第5話
朝がやって来て、一日が始まる。これからが研修の本番だった。朝、七時に起床、三十分後には朝食を取り、九時までには全て整えて教室に座ってなければならない。
朝が弱いらしい仁科を伴い、速人は教室に向かう。八時四十五分。時間はまだたっぷりあった。達也は大丈夫なのかと、自分のスマートフォンを一瞥するが思い直す。あいつはあれでしっかりしたやつだ。
教室のそばには、すでに人だかりが出来ていた。何人かから、控えめな朝の挨拶を受けて、二人も同じように控えめに挨拶を返す。昨日、速人が見とれてしまったショートカットの女性はもうすでに席に着いていた。昨日、名前を調べたら網谷彩菜と言う名らしい。前の席の竹本久美子と談笑している。他を見てもほとんどが近くの席の人間と話をしていた。どうやら一夜の過ごし方は、皆一様に同じだったみたいだ。なかにはじっとガイドを眺めたり、石のように座り黒板とにらめっこしてるやつもいるが。
速人の隣の眼鏡の若い女性はすでに席に着いていた。書店で付けてくれる茶色い紙のカバーがかかった本を読んでいた。速人が視線を向けたので、こちらに気付く。おはよう、と声をかけると、消え入りそうな声で、「おはようございます」と言い恥ずかしそうにちょこんと頭を下げる。おいおい、そんなに緊張しなくてもいいんだよ。俺は君を取って食えやしないし、何を隠そう、その手段がないんだ。
ちなみに彼女の名前は西川由紀という。速人は例の座席表で見て知ったのだった。
大活躍の座席表である。
九時近くなり、逸見が昨日と同様、こざっぱりしたスーツ姿で姿を現した。低い声で皆に挨拶をする。さて、お勉強開始と速人は心中で呟く。
昨日とは違い実務的な話が始まる。それによるとこのクラスは金融商品や保険を販売する部門の保全の仕事をする部署へ配属される予定の人間によって構成されていると言うことが判明した。簡単に言えば内部の事務を担当する訳だ。だが、それもあくまで予定であり、色々な研修を経て適正を判断すると言う。研修自体も予定としては一ヶ月だが、最大二週間の延長もありうるらしい。逆に研修中でも各地にある事業所の都合で、急遽、現場に派遣されることもあるのであしからずということだった。補足でほかの教室の配属予定を話してくれたが、それによると達也は営業部に行く未来が待っているらしい。やつにはピッタリだと速人は思った。
早速、研修が始まり逸見とは違う男が入ってくる。保険を専門で売っているという男で、S&Sカンパニーが扱っている保険商品の説明から営業の仕方などを話し始めた。彼によると、伝統的にこの会社は〝交渉〟に非常に強い会社で、短期間で発展してきた理由もそこにあるという。色々な場面で常に自社に有利な交渉をしてきたという話だった。不可能だとしか思えなかった吸収合併の成功例もたくさんあるらしい。多様な会社を吸収合併し、そのよいところを残し、どんどん業績を伸ばしていったという訳だ。各種の営業の場面でもその交渉力は絶大な力を発揮し、時には伝説とされるほどの業績を残した人物も多くいるらしい。商品も大事だしアイデアも大切だが、我が社の本当の財産は社員の持つ人対人の交渉力、つまり君たちが会社の財産になるんだよ、というありがたい話だった。
身体を鍛えて、戦いに備えるという毎日を過ごしてきた速人にとっては、営業と言う言葉は、どうにもピンとこないものだった。広義には顧客との折衝を担当する仕事なのだろうが、どうしてもセールスマンとしての意味しか感じられない。そしてすべてのセールスマンさん、ごめんなさい。本来はそれだけではないのだろうが、欲しくない物を、口八丁手八丁でいつのまにか必要な物だと錯覚させ売りつける。そして毎日のノルマに怯え、一人になると疲れ切った表情で酒をあおる、というイメージしか持てないのである。全く救えないな、とあらためて自分が一般社会に不慣れだと感じる。それだけが仕事じゃないさ、俺みたいな人間でもどこかに使い道があるだろうと思うことにする。
次の講師は、女性でビジネスマナーなどの話が主だった。一般に常識だと思われていても、意外と知らなかったり理解していない人間は、結構いるものだからこれは有用な研修であろう。
速人にしても、ビジネスの場面におけるマナーなどほとんど知らない。
戦闘服を着て、味方を撃たないように戦う方法を知っていてもこれからは何も意味は無いのである。
自分が世の中の事柄について、あまりわかってはいないということだけは充分に感じ研修を受け続ける。ふと周囲を見れば、熱心に聞き入っているやつもいれば、そうでないやつもいて多種多様だ。それで彼は少し気が楽になった。
講師の話を聞いていると、話が二十年前の創業時代に遡っていた。そのころからいかに会社員というものが変わってきたのか、について熱く語っている。考え方、役割、終身雇用から成果主義へ。その講師はどうみても三十代半ばの女性に見えたのので、いかにも自分が体験したような口ぶりに、その頃アンタはまだ中学生あたりだろうがと速人は思わずにいられなかった。もっとも話しぶりに若々しさがまるで感じられないので、案外、若そうに見えてそのころ新入社員だったのかもと思い直す。若作りのマナー講師。それも立派なマナーってやつ。
それなりに話を聞き、それなりにボケッとする。これがこういう時間を過ごすコツ。
そうしているうちに時計の針は進み、午前中の研修は終わりランチタイムになる。
そして午後が始まり同じように過ごす。一日目終了。
速人が思っていたより、楽に終わった。今後もこのくらいであって欲しい物だと彼は祈った。
最後にクラスの担当である逸見が教室に入ってきた。木曜日の夕食後に実務棟にある会議室に集まり、自己紹介を兼ねてクラスの役職等を決める時間があると聞かされる。学級委員でも決めるつもりなのかと、冗談半分に速人が思っていると、本当にそういう話だという。
まあリーダーシップがある人間を探すのが目的なのだろう。自分には縁の無い話だと決めつけ、もう一つの自己紹介という言葉に思い至った。
さて、どうするべきか。
速人は声高々に自分は帰還兵でカニと喧嘩してましたと喧伝したくなかった。別に引け目を感じているわけではないが、極端な例として、帰還兵=犯罪者予備軍と思われがちな傾向もあったし、なによりその逆が嫌いだった。クラブと戦ったの? すごーい、カッコいい、みんなのために命をかけたのね、etc……。まあ適当なこと言ってやり過ごそうと決める。
昨日、浴室でわざと仁科に腕のタトゥーを見せたのだが、ありがたいことに特にその後、何の質問もなかった。自分から話そうとしない限り聞いてはこないのだろう。まだ少しの時間しか過ごしていないが、かなりいいやつなんじゃないかと思っていた。
時には苦も無く男同士の本性はわかるものだ。
逸見が解散を告げたので、帰ろうとしたとき、あることに気付いた。
会社側、つまり逸見は俺の書類を持ってるだろう。つまり俺の個人情報はほとんど知ってるか、調べればわかるに違いない。あまり派手に嘘をつくのも考え物だ。まあ、いい。どこまで話す必要があるのかなんて自己紹介が始まらない限りわからない。まさか一番最初ってことはないだろう。それに今日は火曜、まだ二日ある。
どんな経歴を作ろうかなと悩みながら、速人は仁科を伴い自室に戻った。