第46話
煙でむせそうになるのを我慢しながら速人はそこでじっとしていた。薄く目を開けるととニコも同じように全く動かない。二人は死んだように階段の踊り場で倒れていた。
クラブ戦役において速人たちはカニの擬態に苦労させられた経験があった。クラブがハサミとタコのような足を地中に潜り込ませじっと動かずにいると遠目には生きているのか死んでいるのかわからないのだ。土や砂で覆われていると岩にしか見えない場合もあった。
わざわざ金井の死体を炎が舞う部屋から通路に引きずり出したのも、少しでも敵の注意をそらすためである。ただでさえ建物の中は煙で溢れている。火災も現在進行形で広がっているので、その建物の中にいる焦燥感も感じているだろう。事実、若山ともう一人の男は踊り場で死んだ振りをして伏せている速人たち二人に全く警戒心を抱いていないようだった。
二人が小走りに階段を駆け上がる。速人とニコを踏まないように踊り場では少しだけ歩くスピードが落ちた。速人らは上へ向かう階段の方を頭にして伏せていた。速人とニコの顔の間に若山の片足が踏み下ろされる。もう片方の足が階段の一段目を踏みしめた。すぐにもう一人の男が同じ道をなぞるように続いた。
速人が目を開くと、ニコも同じく目を開けていた。次の瞬間、二人は右手でナイフを握りしめ、左手と両足で床から跳び上がった。停止した状態から素早く動くことはかなり難しい。しかし二人は可能な限り素早く、そして音を立てず動いた。
ニコは自分たちから近い男、若山に付いてきていた方に向かって襲いかかった。男が振り返るより早くニコの太い腕が男の首にまわされる。そのまま腕で顎を押し上げ、露わになった首筋をナイフで切り裂いた。
同時に速人は若山に向かって襲いかかる。ニコが襲った男よりほんの少しだけ前にいた若山にはその距離の分だけ奇襲を避ける時間があるはずだった。異変を感じ、瞬時に若山は上に向かって跳ぼうとする。
しかし、元々僅かなその時は速人の俊敏さによってさらに削られていた。その結果、本来なら空を斬るはずだった速人のナイフは若山の右太ももの裏に突き刺ささる。その状態でも若山は上に逃げようとした。相手が逃げようとしているのを感じた速人はナイフを持つ右手に力を込める。上に逃げようとする力と速人の右手の力が合わさり、ナイフは太ももの裏から膝の裏、ふくらはぎ近くまで一本の線を若山の足に刻んだ。
叫び声をあげながら若山は中途半端に少しだけ跳び上がり、階段の上に顔から落ちた。それでも憤怒の表情で懐から拳銃を取り出したが、速人が素早くその手を蹴り飛ばす。銃は音を立てて階段を落ちていった。
速人とニコはすぐに拳銃を取り出し、若山に向ける。いくら銀のナイフでも足に突き刺したくらいではこの化け物どもが行動不能になることはないことはわかっていた。
しかし速人が若山に与えたダメージは予想外に大きかったようで、若山は階段に倒れたまま動けないようだった。切り裂かれた足からは白煙が立ち昇り、忌々しげにそれを見ている。
「待て、頼むから待ってくれ」
若山が苦しげな声で速人らに向かって言った。
「わたしには何が起こっているのかわからない。どうして君たちは……」
このおっさん、自分は何も知らないってか。
「とりあえず話を、話をしようじゃないか」
速人は銃を向けたまま、ニコに向かって顔だけを向けた。ニコも同じように速人に向かって首だけを動かし顔を向ける。二秒ほど二人は顔を見合わせ、同時に若山に向かって振り向いた。
速人の四十五口径とニコの持つリボルバーから同時に銃弾が発射される。二発とも若山の頭部に命中し、力の無くなった頭が前に向かって崩れ落ちた。
「あんたと話すことは何もないよ。所長さん」
速人が動かなくなった若山に向かって言った。
「さて、お前の予想は当たっているかな?」
ニコは言いながら自分が倒した男の懐を探る。ズボンのポケットに手を入れるとすぐに目当てのものが見つかった。ヘリの鍵と思われるものを指でつまんで速人に見せる。
速人はそれを見てニヤリと笑った。若山がボスであることから、一緒にいる男はヘリのパイロットではないかと予想していたのだ。鍵が無くてもニコが何とかすると思ったが、ヘリは車とは違う。時間がかかるのが問題だった。
