする。

 どうしてだろうなあ。何が違うんだろう。

 それにしても彼はよく寝ている。

 どうして静かな部屋じゃなく、こんな騒がしいところで寝るのかよくわからない。

 夜に眠れないと言っていたけれど、どうしてなんだろう?

 結局、わたしは三十分以上、ただそこに座っていた。

 あまりに気持ちよさそうに眠る彼を起こす気になれなかったから。

 そんな時、急に周りが騒がしくなった。

 広間から外の通路を見てみると、研修生たちが何かを指差しているのが見えた。

 何かがあるのだろうか。

 どうしようかと思っていると、速人君の目が急に見開いた。

 さっきまですやすやと眠っていたはずの彼は人々の動きを察知したかのようにいきなり目覚めた。

 うわあ、凄い。この人って気配とか感じ取れるのかしら。

「あれ、彩ちゃん。どうしたの? 何かあった?」

 彼はいつもと変わらない口調で言った。今ままで寝ていた人とは思えない。

「わたしもよくわからないんだ。外に何かあるみたい」

 速人君は靴を履いてスーツを羽織った。

「ちょっと見に行ってみよう」

 そう言って彼は歩き始める。

 バッグは置きっ放し。忘れているのか、わざとなのか。

 多分、忘れているんだろう。

 素晴らしい寝起きを見せておきながら、ちょっと抜けている彼はやっぱりとても可愛い。

 わたしは黙って彼のバッグを拾い、後ろから付いていった。

 広間から出て、外に出るとたくさんの人が上を見上げていた。

 今、わたしたちが出てきた建物。

 その建物は隣の宿泊棟と同じ作りで5階建てだ。

 その四階と五階の間くらいの場所に小さな出っ張りがあった。近くには排気口や細いパイプが見える。その出っ張りの部分を小さな白い猫がウロウロとしているのが見えた。

 降りられなくなっちゃったんだ。

 猫はみゃーと悲しそうに鳴いている。パイプや窓枠をつたわってそこまで行ったはいいものの戻れなくなってしまったらしい。

 見ていると、猫は覚悟を決めたように飛び降りようとしていた。

「飛び降りちゃだめよ!」

 わたしはつい大きな声を出してしまう。

 するとその猫は言葉がわかったかのように後ろに下がった。

 わたしは動物にはとても好かれる。特に犬や猫には懐かれる。だからわたしも大好きだ。

 ちなみにわたしは車の免許を持っていない。

 持っていない理由を聞かれるといつもこう答えるようにしている。

「猫とか犬とかが車に轢かれて死んでいるのを見て、何か怖くてさ」

 大抵の人はこんな風に答える。

「そんなの大丈夫だよ。めったに轢くことなんて無いし。気にし過ぎじゃん」

 だけど速人君は違った。

「へぇーそんな理由で免許を取らないやつもいるんだ。たしかに運転しなきゃ轢くことはないよね」

 そしてそう言った後、彼は笑いながら付け足した。

「じゃあ彩ちゃんは一生、自転車だな」

 ええ、それでも構いません。

 でも他の人の運転する車には乗ってしまうわたしには全然、一貫性がない。

 人混みの中から一人の大男が近付いてきた。

 速人君の親友で田上雅夫君。みんなにはニコと呼ばれている。

 彼は無口で無表情だけど、決して冷たい人じゃない。

「猫か。降りられなくなったんだろうな。この高さは猫的にどうなんだ?」

 ニコ君が速人君に話しかける。

「わかんねえ。人間的には確実にアウトだな」

 そこはかなりの高さだった。猫がどのくらいの高さなら平気なのかは知らないけれど、落ちたら無事には済まない気がする。

 そうしているうちに猫はまた飛び降りようとする。

「だめ! 危ないからそこにいなさい」

 また大きな声を出してしまったけど、猫は言うことを聞いてくれた。

「彩ちゃんの言うことがわかるみたいだね」

 速人君がわたしの顔を見て言った。

 そして彼は困ったような顔をする。

 わたしは泣きそうになっていた。それを見たからかもしれない。

「さて、ニコ。どうやればいいかなあ?」

「うーん。難問だな。とりあえず二階に行ってみよう」

 わたしたちは二階の食堂の入り口に向かった。

 速人君は上を見上げている。視線が色々なところに向かっていた。

「仕方ないな。こっから登るか」

「どっちが行く?」

「こいつは俺のが適任だろうな」

 速人君はそう言ってワイシャツを脱ぎ始めた。

 彼らの決断の早さに驚いた。

 短い会話でお互いの意思を疎通させている様子が、どこか普段とは違う彼らの姿を見た気がした。

 下にTシャツを着ている。その黒のTシャツには〝Born To Lose〟と言う文字だけが白い字で書かれていた。

