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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
番外編
52/55

球技大会

 その日、S&Sカンパニー国分寺研修所は歓声と笑い声に溢れていた。

 研修授業の間にあるレクリエーション。研修生による球技大会が行われるのだ。

 開催にあたり若山所長の挨拶があった。

「どんな場においても仲間と協力するということは大切なことです。みなさん、今日は存分にスポーツを楽しんでください。仲間と一緒に勝利を勝ち取ってください」

 チーム対抗で行われるこの大会は各種の競技ごとにトーナメント制で行われる。ソフトボール、サッカー、バレーボール、卓球、そして何故かドッジボール。

 最後に選抜された選手で野球の試合がある。

 順位ごとに配られるビール券の枚数が変わる。ビールの交換所があり、そこで券とビールを交換できる。競技が終わった後、大量のビールを手に入れていればビールかけができるのだ。もちろん普通のソフトドリンクも用意されている。

 男女の区別なしで行われるので、女性が多いクラスは不利になる。そのため、いくつかのクラスでシャッフルが行われた。

「これは楽しくなりそうですねえ」

 仁科聡が周りを見渡しながら言った。

「さあ、どうだろうね」

 八尋速人はそう言いながらも、心は弾んでいた。

 ここ最近は机に座り講義を聞いたり、テストを受けたりでうんざりしていた。

 元来、体を動かすことが好きな速人はこのイベントは願ったり叶ったりだった。

「今日はライバルだな」

 そう言って速人らに近付いてきたのは福永達也だ。その後ろで仁王のように立っているのは田上雅夫、通称ニコ。

「じゃじゃーん。あたしも敵チームでーす」

 ニコの大きな体の後ろから飛び出てきたのは上本茜。

 薄い赤茶色の毛が揺れている。Tシャツ姿なので、飛び出てきた反動で同時に大きな胸も揺れていた。

 今のところ、速人にとっては友達以上恋人未満。

 周囲の人間が速人に言うことは〝ぐずぐずしてんじゃねえ〟だった。

 茜と達也、ニコは同じチームになったようだった。

 速人は仁科、そして元々同じクラスの三上涼子、網谷彩菜、竹下久美子、西川由紀が同じチームだ。

 もう一人、川井良太という仲間がいるが、彼は運悪く他のチームになってしまった。

 この十人は研修中に仲良くなりグループを形成している。

 まずは体育館でバレーボール。

 速人はバレーが苦手だ。トスを上げられてもタイミングが合わない。サーブを打っても軽く打てば何とか入るが、少し力を入れるともの凄い高速サーブが体育館の反対側の壁に激突する。つまりはアウトだ。早々に引っ込み、応援にまわることにした。

 三上涼子の活躍で何とか勝ち進むことができそうだった。彼女は掛け値無しに美しい。モデルのような体型に、芸能人のように整った顔立ち。研修所内の人気ランキング第一位である。ちなみに第二位は上本茜。

 茜のチームは達也が大活躍しているようだ。女性の黄色い歓声が聞こえる。達也は長身のイケメンで女性からの人気は高い。茜も必死になってボールを拾っている。

「あれえ、八尋君でも不得意なスポーツってあるんだ?」

 彩菜が速人の隣に座りながら言った。彼女はそれほど美人な訳じゃないが、常に優しく明るい女性だ。あまり運動神経には自信がないのか、バレーには出ていない。

 同時に行われている卓球の会場へと速人と彩菜は向かった。

 ここでは由紀が、何の偶然か川井と卓球の試合をしていた。

「由紀ちゃん、がんばれー」

 彩菜が大きな声で応援する。由紀は片手を上げてそれに応えていた。

「まさか女の子相手、しかも未成年に本気出さないよなあ」

 速人はわざと川井に聞こえるように大きな声で言った。

 川井が苦笑する。

 結局、僅差だが由紀が勝った。

「ひどいですよ、八尋さん。あそこであんなこと言われたら勝てないじゃないですか」

 さほど怒っていない様子で川井が苦情を言う。

 そのころ、バレーも全試合が終わったようだ。

 速人らのチームは三位。達也らのチームは優勝したようだった。

 バレーをしていた研修生が続々と外のグラウンドに出て行く。

 卓球で勝ち進んだ由紀に激励をして速人らも外に出た。

 次はドッジボールだ。

 速人らのチームからは久美子と仁科が出場した。久美子は小柄で落ち着いた雰囲気の女性で運動神経は普通よりやや上といったところだ。仁科は太めの体型だが意外に俊敏な動きをする。久美子は彼のお気に入りの女性なのでやる気満々である。