ニコはなおも死体を調べ続け、その男と若山が持っていた全ての鍵と二人の持っていたスマホをポケットに詰め込んだ。
とりあえずはうまくいった。後は屋上へ行ってヘリを発進させて逃げるだけだ。
速人はそばに置いてあったM4を拾い上げる。ニコも同じようにAKを拾い二人は階段を駆け上がっていく。達也らはもう屋上で待っている。
三階と四階の間にある踊り場に着いた時だった。速人もニコもその気配を感じ取り立ち止まる。
何者かが下の階にいる。相手も速人たちに気が付いたのか動きが止まっていた。燃えさかる炎と巻き上がる煙。決して無音の世界ではない。だが速人は音のない場所にいるかの如き感覚で階下にいる敵の気配を探った。
そいつはすぐに若山らの死体を見付けるだろう。その次にそいつの取る行動は明らかだ。こちらの存在はもう気付かれている。恐ろしい速さで追いかけてくるはずだ。簡単に倒せるやつだったらそれでいい。しかし涼子に化けていたシフターの例もある。あのレベルの強さだとまともにやってはかなわない。速人は素早く考えをまとめる。
「ニコ、先に上へ行け。俺が少し時間を稼ぐ。プランBだ」
そう言った後、速人は自分の考えた作戦をニコに伝える。時間がないので省略して説明しても速人とニコの間には何の問題もない。少ない言葉でもニコには充分に意図は伝わる。
ニコはすぐに階段を駆け上がっていく。速人は逆にゆっくりと階段を降りていった。手に持つM4のセレクトレバーをフルオートに切り替える。
すぐにそいつの姿が見えた。MP5サブマシンガンを二丁拳銃のように両手で持つその男の顔を速人は知っていた。同じ研修所から来たその男は例の四人組の一人だった。最後に残った一人。
男は若山らの死体のところでしゃがんでいた。速人は三階の通路に面した場所にいる。
二人の目が交錯した。
速人は男の表情から、誤魔化すのは無理だと感じ取った。
男が銃を向けるより前にM4の銃口を向けトリガーを引く。フルオートで発射された弾丸が男が寸前までいた場所ではじけ飛んだ。男は素早く踊り場から下に向かってスライドするように移動し、階段から身を乗り出して速人に向けて銃を乱射してきた。速人もすぐに身を隠しながら、何段か階段を上がる。
そこで銃を構えながら待っていると、男は若山らの死体を飛び越し、今度は二丁持っているMP5の両方から弾をばらまいた。速人は隠れながら銃だけを相手に向けて撃ち返す。何度かそれを繰り返しているうちに弾が切れる。速人は弾倉を素早く交換する。最後の一つだった。
相手もリロードしているのか、銃撃がほんの少し止まる時がある。その時を狙って速人は少しずつ階段を上がっていく。三階と四階の間の踊り場まで来た。相手は二丁のサブマシンガンを撃ちまくり、速人に少しずつ近付こうとしてくるが、その度に速人も撃ち返し一定の距離を保っていた。時に相手は無防備に姿をさらすことがあったが、速人の放つ銃弾は当たらない。
速人は四階まで上がってきた。そこでついにM4が弾切れになる。四十五口径を抜き、相手に向けて発砲する。一発撃つとその後、山のように弾丸が襲ってくる。
もうそろそろいいだろう。
速人は唇を下で軽く舐めて、息を小さく吐いた。おもむろに立ち上がり二発続けて撃つ。相手が素早くそれを避けるのを最後に見て、速人は階段を全力で駆け上がった。踊り場を超え、五階に辿り着く。まったくスピードを緩めることなくさらに走り続ける。
銃声が聞こえたが、すぐにそれが止む。走りながらチラリと下を覗き込むと男も駆け上がってくるのが見えた。もちろん速人もかなりのスピードで走っているが、相手はそれよりも速い。
速人のアドバンテージは少しの距離と少しの時間だけだった。僅かでも相手の速度を緩めようと、下に向かって銃を撃つ。速人の人生で最も恐ろしい短距離走だった。
何とか屋上のドアまで辿り着く。ドアはすでに開かれていた。弾き出されるようにそのドアを抜けると速人は叩きつけるようにそのドアを閉める。
