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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
第一部
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第3話

 随分とたくさんいるんだな、などと思いながら速人は周囲を眺め回した。目に入るだけで数十人があちらこちらでほぼ同じような行動をしている。もうすでに自分の部屋へ荷物を置き、喫煙所でくつろいでいる集団もいた。


 速人の第一棟は入り口から一番、右端にある。二階部分の通路の真下、日陰になっている薄暗い通路を一人で足早に進んでいく。達也は最後まで文句をつけていた。何の理由かは不明だが第一棟だけ二人部屋なのだ。日頃の行いなのかはわからない。


 入り口の前に辿り着き、速人はこれから一ヶ月を過ごすことになる建物を見上げた。部屋は五〇一号室。最上階だ。階段を登るのがいい運動になりそうだ、とは全く思わなかった。面倒だな、と内心で毒づきながら登っていく。しかも奥から一号室らしく入り口から一番、遠いところに彼の部屋はあった。


 その部屋は綺麗に分割されていた。向かって左右で全く同じものが置かれている。入り口から左右に鍵のついたロッカー、ベッド、机と並んでいる。奥行きは充分にあり、スペースも広い。個人のスペースは著しく狭くなるが四人部屋にも無理すればなりそうだった。達也の顔がチラッと浮ぶ。今頃は天を仰いでいるだろう。荷物を向かって右側のベッドに置く。ここなら隣の部屋はないはずだ。


 速人は部屋の一番奥まで行き、ガラス戸を開けた。ベランダがあり、外に出る。前方には第二棟が見えた。隣の部屋とは胸の高さくらいの薄い鉄板一枚で仕切ってあった。他の部屋にも同じようにベランダに出て外を眺めている人間がいるようだ。


 中に戻り、机に座ってみる。灰皿が一つ置いてあるのを見て、煙草に火をつける。煙草は速人のやめられない悪癖の一つだった。禁煙を試みたことすらない。毎日、草を燃やし納税を続けている。吸い終わり灰皿に押しつけたところでドアが開いた。


「あっ、どうも」


 入ってきた男は頭を下げた。速人は素早く会釈を返す。


 男は両方のベッドを見て、空いている方へ自分の荷物を置いた。身長は一七一センチの速人と同じくらい。全体的に太めだが、不思議と鈍重そうには見えなかった。眼鏡を掛けた顔を見て、咄嗟にある判断をした速人は敬語で話しかけた。


「同室の方ですよね?」


 速人は今年の誕生日がくると二六になるが相手はどうみても三〇代後半に見えた。人生の先輩にはそれなりの敬意を払った方がいいことを速人は知っていた。


「はい、どうもよろしく。仁科聡と言います」


 男は柔和そうな表情で答えた。


「八尋速人です。これからよろしくお願いします」


「とりあえず一服しますか。煙草は、あっもう吸ってたんですね」


 仁科は灰皿に気付き、自分の煙草を取り出した。


 速人は吸ったばかりだがもう一本付き合うことにした。これから一ヶ月、同居することになる男だ。付き合っておいて損はないだろう。


 ここまで来るのが大変でしたね、タクシー拾えました? などと当たり障りのない会話を続けていると、速人の丁重な敬語が気になったのか仁科は年齢の話をしてきた。


「えっと年はいくつですか? 俺は二四です」


 思わず速人は相手の顔、次に体を無遠慮に見つめた後、また顔に目線を戻した。


 目から入った情報全てがその言葉に対して、嘘だ、との答えを出していたが嘘をつく理由がない。


「年下?」


「やっぱり。俺の顔を見て年上だと思ったんですね。まあ、いつものことですが」


「いや、てっきり…ごめん。俺は二五だから一個上だね」


 笑ってごまかす速人に、仁科も笑顔になる。


 速人にはどう見ても年上にしか見えなかった。


「そろそろ集合の時間ですよね。一緒に行きますか」


「そっか。もうそんな時間なんだ。それじゃあ、行こうか」


 そう答えた後、速人はあることを思い出した。早い内に言っておいた方がいいこと。


「一応、年上ってことだから言っとくわ。俺さ、めんどくさいの嫌いなんだ。だから特に年齢とか気にしないし、何か気に入らなかったりしたら普通に言ってね。当分、一緒だし」


 一瞬、仁科は面食らった顔をしたが、すぐに答えた。


「俺もですよ。そう言ってもらうと助かります」


 二人は頷きあいながらロッカーに荷物を入れる。鍵を掛けながら速人は何となく、これから一ヶ月間、この部屋で共同生活することになるこの仁科という男に好感をもった。


 廊下がザワザワとし始めてきた。集合の時間がせまり周りの部屋の人間も動き出したらしい。


「じゃあ、行きますか。確か大講堂ってとこでしたよね」


 仁科が案内書片手に言う。


「入って右手にあったあの建物だよね。とりあえず行ってみようか」


 二人は部屋を後にし、大講堂へ向かった。



 重い荷物を持ち上本茜は、三階までの階段を登った。荷物の重さがさっき出会った二人の男性を思い出させる。いきなり声を掛けてきた二人組。正直、最初はナンパか何かと思ったけれど、二人とも感じがよかったし親切だった。あの二人がいなかったら今頃、まだ歩いていたかもしれないし、疲れ果てていたかもしれない。