 久美子にいいところを見せようと無駄な動きが多い仁科だが、額から汗を垂らし必死に頑張っている姿を見ると、速人は微笑ましくなってくる。

 結局、ドッジボールは準優勝に終わった。

 仁科が久美子とハイタッチしている。

「やばいなあ、わたし何にも出てないや。後はサッカーとソフトボールかあ。どっちも男の子多そうだよね。どうしよう……」

 隣の彩菜が呟いた。何か一つでも出場しなければならないのが唯一のルールだった。

「ドッジボールに出ればよかったのに」

「そのつもりだったよ。でもさ、仁科君が出たいって言うからさ」

 なるほど。速人は事情を理解した。

 彩菜は気配りがよくできる娘だ。久美子と一緒に出たい仁科に譲ってあげたのだろう。そのうちに定員になってしまったというところだろう。

 人が良いってのは色々と大変なことだ。

 速人はそんな彩菜を可愛く思い、何とか助けてやれないものかと思案した。

 すぐに思い付く。

「ソフトボールに出なよ。俺も一緒に出るからさ」

「えー。ムリムリ。ボール取れない」

「そこは大丈夫、安心していいって」

 それでも渋る彩菜に速人は思いきり笑いかける。

 それで安心したのか、彩菜も目がなくなる笑顔でそれに応えた。

「よし! 網谷彩菜、ソフトボールで頑張ります!」

 そう言って速人の前で両手を握り、ポーズを取る。

 そんな姿もとても可愛い。速人は過去に知っていたある人物を思い出し、自然と笑顔が続いてしまう。

「その前に次のサッカー見てこようよ。まだ時間あるし」

「うん! サッカー大好きなんだ。もちろん観戦する方ね」

 サッカー場に行くと、女性の大歓声が聞こえる。

 この会社に入る前にJリーグに所属するあるチームの二軍にいたことのある男がいるようで、その男のプレーに対してのものだった。

 対戦しているのは達也らのチーム。なんとゴールキーパーはニコだった。

 元プロの男は中盤でゲームを支配し、縦横無尽に周りにパスを供給していた。さすがに自分でシュートを放つ気はないらしい。

 しかし攻め込まれてもニコがことごとく防いでいた。好セーブを連発し、ゴールを割らせない。

 目の前に迫られても、まったく恐れることなく相手のシュートを防ぐニコ。

 それを見て速人が彩菜と二人で感心していると近付いてくる人影があった。

「速人、こんなとこにいたんだ。はい、これ」

 茜がスポーツドリンクを渡しながら言った。彩菜にも同じものを渡す。

「ニコのやつ、凄いな。このまま引き分けになるんじゃない?」

「凄いよね。向こうは元プロ選手がいるのにまだ0対0だもん」

「あっ、でもやばいかも」

 彩菜が声を上げるので見てみると、例の元プロが業を煮やしたのか自らペナルティエリアにボールを運ぶ。そして強烈なシュートを放った。

 素人と違ってその速さは桁違いであったが、ニコはそれでも反応した。

 しかし狙い澄ましたシュートはゴールの右隅に決まる。

 驚いたことにニコの左手の先にかすっていたらしく、ニコが舌打ちしたそうな表情でいるのが見えた。

「あーあ、決まっちゃった」

