第20話
今夜の研修所はどこもかしこも若者たちの騒ぐ声で溢れていた。大半の者にとっては最後の夜なのだ。短い間だが一緒に過ごした仲間と再会を約束したり、新しい配属先でも一緒になった者同士でこれからの未来を語り合っているのだろう。
どこかいつもと違う雰囲気の中、速人はいつも通り入浴を済ませ茜に会いに食堂に向かった。三階へ続く階段を登り、いつもの待ち合わせ場所で腰を下ろす。
そこで茜を待っていると、すぐに彼女はやって来た。しかし今夜は一人ではなく由紀も一緒だった。
「お待たせ。食堂の入口で由紀ちゃんに会ってさ。速人を探してるって言うから一緒に来たの」
茜がそう言うと、由紀がペコリと頭を下げた。
「福永さんに電話したらここにいるって教えてくれて。お邪魔かなって思ったんですけど」
「別に構わないよ。でもどうしたの?」
速人が尋ねても、由紀は寂しそうに笑って黙っていた。
「あたし部屋に帰ってた方がいいかな?」
茜が気を遣ってそう言ったが、由紀は首を横に振る。
「いいんです。茜さんもいた方がいいから」
そう言ったきり、また黙ってしまった。薄暗いので顔がよく見えないが雰囲気から由紀が泣きそうになっているのを速人は感じていた。茜も同じように思っているのだろう。二人とも静かに由紀が話し出すのを待っていた。
「わたし、一緒に行ってもいいのかなあ……」
か細い声で由紀がやっと口を開いた。
そういうことか。速人は即座に彼女の言葉の意味を理解した。
由紀は土曜からの研修旅行に行くのを迷っているのだろう。逸見も「楽しんでこい」と言っていた。恐らく彼女にはそこら辺が引っかかるのだろう。自分が楽しめるのかも自信が無いだろうし、そもそも楽しんでいいのかさえわからないに違いない。
「正直、よくわからないんです。みんな一緒だから行きたいなって気持ちもあります。けど逆にみんなに気を遣わせちゃうのは嫌だなって思うし。それに母がいなくなってすぐなのにそんなの行ってもいいのかなって。行かないからって生き返る訳じゃないんですけどね」
最後の方はほとんど涙声に近かった。それでも健気に由紀は話し続ける。
「本当はここにも戻ってこないつもりでした。色々とどうでもよくなってました。仕事なんかもういいやって。でも家にいたってずっと泣いてるばかりで。だからとりあえず行ってみようかって。気が付いたらそんな気持ちになってたんです」
そこまで言って由紀はついに嗚咽をもらした。下を向いてメガネを外し、片手で涙を拭う仕種を繰り返す。涙が何粒も落ちて広がった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「謝らなくていいの」
そう言って茜は由紀に近付き、自分の手を彼女の肩にそっと置きゆっくりとさすり始めた。速人は黙ってそれを見ていた。茜が一緒で良かったなと思う。
「すいません。よくわからないけど涙が出ちゃって」
まだ半べそ状態だが、とりあえず由紀が再び口を開いた。
「ずっと我慢してたんだろ」
本当は家でずっと泣いていたっていいはずなのだ。まだ一週間に満たないのだから。だが彼女にはそれすら耐えがたいものだったのだろう。何でも良いから〝何か〟別のことをしたかった。それが彼女にとっては〝研修所に戻る〟ということだったに違いない。しかし悲しみは場所を選ばずにやってくる。確かに家に一人でいるよりはいいだろう。だがそれは所詮、程度の問題なのだ。心の中に存在するのだから、どこへ行ってもついてくるはずだ。速人はそう思い、さらに言葉を続けた。
「別にいいんだよ。悲しかったら泣けばいい。一人で泣くのが嫌だったら誰かを巻き込めばいいんだ」
そう言いながら、速人は茜が自分にしてくれたことや言ってくれたことを思い出していた。
まるっきりパクリだな。
「そうよ。自分だけじゃ無理なことっていくらでもあるんだから」
茜がそれを言い終える前に、由紀は茜に抱きつき声を上げて泣き始めてしまう。
それを優しく受け止め、茜は柔らかい手つきで由紀の髪を撫でた。
「ごめんなさい。二人の時間を邪魔しちゃって」
やっと泣き止んだ由紀が速人と茜に向かって頭を下げる。
