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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
第一部
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第2話

 金属の摩擦音と共に電車がホームに停車する。大勢の人間が詰め込まれた箱の扉が開き、大勢の人間がそこから溢れ出す。よくある都会の駅の雑踏。こんなものは好きな人間はいるわけはなく、ただみんな生活のために我慢しているだけだ。まったく、本来の人間の姿からはかけはなれているな、と八尋速人やひろはやとは思った。思ったが考えをやめる。本来の人間の姿なんか知らない。隣にいる福永達也ふくながたつやを見ると同じようにうんざりした表情をしていた。


 二人は中央線西国分寺駅で電車を降りていた。S&Sカンパニーの入社試験に合格し、新人研修を受けにやってきたのである。四月の春の日差しが彼らの二人の顔を照らしていた。


 改札口を出て雑踏に足を踏み入れる。午前九時ごろだったが大勢の人間で駅前は溢れていた。北へ南へ東へ西へ。うっとうしいことこの上ない。研修所はここからタクシーだと五分くらいの場所にあると案内書には書いてあった。


「しかしニコは相変わらずだな。こんな日に遅れるなんて」


 電車の中でニコから遅れる旨のメールをもらった達也が言った。


 彼らは三人とも合格したのである。速人にとっては達也はともかく自分やニコがすんなりと受かったことが信じられなかった。就職なんて意外と簡単なもんなんだな、とつい思ってしまう。


「あいつなら大丈夫。そのうち現れるよ」


「とりあえずタクシーに乗ろうぜ。歩いて行くのは面倒だ」


 しかしそこから一瞥しただけで、タクシー乗り場には人がたくさん並んでいるのがわかった。


「あれを待っていると確実に遅れるな」


 速人はうんざりしながら言った。


「じゃあ歩くしかないのか。仕方ない。いい運動だと諦めよう」


 達也も列を一目見て諦める。案内の地図で場所を確認する。歩いても三十分かからないので、集合時間の十時には充分間に合う。駅から向かって右側へ二人が足を進めると、右手にコーヒーのチェーン店があった。その店の前で一人の女性が大きなボストンバッグを一つは右手に持ち、一つは地面に置いて眉をひそめながら、件のタクシー乗り場を困ったように見ている。年齢は二十台半ばだろうか。ほんのりと薄く赤茶色に染まった髪にはウェーブが掛かっている。その先端は胸の当たりまであるロングヘアー。顔立ちは整ってはいるが、きつそうな雰囲気はなかった。少しだけ垂れ目のせいか、どこか母性を感じさせた。スーツの上からでもわかる豊かな胸、太ってるわけでもないが痩せてるわけでもなく、メリハリのある女性らしいプロポーション。身長は百六十くらいで肩幅が意外と広い。完璧な美女ではないが、それがまた魅力的だった。


 達也が速人の方を見て、すぐに彼女の方を見て、また速人を見る。そして笑いながら言った。


「あれは多分、同じところに行くとみた」


「素晴らしい推理力だと言いたいが、多分十人中、九人くらいはそう言うと思うぞ。それに彼女だけじゃない。よく見ればたくさんいるよ。ほら、あそこにいる男もそうだし」


「そいつらは俺の目には見えないよ。よく見ろよ。お前の言いぐさじゃないが十人いたら八人は声をかけるぞ、きっと」


「残りの二人でもいいんだけど」


「バカ、あと二人はホモとマザコンだ。俺たちは違う。大体、困ってる女性を助けるのは男の義務でしょう」


「困ってる美人の間違いだろ」


 進行方向なので自然と近付いていく。どうやら女性は荷物がたくさんあり過ぎるようだ。近付く速人と達也に気付いたようだった。


「もしかして君もS&Sの新人研修?」


 達也がごく自然に話しかける。同時に新人研修の案内書類を彼女に見えるようにかざした。


 彼女は書類をチラリと見てから答えた。


「うん、そうよ。あなたたちも?」


「同じだよ。さっき電車からおりたところ。タクシー拾おうとしたらこの始末でしょ。どうしようかと思ってたら、君が見えてさ」


「わたしも同じだわ。まったく嫌になっちゃう」


 そう言いながら彼女は周りを見渡している。


「俺たちも行く先は一緒だからさ、歩いて行こうと思ってたんだけど、一緒に待っててもいいかな?」


「別にいいわよ、でもこの分だと初日から遅れちゃいそう」


「俺は福永達也、こっちは八尋速人」


 紹介された速人は軽く会釈する。


「わたしは上本茜うえもとあかね。よろしくってとこなのかな」


 小さく笑いながら彼女は二人を均等に見た。


 達也が満面の笑みで素早く彼女の隣につく。〝はい、一丁あがり〟という声が聞こえてきそうだ。速人は軽く苦笑いする。


 タクシーを待つ行列は一向に進む気配はない。三人は十分ほど話をしながら待っていたが、自然と全員が共通の判断をする。


「駄目だね。これを待ってたらとんでもない遅刻になる。歩こう」


 速人が最初に言った。


「うん、その方がいいみたいね」


 茜は地面に置いていた荷物を手に取りながらうんざりした様子で同意する。


 三人は研修所の場所を地図で確認した後、歩き出した。


 茜は二つのバッグを持っていて、かなり重そうだった。どうしても二人は歩くスピードを抑えなければならない。仕方ないと思い、速人は達也の顔に目を向ける。同じことを思っているようだった。