 茜が残念そうに言う。と言っても彼女たちのチームは準優勝。

 他の競技でも上位にばかり入っていたので、かなりの数のビール券を手に入れているはずだ。

「よし、彩ちゃん。そろそろ行くか」

「はい、行きましょう! キャプテン」

 さっき渋っていたのが嘘のように彩菜は元気に言った。

「あら。彩ちゃん、ソフトボールに出るんだ? 部活とかやってたの?」

「いいえ、まったく経験はありませーん」

 茜が不思議そうな顔をしている。

「大丈夫。まあ見てなって」

 速人はそう言って茜の肩をポンと叩いた。




 ソフトボールの試合が始まる。

 彩菜にはライトを守らせた。レフトにしようと思ったが、素人の試合なので打球が飛んでくることの少ないライトにした。経験者が多かった場合はレフトの方が負担が少ない。ライトは三塁への送球もあるし、経験者は左打ちも多い。流し打ちもしてくる。素人はその逆だ。ほとんどが力任せに引っ張る。

 速人はセンターを守った。ライトよりに守備位置をとる。

 そのうちにライトにふらふらっと打球が上がった。彩菜は前に行くのか後ろに行くのか迷っている。速人は彩菜の位置を確認し、打球めがけて走った。ランナーは落ちると思ってすでに走っている。

 速人は滑り込みながらその〝ライト前ヒット〟を〝センターフライ〟に変えた。

 取った後、素早く二塁に送球する。ランナーは戻りきれずダブルプレイ。

 その後も何度かライトにボールが飛んだが、すべて速人が処理した。

 打つ方では速人は全打席でヒットを放った。

 彩菜は速人に言われたとおり、バットに取りあえず当てて全速力で一塁まで駆けた。結果的にすべてアウトになったが、彼女は楽しかったようでずっと笑顔だった。

 試合は結局、6対7で負けたが彩菜も楽しめたようなので速人は満足だった。

 すべての競技が終わり、残すところは選抜者による野球の試合だけとなった。

 チームのみんなが集まって、これまでに獲得したビール券を数える。三十本ほど貰えるようだ。一チームは約四十人なので少し足りない。

 達也らのチームのところに行き、聞いてみると八十本以上貰えるそうで、すでにお祭り騒ぎだった。

 そして各チームから野球経験者や運動神経のいいものが選ばれ、二チームが作られた。

 速人らの担当の教官である逸見がみんなの前に現れ、マイクを握ってあることを告げる。

 その内容は今まで獲得したビール券をこの試合に賭けるということだった。

 どっちが勝つかの簡単な賭けだ。

 もちろん速人は選抜された。同じクラスからは仁科も選ばれていた。

「仁科君、野球やってたの?」

「まあ中学の頃、少し」

 見ると相手チームには達也とニコの姿がある。達也は小学生までしか野球をやっていなかったはずだが、運動神経は抜群だ。ニコは確か中学の途中までだったはず。二人とも侮れない相手だった。

 速人は高校球児だった。それも毎年の目標を〝全国制覇〟とするような高校だ。彼は二年時から不動のレギュラーだった。俊足で強肩のショートストップ。打順は主に一番。残念ながら甲子園には出場していない。二年時も三年時も県予選の決勝で夢破れていた。