 彼は食堂の入り口の屋根を掴むと、腕の力だけでそこに登った。

 屋根を歩いていき、建物の壁に近付くと、近くのパイプに向かってジャンプする。

 小さな出っ張りや、別のパイプ、窓枠など少しでも手がかかる場所をつたいどんどん上に登っていく。どんな小さなものでも足がかりにして危なげなく進んでいった。

 見る間に猫のいる場所に近付いて行く。

「まったく、あの人は凄えな」

 その声に振り向くと速人君の同室の仁科君がいつの間にかそこに立っていた。

「猫を助けに行ったのか。こないだ言ってたのは嘘だったんだなあ」

「何て言ってたの?」

 わたしは気になって尋ねてみた。

「犬か猫どっちが好きかって話になってさ。『俺は100パーセント犬派だ』って」

 周囲の人のざわめきが大きくなっていた。

 無理もないと思う。その頃、彼は落ちたら大怪我では済まないくらいの高さまで登っていた。

 猫も心配だけど、彼のことも心配だった。

 きっとわたしの顔を見て、助けにいってくれたんだ。

 わたしが胸が苦しくなった。さらに泣きそうになった。

「大丈夫だよ。あれはパルクールって言ってな、俺も速人もその道のプロから教わったことがある。俺もある程度はできるようになったが、あいつは別格だ」

 パルクール? 何のことだか全然わからない。

 そして速人君は猫の場所まで辿り着いた。

 その出っ張りに飛び降りると、猫に近付いて行く。

 猫は毛を逆立てて、怒っているように見えた。

 彼は何かを話しかけているが、猫が彼に近付く様子は全くない。

 しばらくすると彼はポケットからスマホを取り出した。

 わたしのスマホの着信音が鳴る。

「彩ちゃんさ、ビデオ通話にしてくれない? こいつ俺の言うこと聞きやしないんだ」

 彼の言う通りにビデオ通話にすると画面に白い猫の姿が現れた。

「おい、猫。こっちに来い。助けてやっから」

 速人君の声も聞こえる。

 猫は警戒感たっぷりの表情で睨み付けるようにこっちを見ていた。

「だめだ。俺は嫌われてるらしい。彩ちゃん、頼んだ」

 そう言って画面を猫に近付けた。猫の姿が大きくなる。

 わたしは猫に向かって話しかける。

「ねえ、猫さん。この人はあなたを傷付けないわ。助けてあげにきたのよ。だから大丈夫。安心していいの」

 猫の表情が和らいだように見えた。

 恐る恐るだが画面に近付いてくる。そして速人君の手が画面の端から現れた。

 見上げると彼が猫を抱えている。

「こいつめ、彩ちゃんの言うことは聞きやがって」

「速人、そっからどうする気だ?」

 ニコ君がわたしのスマホに向かって話しかけた。

「どうしよう? こいつを抱えて降りるのは無理だろうなあ」

 彼はスマホの画面を下に向ける。

 わたしのスマホに写った映像を見てとても怖くなる。

 目もくらむような高さだった。

「上に窓があるだろ? そこまで行けるか?」

 ニコ君が見上げながら言う。

「行けるか? じゃなく行け、なんだろ?」

 そう言って彼は通話を切った。

 ニコ君はわたしと仁科君を促し、建物に入っていく。五階まで階段を走り抜けた。

「あの窓だ」

 ニコ君が指差した窓に仁科君とわたしは駆け寄る。

 それは透明な硬いガラスでできている大きな窓だった。

 外を見ると、すぐそばに速人君の姿が見えた。

 ちょうど近くにあるパイプにぶら下がっている。

 猫は胸の中にすっぽりと収まっていて、彼の身体にしがみついているようだ。

 仁科君が窓を開けようとしたが、取っ手がなかった。鍵らしきものもない。

 開閉する窓ではなかったのだ。

 わたしが慌てていると、ニコ君は仁科君を呼び隣の部屋へ行ってしまった。

 すぐにニコ君だけが椅子を持って戻ってくる。

 窓に近付き、速人君に向かって椅子を見せる。

 速人君は頷いた後、ぶら下がっている場所から少しだけ横にずれた。

 しばらくするとニコ君の携帯が鳴る。彼はそれに出ると大きな声で言った。

「行くぞ」

 それを聞いて速人君は顔だけを下に向けた。そしてもう一度大きく頷く。

 ニコ君が椅子をガラス窓に叩きつけた。大きな音がして窓が割れる。

 一気に風が部屋の中に入ってきた。

 風の次に速人君が飛び込んでくる。

 わたしが恐る恐るそこから下を見てみると、割れたガラスはほとんどが食堂の屋根の上に落ちていた。それにその窓の下付近には誰もいなかった。

「大丈夫だよ。仁科にみんなを離れさせるよう頼んだ」

 ニコ君が笑いながら言った。

「ミャーオ」

 猫が速人君の胸から飛び出して近付いてきた。

 わたしの体に抱き付くようにしてじゃれついてくる。