 どちらかといえばあまり話しかけてこなかった方が茜は好みだった。少しシャイな感じだったけど。どこか一歩引いた感じの男が好きなのは昔からだ。つい連絡先を渡してしまった。自分にしては珍しいことをしたと思う。渡されたことはたくさんあっても、渡したことはほとんどない。いい男との出会いは大事にしなくちゃいけない、というのは母の口癖だった。まだぜんぜん出会ってないけれど。


 今までの人生で男性に困ったことはなかった。といってもそれは数の問題で、質となるといささか心許ない。茜はいわゆる男好きする女性だった。声はよく掛けられる。


 薄い赤茶色に染めた長い髪、バランスよく整った目鼻立ちだが、垂れ目のせいできつそうな感じが程よく緩和されている。体つきは決して太ってはいないが、痩せているわけでもなく出るとこはしっかり出ている。性格もさっぱりして男っぽいところもありながら、女性らしい優しさも持ち合わせており、恋愛経験はそれなりに豊富だった。


 十代から色々な男と付き合ってきて、男性経験もそれなりにたくさんある。最近、茜自身も薄々感づいているが、どうもダメ男や何か問題のある男と縁があるらしく、いつも負担を被るのは茜だった。そのせいか今では、何となく男というものに対して冷めた目で見ることが多くなってきていた。


 彼女は元々違う職業に就いていた。その仕事を辞め、付き合っていた男性とも別れた。


 一気に色々と変えちゃったなあと思う。今は全てが白紙の状態なのが彼女とっては嬉しかった。白紙なら自分の好きなように描き、色を塗れる。


 やっと部屋に辿り着く。三〇二号室。ドアを開けるともう誰もいなかった。一つだけ空いたベッドに荷物を置き、ロッカーにしまい始める。時計を見るとゆっくりしている時間は余り残っていなかった。手早く支度を済ませて、ロッカーの鍵を閉める。


 さて、適度に頑張らなくちゃね、と微妙な気合いを入れて茜は大講堂と呼ばれる場所へ向かった。



 実務棟の一階入口から右手にある大講堂と呼ばれる建物の入口に速人と仁科は来ていた。そこで席順と研修開講式のプログラムが書かれた書類を手渡される。それを見ると何やら色々な役職がついた人たちの素晴らしい話には事欠かなそうなことがわかった。全て終わるまで二時間という時間は長いのか短いのか。


 速人は新しく出来た知人の仁科とこの建物にやって来た。周りには微妙な雰囲気が漂っている。ほとんどが初対面な上に、就職の研修初日と言うことでは無理もないだろう。


 速人は仁科と別れて、と言ってもほんの数メートルしか離れていない場所がお互いの席だったが、綺麗に並べられたスチールパイプの椅子に座った。隣は眼鏡をかけたまだ若い女性だった。恐らく二十代前半。もっと若いかもしれない。速人の周囲はかなり女性が多いようだ。


 少しの間、周囲を観察していると達也の姿も見えた。退屈そうに座っているが、寝てはいない。速人は達也が自分に気付く様子がないので、研修生ではなく講師側を見てみる。


 男女合わせて三十人ほどはいるだろうか。年が自分とほとんど変わらなそうな女性を見て改めてこれが人生二度目のスタートなんだと気付く。同じ年代で一方は講師、一方は研修生。


 速人がそんなことを思っていると、一人の男が壇上に現れ、ゆっくりと歩き真ん中に置かれたマイクに近付いた。ひとしきりテストして声がちゃんと出ているのを確認すると、静かに目の前の研修生たちを見つめた。自然と静けさが講堂内を支配し、ほぼ全員が彼に注目する。


「皆さん、こちらにご注目ください。早速ですが、これから研修の開講式を始めます」


 男は何気ない口調で式の開始を宣言した。五十代になろうかという男性だった。背が高く一八〇くらいはあるだろう。体つきも、いわゆる中年太りとは無縁のようでスラッとしている。髪も寂しくなってはいなく、薄く白髪が見える程度だ。


「わたしは研修所の所長をやっております若山と申します。これから短い間ではありますが、よろしくお願いいたします」


 型どおりの挨拶から始まり、その後は延々と役職付きの偉い人たちが、これからの日本においてどういう会社が生き残るか、どういう人材が必要とされるかという、これまたお決まりのスピーチが続く。


「我が社の名前は二つのSで出来ています。一つは満足のサティスファクション、もう一つは成功のサクセスを意味しています」


 速人はあまりに退屈なので目線だけで、色々と観察し始めた。研修生は色々な年代がいるようだし、どうやら自分と同じく帰還兵もいるみたいだった。速人自身は元軍人らしくは全く見えない。むしろ隠そうとしている方だが、そうではない人間もたくさんいる。