ドアのそばには達也が立っていた。茜たちは少し離れた場所にいる。速人は息を切らしながら達也に頷き、ドアから離れるように促した。速人もドアから離れ銃を構える。
数秒後にもの凄い音がしてそのドアは開いた。駆け上がってきた勢いのまま蹴破ったのか、蝶番が外れドアは空中を飛び、音を立てて屋上の欄干にぶち当たった。
ドアのあった空間に男がそびえ立っている。速人は即座に発砲したが、男は上半身を斜めにそらしそれをかわした。涼子に化けたシフターの時と同じく、正面からはいくら撃っても頭部には当たらないようだ。
男は周りを見渡し、達也や茜たちを見てふんと笑った。そしてヘリを見る。
「ヘリを奪おうとでもしていたか。さすがにそれで逃げられるとまずいところだった。お前らには残念だろうがギリギリ間に合ったようだな」
男がそう言って口を歪めた時だった。銃声が響き、男は崩れるように前のめりに倒れた。ややあって男がそれまで立っていた空間に坊主頭の大男の姿が現れた。
「ギリギリ間に合ったようだぜ」
ニコがリボルバーの銃口を上に向けながら言った。
「焦ったぞ。途中でやるんじゃなかったのか?」
「お前が必死で逃げてるのを見ていたら、つい撃ちそびれちまってな」
速人はそれを聞いて思い切り眉根を寄せてニコを見た。
「冗談だよ。あまりにも動きが速くて撃てなかったんだ。正直、俺も焦ったぜ」
ニコは屋上にまで行かず五階に隠れていたのだった。速人を追いかけてくる敵をやり過ごした後、後ろから撃つ手筈だったが、本来なら途中の階段で始末をつける作戦だった。
屋上には茜たちもいたのだ。彼女らを危険に晒すことがないようにと考えていたのだが、結果的にはニコの言う通りギリギリセーフといったところだった。
とにかくは成功したのだ。速人はニコに向かって笑いかける。
チャンスは一度きりだった。ニコの判断は正しかったと言える。確実に倒せる時を待って、ニコは敵を倒したのだった。無理に途中で撃って外していたらどうなっていたことか。
ニコはすぐにポケットから鍵を取り出しヘリに近付いていく。そんなに大きくはないヘリだが六人なら問題はない。
ニコが操縦席に座るのを見て、速人はドアの吹き飛んだ屋上の入り口から階段へ向かった。下を覗き込むと炎が暴れ回っているのが見える。それでもずっと彼はそこに立ち続けた。撤退する時が一番、危ないことを彼はよく知っている。幸い、誰も上がってくる様子はなかった。
ヘリのローターが回る音が聞こえはじめて、速人は外へ出た。操縦席でニコが手招きしているのが見える。発進の準備は完了したようだった。
速人は頭を下げてヘリに乗り込む。操縦席のニコの肩を叩き、発進を促した。
ゆっくりと機体が上昇する。下を見ると何台かの車が燃えさかる宿舎に集まってきているのが見えた。近くの森から徒歩で宿舎に向かっている人影も幾つか見える。
もう脱出の成功は間違いないのだが、速人は少しだけ苛立ちを感じていた。
それが顔に出たのか、達也が訝しげに速人の方を見る。
「どうしたんだ? まだ問題があるのか?」
「……逸見だよ。あの野郎を仕留め損なった」
速人のその言葉を聞いて、ニコを除く他のメンバーは目を丸くする。ニコはヘリを操縦しているので見えないが、きっと鼻で笑っているに違いないと速人は思った。
速人が苛立っている本当の理由は違うことだった。ニコだけがそれに気付いているだろうと速人は思っていた。確かに逸見は仕留めておきたかったが、そんなことは大した問題ではない。
「お前ってやつはこの状況でそんなことを考えてたのか?」
達也が呆れ顔で言うのを速人は黙って聞いていた。ふうっと息を吐き出し、静かに目を閉じる。
本当なら全員で脱出するはずだったんだ。速人はここにいない仲間たちの顔を思い浮かべる。
茜が隣で寄り添うように座っていた。彼女の手が速人の左手に優しく触れた。そのままゆっくりとさすり続ける。
「もう、終わったんだよ。そうだよね?」
速人は何も言わず、頷いた。彼も理解はしているのだ。達也たちが普通なのだと。やっとこの地獄から抜け出すことができる。今はそれを喜ぶべきなのだろう。しかし速人の精神はそれより一歩先のところへ向かっていた。これは性格だとか知性の問題ではない。経験の有無だけがそうさせているのだ。