「別にいいのよ。ねえ、速人」
「うん。全然いいよ」
そう言って速人は、由紀に向かって笑いかける。そんなこと気にするなよ。
「はあ。たくさん泣いて何か疲れちゃいました」
由紀がそう言った時、茜の携帯が短く音楽を奏でた。
「あらら。もうこんな時間。今日は同室の子らとお別れ会なんだ」
携帯の画面を見て、茜が言った。
「何かすいません。わたしのせいで時間なくなっちゃって」
「それは大丈夫。それよりさ、研修に行くか迷ってたよね? あたしはどっちでもいいと思うよ。行きたかったら行けばいいし、嫌だったら行かなければいいの。わからないって言ってたけどさ、自分の気持ちだけ考えてみて。誰かに迷惑だとかそういうのは忘れて。それで出てきた答えに素直に従えばいいんじゃない? 誰にも何にも気を遣わないで」
「はい。ありがとうございます。そうですよね」
由紀は素直に頷いた。茜の言うことは聞いた方がいいぜ。速人は心の中で呟く。彼女の言葉には魔法がかけられてるんだから。
「うん。それじゃあまたね」
茜はそう言うと、速人に向かって小さく手を振り階段へ向かって歩いて行った。
その場には速人と由紀の二人だけになった。
「もう少しだけ、話しててもいいですか?」
由紀が控えめな口調で尋ねた。
「構わないよ。俺も暇だし。何せ、俺たちはお別れ会なんてないからね」
「そうですよね。みんなまた一緒だし。でも不思議だなあ。何でわたしまで選ばれたんだろ? 途中で抜けちゃってるのに」
「それまでが優秀だったんじゃないの? それとも一人くらい若いのを入れて平均年齢を下げるとか。でもさ、由紀ちゃんより俺の方が不思議じゃない?」
「うーん、どうなんでしょう。八尋さんはインチキばかりでしたから」
そう言って由紀が笑ったので、速人もつられて笑った。
「選ばれなきゃ悩む必要もなかったんだけどなあ。どうしよう……どうしたらいいと思いますか?」
「俺も茜と一緒で自分の好きにすればいいと思うけど」
「実はここに来る前に部屋のみんなにも相談したんです。でも三人とも違うんですよ。涼子さんは行った方がいいって言ってました。彩ちゃんは速人さんたちと同じ意見で、久美子さんは無理して行く必要ないんじゃないかって言うんです」
「余計に悩むな、それは」
何となく性格が出てると思い、それが速人には興味深かった。三者三様ってやつ。
「まあ最後は自分で決めることだよ。何でもそうだけどね。それにこんなもん大したことじゃない。そんなに悩まなくてもいい」
由紀はそれを聞いて納得したようだった。
「わたしってこの研修に来るまで、男の人って苦手だったんです。ほとんど話したことなかったんですよ」
由紀は急にガラリと話題を変えた。
「嘘だろ?」
速人は少し驚いて言った。確かに男慣れしてるとは思えなかったが、いつも普通に話していたのでそんなことは思いも寄らなかったのだ。
「本当ですよ。わたしって父親も小さい頃に亡くなってるんです。だからずっと母と二人きりでした。みんなお父さんと遊んだりするじゃないですか。わたしにはそれが出来なかった。それで子供心にそんなものいらないって思い込んだんです。家に男の人なんかいらないって。それで男の人を避けるようになりました。高校も女子校だったし。けど、ここに来て大分変わりました。八尋さんたちと話すようになって耐性がついたのかな」
「全然そんな風には見えなかったよ」
「そうですか? でも本当なんです。最初に家に帰った時、母に色々話したって言いましたよね。八尋さんのことも話したんです。隣の人のおかげで帰れたんだよって。母はそれを聞いて嬉しそうでした。わたしに男っ気がないのをずっと心配してたのかもしれません」
「初めて男と一緒にしたことはテストの不正行為な訳だ」
由紀はそれを聞いてわざとらしく口を大きく開けた。
「そういうことになっちゃいますね。わたしね、お兄ちゃんがいたはずなんですよ。と言ってもわたしが生まれる前に亡くなったんですけど。生きててくれれば独りぼっちになることもなかったのになあ」
そう言って由紀は窓の外の景色を眺めはじめた。