 英雄だと思われたい人たち。


 英雄は帰ってきて就職なんかしない。そもそも帰ってきていないから。記憶の中にある幾つもの立派な男たちの顔を思い出す。ぎゅうと心を締め付けられような感覚だったが、決して振り払えない記憶。速人はすぐに思い出の世界に浸ってしまった。心身ともに痛みばかりの思い出。


 記憶の底に沈んでいる間に、開講式は終わりに近付いていた。


「今まで、どんな人間だったとしても構いません。わたしたちの会社に入って変わればいいのです」


 最後のありがたいお話が終わる。会場は拍手に包まれ、先ほどの若山がまた壇上に現れる。


「これで開講式を終わりますが、皆さん、入口で手渡された書類を見てください。席順の名前の上に部屋番号が書かれているはずです。そこが皆さんの教室になります。二十分後に各自、自分の教室に集合してください」


 速人が手元の書類を見ると、A-二〇五と速人の名前の上に書かれている。どうやらこの席順はその教室ごとに決められているらしく、彼の周りは全てA-二〇五と書かれていた。先ほど、知り合いになった仁科も同じだ。研修生がザワザワと動き始める。やはり最初だからだろうか、皆、自分の指定された教室へ向かうようだ。数日もすれば時間ギリギリまで煙草を吸ったり、話し込んだりする人間が大半になるはずだと、団体行動に慣れている速人は予想した。といっても彼自身も今のところはすぐに教室へ向かおうと思っていた。


 椅子から腰を上げて移動しようとすると、後ろから声を掛けられる。


 見るとうんざりした表情の達也だった。二時間大人しく座ってつまらない話を聞き続けるのも苦痛だが、理由はそうじゃないことに速人は気付いていた。男女比率。


「なんで、お前のクラスは七割が女で、俺のクラスは九割が男なんだ?」


 ご苦労にもちゃんと数えたらしい。数えなくてもパッと見て速人のクラスは女性が多いのは一目瞭然だった。逆に達也のクラスに男性が多いのも。


「そんなの、俺が知るかよ。別に構わないだろう。正直、俺はどっちでもいいぞ」


「俺は構うし、どっちでもよくない。部屋はタコ部屋、クラスは男ばっかり。もう帰りたくなってきた」


「お前は何しにここに来てるんだ」


「もう、わからん」


 本当に嫌そうに言う達也を見て、つい速人は笑ってしまった。


 そして何時だったか以前に達也が速人に言ったことを思い出す。


「異性と仲良くなる過程ってのはそれ自身が麻薬みたいなもんでさ。それは何歳になっても変わらないんだ。だからいい年した中年が浮気騒動を起こすし、社会的地位も高く金銭的にも余裕がある人間が女性問題を起こす。TVでそういう報道を見て、『お金あるんだろうから、どうにでもなるだろうに』と思ったことあるだろ。でもお金で作る異性関係は出会いとは言えない。自分のことをどう思ってるのだろうかという悩みがないんだ。だから相手も自分のことを気に入っているというのを確信する瞬間の楽しさはお金では買えない。それを知る過程こそが人間が生きている間でも有数の心躍る時間だと思うんだ」


 達也はそんなことを熱く語っていたことがある。


 そして今、速人らはそれについては素晴らしい環境にいる。


 いい環境にも甲乙つけて文句を言っているのも達也らしいと速人は思う。


 速人は達也のこういう一種の軽薄さが嫌いではなかった。むしろ好きと言っていい。子供っぽいと思うかもしれないが〝さあ研修だ、一生懸命勉強しよう〟とか言われるよりは百倍ましである。


 それに加え、達也のこの様な軽薄さは確かに彼を構成する一部ではあるが、それは薄く表面を覆っているだけだと言うことも速人にはよく分かっていた。あの地獄のような場所で達也がとった行動を速人は忘れないし、今でも尊敬の念を持っている。


「まあ仕方ない。目先を変えてみれば、俺にはパイプが出来たってことだな」


「何言ってんだ?」


「お前がさ、クラスの女とたくさん仲良くなってくれればいい話だろ」


「なるほど、そう来たか」


「よろしくお願いしますよ、殿」


 急に父祖伝来の家臣のように話し始めた達也に速人は一方的に別れを告げた。


 一八〇度回転して講堂の出口へ向かって歩いて行くと仁科が出口近くで書類を見ながら立っているのが見える。恐らく達也と話しているのを見て、終わるまで待っていたのだろうと速人は思った。


「一緒に行きましょうよ。同じクラスみたいだし。さっき一緒にいた人、知り合いの人ですか? 何か話し込んでましたね」


「ううん、全然、知らない人だよ」


 満面の笑みを浮かべて全くメリットのない嘘を速人はついた。


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