「よし全部、八尋君たちの勝ちに賭けよう」

 涼子が何の迷いもなく言った。彼女は美人で一見近寄りがたいが、よく知れば豪快で美人を鼻にかけることのない、どちらかというと男勝りな女性だった。

 涼子が言えばほとんどの男は逆らわない。彼女は女性にも人気があるので自然と涼子の言葉どおりの展開になる。涼子はすべてのビール券を持ち受付に向かう。

 達也たちの方を見ると、茜も大量のビール券を持って受付に向かっていた。

 さて、どんなもんかねえ。

 速人は仁科とキャッチボールをしながら久しぶりに軟式球の感触を味わっていた。




「プレイボール!」

 野球経験者らしい逸見の声で試合は始まった。彼が審判だ。

 速人たちは後攻。慣れ親しんだショートの位置につく。

 仁科がキャッチャーマスクをかぶる。速人たちのチームの投手は背の高い男で高校球児だったらしい。投げる球は120キロに満たないくらいだろうか。

 簡単に二つアウトを取り、三人目。

 バッターは達也だった。歓声が鳴り響く。人気者の達也に対する女性の声だ。

 三球目、達也の振ったバットはボールを鋭くとらえた。

 三遊間を強烈な打球が抜けようとする。

 しかし速人は素早く横に移動し、ボールに向かって飛ぶ。

 吸い込まれるようにグローブに入る打球。

 素早く立ち上がり、一塁めがけて送球する。達也も俊足なのでギリギリでアウト。

 ざーんねんでした。

 速人は心の中で呟く。

「何だよ、そんなの捕るんじゃねえよ。それに何だ、その肩は。このサイボーグ野郎」

 達也が笑いながら大きな声で速人に文句を付ける。

 速人は一番なのですぐにバットを振り始める。

 速人たちに賭けた人々からの声が聞こえてきた。

「何だ、あいつ。すげーじゃん」

「いいぞー、八尋」

「八尋君、頑張ってねー」

 最後の声は彩菜だ。

「負けたら承知しないからね」

 この声は涼子だろう。

 相手チームの方を見ると、茜の姿が見えた。

 表情で何を思っているのかわかる気がする。

『むむむ。少しは手加減しなさい』

 きっとこんな感じだ。

 そして右のバッターボックスに立つ。

 一球目を見逃す。ストライク。

 思ったより球が速い。120キロ後半くらいだろう。

 二球目。外角に外れたボール球だがカーブだった。

 三球目。ストライク。今度はスライダーだ。

 次の球はストーレートだが外角一杯でボール。

 変化球も投げ、コントロールもなかなかだ。

 うーん。これではなかなか打てないだろうな。

 そう思っていると、ピッチャーが振りかぶり、次の球が来る。

 俺以外はね。

 速人はバットを振り抜いた。

 白球はレフトの頭を越え、さらにその先のフェンスを越えた。

 速人はゆっくりとバットを置き、ダイヤモンドを一周する。先制点。

 仁科とハイタッチを交わす。チームの仲間にもみくちゃにされる。

「すごーい」

 彩菜が両手を握り、目をキラキラさせながら声を上げている。

 涼子は隣で何度も頷いている。

 久美子と由紀は顔を見合わせて何か話していた。

 速人は彩菜に向かって片手でガッツポーズをする。両手を振って喜ぶ彩菜。

 攻撃はその後、あっさりと終わる。

 そして次の回の相手の攻撃。

 バッターは四番のニコだった。初球のストレートを強振する。高く上がったボールに、速人は一瞬だけ安心したが、センターがどんどん後ろに下がっていく。そのままボールはセンターのフェンスを越えていった。

 相手側の応援団が一斉に大騒ぎを始める。

「お前、人じゃねえだろ?」

 二塁を踏み、三塁に向かうニコに向かって言った。

 チラリと速人を見て無言で口を歪めるニコ。

 そこから先は両チームともなかなか点が入らなかった。

 速人は次の打席もスリーベースヒットを放ったが、ホームには戻れず。

 仁科はバッティングは全然駄目なようで二打席とも三振。

 達也はライト前にヒットを放ったが、次のニコは投手がビビったのか、フォアボール。

 次のバッターが右中間にヒットを放ったが、中継の速人がストライク返球をして達也のホーム突入を阻止した。

「だぁーくそう。あいつ反則だろ。速人、お前引っ込めよ」

 速人のせいでアウトになった達也が叫ぶ。

 そうして進んだ六回の裏。

 速人の長打を警戒していた守備陣の裏をかき、セーフティバントを決めた速人は内野ゴロの間に三塁に進んだ。アウトカウントはツーアウト。

 速人は三塁から投手と捕手を観察する。さすがに集中力が切れてきたのかピッチャーが警戒している様子はない。キャッチャーも同じで投手に返す球が山なりになったりしていた。キャッチャーからの牽制球も無さそうだと判断する。