「それ結構、重いでしょ。よければ俺たちが少し手伝おうか」達也が尋ねる。


「大丈夫、自分で持てるわ」


 強がりなのか、見知らぬ他人に荷物を委ねるのが不安なのだろう。


「遅れちゃうよ」


 速人は黙って手を差し出した。見知らぬ他人に荷物を委ねる不安と荷物の重さとが戦った。


「ありがとう、じゃあお願いしちゃうね」


 どうやら重さが勝ったようである。速人は重そうな方のバッグをさりげなく受け取る。バッグを片手で持ったが凄い重量だった。何が入ってるのやら。こんな物を二つ持ってどうやってここに辿り着いたのか知りたくなったくらいだ。


「凄く重いけど、引っ越しでもする気だったの?」


「一ヶ月も研修なのよ。それでも最低限まで荷物を減らしたの」


 やれやれ、女というやつは。速人も達也もスポーツバッグ一つだ。もう一つを達也が受け取り、また歩き始める。


 前に茜と達也が並んで歩き、その少し後ろを速人がついていく形で三人は研修所へ向かった。


 スーパーや個人商店が道路の両側に幾つかある。駅から少し離れれば都内でもそんなに都会的ではない場所だった。個人経営の居酒屋などを見るとその思いはますます増していく。


 前の二人はずっと会話してるようだが、速人がみるところキャッチボールと言うよりピッチング練習だ。ピッチャー達也がキャッチャーに向かってボールを投げる。キャッチャーがそれを受け止める。軽くボールを返す。達也はいわゆるイケメンだ。整った目鼻とお洒落な服装。百八十センチほどの長身。細くてスタイルもいい。少しの長めの髪型がとてもよく似合っている。大抵の女性は達也のことが気に入った。


 さて、今回はどうだろう。速人もそこそこいい男ではあったが、体格はスタイルがよいと言うよりはゴツい。身長は百七十一センチと達也より小柄である。並んで立つと頭一つ達也の方が大きい。均整がとれてはいるが鍛えた人間特有の厚みがあり、童顔が相まって少しだけアンバランスだった。髪は短く揃えていて、達也とは対照的だ。どっちがいい男かは女性の好みによるところだろう。しかし速人は達也には惨敗してると思っていた。確かに総合的な面では達也の方が女性にモテるのは事実だった。


 二人の会話はずっと続いた。速人が後ろで聞いている限り、この上本茜という女性はとても感じがよかった。美人にありがちな高慢さもなく、かといって媚びるわけでもなくごく自然に接していた。達也の冗談にもちゃんと笑って応対している。


 たまに気配りからか彼女が速人にも話を振ってきてくれたりしたが、適当に相づちと達也への突っ込みだけ挟んでいた。


「やっと受かったのよ。もう何社落ちたか分からないわ」


「やっぱり大変なんだ、就職。俺も速人もここしか受けてないんだ。まあ色々あってね。どこも不況だ、何だと不景気な話ばかりだもんね」


「でもここはやたらと簡単だったんだよね。面接とかも一回しかなかったし。あなたたちもそう?」


 確かに茜の言う通りこの会社の採用試験は簡単だった。面接でも嫌な思いは全くしなかった。速人も達也も不思議に思ったものだ。特に速人は以前、色々と問題があった。聞かれれば困ることはたくさんあった。一番、簡単な質問。何故あなたは前職を辞めたんですか? これを深く突っ込まれなくてよかった。


 予想外の出会いだったが、楽しい時間を過ごしながら三人は歩いて行く。


 二十五分ほど歩いただろうか。左手にコンビニがありT字路があった。道路が行き止まりになった。というよりは前方に大きな門がり、S&Sカンパニー国分寺研修所と書かれていた。目的地に到着したのに気付く。


 すると一台のタクシーが速人らの近くで停止した。


 中から窮屈そうに一人の大男が出てくる。


 身長は百九十センチに少し欠けるくらい。均整の取れた体つきでスーツの上からでも一目で鍛え抜いたであろうことがわかる。坊主頭で眉間に皺を寄せているので、かなりの強面に見える。荷物はバッグ一つだけしか持っていない。


「間に合ってよかったな、ニコ」


 男に気が付いた速人が声を掛けた。


 その男、田上雅夫たがみまさおは無表情な顔で速人に近付いた。彼を知るものにとってその鉄面皮はほとんどトレードマークとなっている。そして彼は親しい友人にはニコという名で呼ばれていた。その由来を知るものはそんなに多くはなかった。