達也ならこういう時はすかさず『これからお兄ちゃんって呼んでもいいよ』と恥ずかしげもなく言うだろうな。速人はそう思ったが、それを真似ることは彼には出来なかった。
その代わりにいいことを教えてあげるよ。
「ちょっとさ、メガネをとって顔をよく見せてくれない?」
「えっ、なんですかいきなり」
由紀はそう言って少し恥ずかしそうにしていたが、速人が黙って促すので仕方なくメガネを外した。
速人は窓際に立つ彼女に近付き顔を覗き込んだ。
こんなに変わるやつも珍しい。
由紀は普段、度の強いガリ勉メガネを掛けている。しかしそれを外すと整った顔立ちの美少女が現れるのだ。童顔なので少し幼い感じがするが、それも魅力の一つには違いない。速人は自分でも何となく気付いていたが、涼子たちからもこのことを聞いたことがあった。
「もういいですか? 恥ずかしいんですけど」
そう言うと由紀はメガネを掛け直そうとするが、速人はそれを手振りで制した。
「やっぱり凄い美人だな。いやまだ美少女ってところか」
「何言ってるんですか、もう。意味わかんない」
そう言って由紀はすぐにメガネを掛け直そうとするが、慌てていたのかメガネを床に落としそうになった。速人はそれが床に落ちる前に素早く右手でキャッチする。
速人がそれを手渡すと、由紀は軽く彼を睨んだ。正確には睨んだフリをした。
「そういうのは福永さんとかが言うから自然に聞こえるんですよ。八尋さんが言うと何か変です」
ひどい言われようだな。速人はそう思ったが、自分が慣れないことをしているという自覚もあるので言い返すのはやめておくことにする。由紀もすぐに表情を和らげた。
「まったくもう。すぐにからかうんだから」
「本当のこと言ったんだけどな」
それを聞いて由紀は少し頬を赤らめたようだったが、すぐにあらたまって速人を見つめる。
「今日はありがとうございました。話せてよかったです。茜さんにもよろしく言っておいてくださいね。ああ、そう言えば茜さんのTシャツ、泣いて濡らしちゃったなあ」
俺も同じことをしたよ、と速人は思ったが、流石に恥ずかしくて言えなかった。
「そんなことをあいつは気にしないよ」
「それじゃあ、そろそろ行きますね」
速人もそろそろ帰ろうと思い、二人で一緒に階段に向かって歩き出す。食堂へ降りていき、そこで速人は立ち止まった。
もう一つ言っておかなきゃな。
「さっきさ、独りぼっちって言ってたろ? そんなことないと思うよ。例えば俺たちだっている。確かに家族とは違うかもしれない。けど決して独りじゃないよ」
「でも、もう研修も終わりです。長くても来週にはみんなバラバラですよ」
いきなりそんなことを言い出す速人に少し驚いた様子で由紀が言った。
「だからって急に知らない人間に戻るわけじゃない。いつだって頼ってもいいんだ」
由紀はその言葉を聞いた後、ジッと速人を見つめた。
「嬉しいです。そんなこと言ってくれて」
由紀は胸が一杯になったのだろう。それだけを絞り出すように言った。何と言ってもまだ十九歳なのだ。不安はたくさんあるに違いない。
そして彼女は下を向いたまま黙りこくってしまった。
まずい。このままだとここで泣かせてしまいそうだ。速人はそう思い少し焦りを感じる。食堂付近にはまだたくさんの往来があり、近くのベンチなどにはたくさんの研修生がたむろしていた。今こうして二人で話しているだけでも幾つかの視線を感じる。別に気にしているわけではないが、速人は前職のおかげからか他から自分に向けられる視線を感じることに長けていた。
これで由紀が泣いたら、視聴率は急上昇ってとこだろうな。
速人がそんなことを思っていると、由紀が急に顔を上げた。その顔に涙は浮かんでいなかった。
「今ちょっと、焦ってましたよね? ここで泣いたら困るだろうなあって思って悪戯しちゃいました」
悪そうな笑顔で由紀が言った。だが、速人はそんなことで騙されはしなかった。本当は違うはず。じっと涙を堪えたのだろう。だがあえて気付かないフリをした。
「そんな悪戯するなよな。マジで焦るから」
速人がそう言うと彼女は笑って別れを告げた。
自分の部屋へ向かって歩いて行く由紀の背中が速人にはとても小さく見えた。