 速人はリードを多めにとった。

 ピッチャーが投球しミットにボールが収まる。そしてキャッチャーがボールを返そうとした瞬間、速人はホームに向かって走り出した。サードが叫ぶ声。

 キャッチャーは慌てて投げ返すのをやめようとするが、手から離れる寸前だったので中途半端な強さでマウンドに向かってボールは転がる。

 ピッチャーがすぐにそれを拾い、ホームに投げるが速人はすでにホームに向かって滑り込んでいた。

 ホームスチール成功。

 勝ち越した速人たちのチームはお祭り騒ぎ。

 彩菜などは飛び跳ねて喜んでいる。

 速人はジャージについた土をはたきながら、相手チームの方を見た。

 セカンドにいる達也が速人に向かって死ねと言わんばかりの顔をしている。

 応援の方にいる茜の姿を見付けた。隣にいる女性と何か話している。

 ごめんな、茜。

 速人は笑いながら心の中で思った。

 しかし次の回、先頭バッターが四球で出塁した。

 そして次の打者は何と送りバントをする。

 アウトは一つ取ったが、ランナーは二塁。

 そしてバッターは達也にまわってきた。

 ショートの速人はマウンドに向かう。ピッチャーに声をかけると肩で息をしていて限界のようだった。

 そして投手交代となる。

「ここに来てまた邪魔する気か」

 達也がバットの先を速人に向けながら言った。

 投球練習を始める。

 速人が投げたボールがミットに入った瞬間、ざわめきが起こった。

 130キロは超えている。

「八尋さん、手が痛いっすよ」

 そう言いながらも何とか取っている仁科のキャッチングはなかなかのものだ。

 速人は手首を回す仕草をして、捕手の仁科に変化球を投げることを伝える。

 次はスライダー。最後にカーブ。

 その後、何球か直球を投げる。

 最後に仁科と簡単なサインを決め、準備は完了。

 速人はセットポジションから一球目を投じた。

 内角高めのストレートに達也が空振りをする。

「この野郎め。俺なら当ててもいいとか思ってるだろ」

 速人はそれには答えず二球目を投げる。

 今度は外角へカーブを投げる。

 泳ぐように空振りする達也。

 次はボールになるスライダーを投げるが、これは何とか達也が見逃した。

 もう一球ボールを投げる。何とか達也はバットを止める。

 次に速人が投じたストレートは外角一杯に決まり、達也は手が出なかった。

 球審の逸見の手が上がる。見逃し三振。

 大きな溜息が相手チームの応援席から聞こえる。

 次のバッターはニコ。

 まずは直球と速人は一球目を投じた。

 ニコはそれをいとも簡単にとらえた。大きな当たりがレフト線へ飛んでいく。

 大ファール。もう少しタイミングが変わっていたらホームランだった。

 慌てて捕手の仁科が、マウンドに駆け寄る。

「どうしますか? ニコさんにストレートはヤバいっす。全然、スピード負けしてないっすよ」

 ミットで口を隠しながら仁科が言う。

「だね。変化球でいこう」

 やはりニコのやつは侮れない。

 速人は内心、ヒヤヒヤしながらボールを指で回す。

 サインが決まる。

 カーブをボール気味に投げた。

 ブンという音がして、ニコは大きく空振りする。

 ボールとバットがかなり離れている。

 なるほど。そういうことか。

 速人は勝ちを確信した。

 ニコは変化球を打てない。と言うより直球しか打てないのだ。

 最後はスライダーでも投げるか。

 速人がそう思っていると、達也の声が聞こえた。

「ひきょうものー、男だったらストレートで勝負しろや」

 大きな声で叫んでいる。

 そのうちに相手の応援席からも同じような声が上がり始めた。

 達也は手拍子を始め、みんなを扇動している。

「スットレート!」の連呼。

 お前ら、野球知らねえだろ。

 速人は心中で毒づくが、声は一向にやむ様子はない。

 茜まで一緒になって大笑いしながら叫んでいる。

 こうなると速人は逃げられなくなった。