 速人も一旦自分の荷物を地面に下ろし、ニコに近付く。


 そして、二人とも自分の片手が相手の背中を叩くようにして抱擁する。


 戦友との間にはつきものの挨拶だった。思い切り背中を叩くのでかなり荒っぽく見える。スーツ姿の二人がそれをやっているのはある種滑稽に見えた。


 ほんの数ヶ月会ってないだけなんだけどな、と速人は苦笑する。強く叩かれた背中が少し痛いが、けして不快な痛みではなかった。命を預け合った仲間との強い絆をそこに感じることができた。


「危ないところだったがギリギリセーフだ」


 地の底から聞こえるような低い声でニコは言った。そしてニコは達也らとも挨拶を交わす。茜は少し驚いたようだったが、無理もないことだと速人は思った。知らない人が見たら、どう見たって普通の若者には見えない。


 そこで速人は彼がタクシーで来たことに思い至った。


 どうやって間に合うようにタクシーに乗ったんだ?


 ニコは必要がなければ行列を乱すような男ではない。見た目は怖いが、ならず者では決してなかった。

 必要がなければ。速人はそれ以上考えるのをやめた。


「ちょっと待ってて。受付に聞いてくる」


 達也が足早に入り口の右手にある守衛室へ向かう。そこで何か書類をバッグから出し話をしている。そのうちに待ちきれなくなったのかニコも達也の側に歩いて行った。


 少し離れた場所で茜と速人が二人で待っていると、茜はスーツのポケットからメモとペンを取り出し素早く何かを書き記した。


「これ、あたしの連絡先。きっとここで一ヶ月は退屈だよ。一緒に遊ぼうね」


 何気ない様子で笑いながらメモを速人に向けて差し出した。達也はまだ守衛と話をしている。


 どうやら彼女は少数派らしい。速人は少しだけ困惑したが、悪い気はしない。


 少しだけ笑みを浮かべてメモを受け取る。


「ありがとう」


 彼には他に言うべき言葉が見つからなかった。まずいぞ、こいつは。達也に何と言おう。とりあえず内緒にしておくことを決める。


「お待たせ。ここから真っ直ぐ言ったところに大きな掲示版が幾つかあって、そこで部屋割りとわかるらしいよ。そこで受付して各自、部屋に荷物を置いてその後、集合だとさ」


 達也が戻ってきて手短に説明する。


 四人は掲示板に向かった。すでに数十人がそこに群がって自分の番号を探している。まるで合格発表みたいだった。違うのは涙も喜びも特にないこと。


 一覧図を見る入り口から真っ直ぐ行くとまず左手に管理棟と書かれている建物があった。その隣に体育館があり、地下にも色々な設備があるようだ。右手には実務棟と書かれる建物。入り口から八十メートルほど真っ直ぐ進むと宿泊棟が三つあった。右端から一棟、真ん中が二棟、左端が三棟。それぞれ五階建てでかなり大きい。三棟の左隣に食堂や浴場がある棟がある。一覧図には乗っていないがさらに左に建物があった。五つの棟が並んでいることになる。この五つの棟の前には大きな階段があってそれを登ると各棟の二階部分を繋ぐ広い通路があり二階からも入れるような立体的な作りになっていた。なので一階から入るとその通路の真下を通ることになる。


 速人は一棟の五〇一号室だった。達也は二棟の一〇七号室。ニコは達也の隣の一〇八号室。そして茜は三棟の三〇二号室。


「みんなバラバラだね」と達也が茜に向かって言う。


「まあ三棟は女性専用みたいだからね。注意書きに書いてあるよ。ちょっと待って、一棟は二人部屋だけど二棟は四人部屋だって。三棟は……残念ながら四人ね」


 茜が面白いことに気付く。


「えっ、何だそれ。なんで俺とニコがタコ部屋で速人はVIPルームなんだ。おかしいだろ」


 達也が天を仰ぎながら言った。


「別にVIPじゃないだろ。もう一人いるんだし。まあ広くは使えるだろうし、一緒のやつがいいやつだったらいいけどね」


「頼む、代わって。ねえ、達也君」


 達也が本当に嫌そうに哀願した。


「達也はお前だ。諦めろ。そろそろ時間になるぞ。ニコ、さっさと行こうぜ」


「ああ、相変わらず福永は細かいことにうるさいやつだ」


 ニコは言いながらすでに移動しようとしていた。


「ニコは何人部屋でもいいだろうけどさ。お前と同室になった人間の心理的プレッシャーを考えてみろよ」


 達也が言い返すがニコはどこ吹く風と言った様子である。


 三人のやりとりを聞いて茜がクスクスと笑った。


「君たち面白いね。そろそろ時間だから行くね。知り合えてよかったわ。ありがとうね」


「いえいえ、どういたしまして。きっとまた会うだろうから。またね」


 さっきまで不平不満の塊だった達也が爽やかに返事をする。


「うん。みんなもまたね」


「じゃ、また」速人は軽く頷きながら言った。ニコは軽く頷いただけだった。


 こうして四人は各自の部屋に向かった。


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