「こいつ、絶対にオスだろ。この恩知らずめ」

 速人君はそんな風に言っているけど、顔は笑っている。

 よく見ると首筋に爪痕が残っていた。猫ちゃんがしがみついたあとだろう。

「さて、どう言い訳するかだな」

 ニコ君が割れた窓を見て言った。

「俺は割ってないからな。割ったのはお前だろ」

 速人君は悪びれずに言う。彼の悪戯っ子みたいなこんな表情がわたしは大好きだ。

 ニコ君は渋い顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。まあ、無表情だけど。

 そして二人はニヤッと笑い合った。

「知らんぷりするか?」

 ニコ君がさも名案を思い付いたかのように言った。

「それがいいかも。面倒だしな」

 そんなこと出来るのかな? 

 わたしにはわからないけど彼らはそれでその話を終わらせたみたいだった。



 下に降りると仁科君と茜さんの姿があった。

「あら、可愛い猫ちゃんね」

 茜さんはわたしが抱いていた猫に向かって言った。

 その猫はわたしの胸から飛び降り、笑っている茜さんとわたしとの間で立ち止まった。

 そして猫はわたしの元へ戻ってきた。

 うん、可愛くてお利口な猫さんだ。

「うーん、やっぱり猫ちゃんも若い方が好みかあ」

 茜さんはそう言うが、わたしは由紀ちゃんにだって負けない自信はある。

 相手が犬や猫ならね。

「それにしても速人。何のつもりなの? あんな高い場所にぶら下がって。落ちたらどうするのよ」

 茜さんの言葉は威圧感があるけど、怒ってはいなかった。

 そうなんだよね。いつから見ていたのか知らないけど、茜さんとしては心配だったに違いない。

 でも彼女はまず猫に向かって話しかけた。速人君の姿を見るなり問い詰めたりしなかった。

 きっと茜さんは速人君の無事な姿を見てまず安心したんだろう。そしてもう事は済んでいる。

 だからいきなり怒ったりせずにワンクッション置いたんだ。

 だから怒らないで言えるのだろう。

 速人君は頭をかいて首を傾げている。

「いやあ、俺って結構、猫が好きでさ。気が付いた時には助けに行ってたんだよね」

 わたしと仁科君は顔を見合わせたけど、二人とも何も言わなかった。

 素敵な速人君に素敵な茜さん。

 あーあ、やっぱり羨ましいなあ。

 見ればもう茜さんは微笑んでいるし、速人君はニコ君と何か話している。

 わたしの胸元で猫が鳴いた。

 うん、可愛い猫さんだ。頭を撫でてあげると嬉しそうにしている。

 地面に下ろしてあげる。

「ほら、はやくおうちに帰りなさい。もうあんなところに登っちゃだめだよ」

 猫さんは頷いたように首を上下させ、何度も振り向きながらその場を去って行った。

 わたしの好きな人は「可愛い猫だね」とか「助かって良かった」とかそんな言葉は一切言わずに、もう何事も無かったかのように男友達と話している。

 彼が猫を助けに行ったのは、わたしが悲しそうな顔をしていたからだ。

 でもそれはわたしのことが好きだからじゃない。

 そんなことはわかってる。

 でも、嬉しかったな。

 わたしの恋は実ることはないでしょう。

 いつかこの恋は思い出話の一つになるでしょう。

 人を初めて好きになったわけじゃないからそれくらいはわかります。

 まあ、いつものことです。

 いつかわたしにも素敵な彼が出来るはずです。

 そこまで考えて変なことを思い付いた。

 速人君と茜さんの間に子供が出来たら、そしてそれが男の子だったら。

 きっと素敵な人に違いない。

 その人とわたしが……。

 年の差を考えましょう。わたしは自分に言い聞かせる。

 どうしようもない妄想。

「おーい、おーい、彩ちゃーん」

 気が付くと速人君がこっちを見て呼びかけていた。

「今、どうしようもないこと考えてたろ?」

「な、何が? そ、そんなことないよ」

「なんでどもってるんだよ。別に理由はないけどさ。変な顔してたから」

「何だよお、変な顔って。ひどいなあ」

 うん、今はこれでいい。

 わたしはいつか茜さんのような素敵な女性になり、速人君のような素敵な男性と巡り会う。

 今は実らないとわかっている恋だっていいじゃない。

 好きな人が近くにいる。

 それだけでも素敵なことなんだから。

 猫の声が聞こえた気がした。

 見るとさっきの白い猫が夕日の手前に座ってこっちを見ていた。

 猫の手が小さく上がった。

 ばいばい、猫さん。

 そしてありがとね、猫さん。



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