 大きく息を吐き、渾身のストレートを放った。

 それまでよりも速く、そしてスピンが掛かったストレートがミットへと向かう。

 ニコがバットを振る。

 ガキン。

 大きな音がする。

 そのボールはニコのバットに当たり、そして真後ろに飛んでいった。

 おおーっと歓声が上がる。

 ファールだが速人は焦っていた。タイミングは合っていた。

 再び「スットレート!」の合唱が始まる。

 速人はふと応援席の涼子を見た。

 彼女は速人の視線に気付き、強く頷いた。

 そして速人はあることを思い付く。

 久しぶりだがコントロールできるだろうか。

 投球動作に入り、思い切り腕を振った。

 ニコがバットを振ろうとする。

 しかしタイミングがまったく合わない。

 ニコのバットが空を斬り、それから遅れてボールはミットに吸い込まれた。

 ゲームセット。

 ニコは無言でバッターボックスから去って行く。

 達也がブーブーと文句を言っている。

「遅いストレートだぜ」

 速人は達也に向かって言った。そして思い切り舌を出して笑った。

 仁科とハイタッチする。

「いやあ、ここでチェンジアップとは流石です」

「遅いストレート」

「えっ、チェンジアッ……」

「遅いストレート」

「でも、チェンジアップって変化球じゃ」

「遅いストレート」

「素晴らしいストレートでしたね」

 苦笑交じりで言う仁科に速人は片目をつぶった。



 応援席に行くと、すでに受付から戻ってきた涼子が大量のビール券を手にしていた。

「見てよ、八十本以上になったよ。これでビールかけして、さらに飲むことも出来るわよ! でかした! 八尋君」

 そう言って涼子は抱き付いてくる。

 こんな美女に抱き付かれるのは悪くない。

 速人たちは歓声をあげ、大騒ぎとなった。

 達也たちは残念ながらビールかけはお預けだろう。勝負の世界は厳しいのだ。

 しかし達也らを見ると、同じように騒いでいる。

 妙に思った速人は仁科を伴い、その集団に近付いてみた。

 茜がいるので声をかける。

「茜たちってビール券、全滅でしょ。何で喜んでるの?」

「全部賭けろって言われたんだけどね。あたしの独断で半分ずつ賭けてたの。だからビールかけは出来るんだよ」

 あっけらかんとした表情で茜は言った。

 速人の耳に顔を近付けて、周りに聞こえないような小さな声で耳打ちする。

「だってさ、速人のことも応援したかったし。それにあなたが負けるところなんて想像できなかったんだもん」

 そう言って茜は速人の頬に軽く唇を当てた。そしてすぐに輪に戻っていく。

 汗をかいているのでしょっぱいだろうな。

 速人は自分に対しても照れ隠しをしてそんなことを思っていた。

 それを近くで眺めていた仁科は笑っている。

「まあ何て言うか、ウィンウィンってやつか」

「そうっすね。あっ、でも」

「どうした?」

「川井君が……」

 川井たちのチームを見るとすべてを達也らの勝ちに賭けていたらしく意気消沈していた。

「仕方ない。川井君だけでも救出するか?」

「どうでしょう。仲間を見捨てて自分だけ来ないんじゃないすかね」

「それもそうだなあ」

 そんなことを話していると、二人を呼ぶ声が聞こえた。

「早く来なよー。ビールかけ始まっちゃうよ」

 彩菜の呼ぶ声に近付いて行く。

 するとニヤリと笑った彩菜が手にしたビールを開けた。

 すでに振ってあったらしいビールが勢いよく速人と仁科に襲いかかる。

「うお、ちくしょう。仁科君、こっちも早くビールを」

「はい、ちょっと待って。うわ、やめろって」

 彩菜の他にも涼子などがビールを二人に集中的にかけてくる。

 久美子や由紀の笑い声が響いた。

 幸せな時間。

 髪からこぼれてくるビールが目にしみるのを感じながら、速人は思いきり笑っていた。



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