生き残った者は、死んだ人々の思い出をずっと抱えなければならない。これからずっとだ。速人にはそれがわかっている。散々、思い知らされてきたのだ。みんなもすぐに気付くはずだった。
誰かが死んだ後の脱出のヘリ。何度も経験していた。何度も傷付いた仲間を抱きしめて叫び続けた。そんな思い出がまた一つ増えたのだ。
今はそれを考えるのをやめよう。後でいくらでも考える時間はある。まさしく無限に。
今は素直に喜ぼう。みんなはまだ麻痺しているが、いずれショックがやってくる。こんなひどいことに巻き込まれたのだ。速人とニコは散々、戦場で味わってきた。笑える時は笑っていた方がいい。
速人は隣の茜に向かって微笑んだ。茜の顔は涙にススが混じって汚れている。速人がその顔を見ていると、茜がいきなり速人に抱き付いた。
「えっと、お客様、他の方の迷惑になりますのでそういう行為はほかでやってもらえませんか」
達也の言葉にみんなが笑う。茜は舌を出して、そのまま速人の胸に顔をうずめていた。
「ねえ、どこか怪我とかしてないの?」
茜が速人に向かって尋ねる。
「全然、大丈夫だよ」
本当のことだった。多少、擦り傷などはあるがほとんど無傷である。
「やっぱりニコ君の言ったことは本当だったんだね」
「何のこと?」
速人は意味がわからず首を傾げたが、茜がニコから聞いたという話をすぐに説明してくれた。
達也たちも興味深そうにそれに耳を傾けている。
その話を聞いているうちに速人は思わず笑ってしまった。
「それってさ、そのままニコにも当てはまるんだよ。俺とニコは同じ部隊だったからね。無傷なのも一緒さ。今までニコが重傷を負っているのを俺は見たことがないよ」
「じゃあ、どっちが不死身なんだかわからないな。よし、今度、確かめてみよう」
達也が悪戯っぽく笑いながら冗談を言うのを聞き、みんなが笑顔になる。
「どっちでもいいじゃないですか。きっと二人ともですよ。ねえ、茜さん」
由紀が茜の方に笑顔を向けながら言った。
「そうね。二人ともそんな感じかも」
「何だ、そんな感じって」
そうしている間に眼下の風景はどんどん変わっていく。黒煙を噴き上げている建物は、今や遙か後方に見えていた。
「じゃあな。このクソ野郎ども」
ニコの口から汚い言葉が吐き出される。ヘリは島を抜けだし海上へと進んだ。
「それで、どこまで飛べばいいんだ?」
しばらくしてニコが誰にともなく言った。
「地図とか無いのか?」
達也は言いながら、あたりを探し始める。すぐにそれは見付かったようだ。
「地図があったぞ。これでいいだろ?」
そう言ってニコに地図を見せるが、ニコの表情は変わらない。
「それでここはどこなんだ? 現在地がわからなければ意味がないぞ」
達也が速人の方に振り返る。速人は首を横に振った。
「そうだよな。ここって一体どこなんだ?」
達也は地図をまじまじと見ていた。何か印とかはないのかとブツブツ呟きながら周囲を見回している。
不意に速人の心に笑いがこみ上げてきた。つい声に出して笑ってしまう。
「なんだ? 笑い事じゃないだろ」
達也が呆れたように言うが、速人はそれでも笑い続けた。
「化け物と戦って、やっと終わったと思ったら次の試練は〝ここはどこだ?〟だぜ。まあ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ニコが何とかするさ。と言うより何とかしろ」
速人の無責任な言葉にニコは頭を横に振った。
「まったくいつも面倒を押しつけやがる。茜ちゃんと抱き合いながらゆったりと座りやがって。すっかりお客さんだな、速人」
「えっ、違うの?」
「もういい。お前は寝てろ」
速人は言われたとおりに目を閉じた。茜の匂いと感触が心地よかった。彼女がいなくなったと思った時のことを思い出す。世界の全てが白黒になり、全てが意味の無いものに変わったと感じた。幸い彼女は生きていてくれた。速人の世界は再び色を取り戻すことができた。
ヘリは真っ直ぐに何も無い青い海の上を飛んでゆく。空は水色に輝いていた。




