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チェンジ 〜From heaven Till hell〜  作者: 井上陽介
第一部
17/55

第17話

 食堂や大浴場のある第四棟の二階から上の部分は、現在何も使われていない。三階から五階には他の宿泊棟と同じような部屋があるが、誰も泊まっていないので全ての電気が消されていた。


 特に立入禁止なわけでもないので、二階の食堂近くにある階段を登れば、窓から入る月明かりしか光のない空間がそこにあった。


 川井と仁科から「いい穴場を見付けました」とこの場所を教えられたのが、一週間前のことだっただろうか。速人はそれから毎晩この第四棟の三階で茜と会っていた。


 実際は誰もいないわけではなく同じようなカップルが結構いた。暗黙の了解で場所が重なりそうになった場合どちらかがその場を離れた。速人と茜も一度、知らないカップルと出くわしたことがある。その時は向こうが「おっと、失礼」などと言い、どこかへ消えていった。


 速人と茜はただ話しているだけなので本来は場所などどこでもいいのだが、速人がこの空間を気に入っていた。月明かりしかないので薄暗いのも好きだったし、何より静かだった。たまに艶っぽい声が聞こえたりするが。


 今夜も会う約束をしていたが、茜は少し遅れているようだった。二人とも入浴を済ませてから会うのが常なので、茜はしばしば遅れてくることがあった。なので速人は特に気にせず待つことにする。


 しばらく待っていると聞き覚えのある足音が聞こえてきた。


「ごめんね。ちょっと話し込んじゃってさ」


 茜は風呂上がりなのでジャージにスウェットというラフな格好だ。昼間と違い髪を一つに束ねているので顔の形がよくわかる。


 少しの間、いつものように話をしていたが、速人の中で軽い罪悪感が存在していた。今朝、何となくついてしまった嘘に耐えられなくなっていたのである。


「茜さ、今日は何してた?」


「今日はね、速人に振られちゃったから一日ここにいたわよ。達也君とかニコくんとかと話したりしてた。達也君は本当にモテるのね。今日も知らない子たちから誘われてた」


「そのことなんだけどさ、買い物とかじゃなかったんだ」


「でしょうね。すぐにわかったわ。それで何してたの?」


 茜は当然の様に言った。初めから彼女にはわかっていたんだろう。速人はそう思い、最初から正直に言っておけばよかったなと後悔した。


「彩ちゃんとさ、知り合いの墓参りに行ったんだ」


 彩菜と美咲と自分との関係を簡単に説明する。茜は黙って聞いていたが、話が終わるとジッと速人の顔を見据えて言った。


「なんで嘘ついたの?」


「何でだろう。よくわからない」


「よくわからないで嘘をつくの?」


 茜はまだ速人の顔を直視していた。速人は急に自分が劣勢になっているのを感じる。


「何となくなんだ。美咲とは付き合ってたわけでもないんだけど、言えなかった。なんだか嫌な思いをさせそうな気がして」


 速人は自分がどうして言いたくなかったのかに本当は気付いていた。気付いていたがそれを言えないので上手く説明することができなかったのだ。


「あたしがそれを聞いたらどうして嫌な思いをするの?」


「いや、それは……何でだろう?」


「聞いてるのはあたしよ」


 茜は月明かりの中、真剣な表情で速人をしっかりと見つめていた。


 速人は何も言えず、二人の間を沈黙が覆う。


 何でまた俺はメリットない嘘をついたんだ。速人が本気で後悔し始めた時だった。


「ぷっ」


 茜は耐えきれなくなったように笑いを漏らした。


「バカね。そんな泣きそうな顔しないでよ。ちょっとからかっただけ」


 速人は呆気に取られながらも、安堵の表情を浮かべた。


「なんだよ、びっくりするじゃん」


「さっき彩ちゃんから聞いて、とっくに知ってたの。だから遅れちゃったって訳。あの子はあたしが速人から聞いてると思って話してたわ。少し驚いたけど適当に話を合わせといた。ラーメン美味しかったって言ってたよ」


「そっか。彩ちゃんからか。考えてみれば当然だよな」


「そう、当然なの。本当に意味がわからない嘘つくんだから。大体、嘘ついて他の子と出かけること自体が問題じゃない? やっぱり速人ってちょっと変わってるよね」


「ごめん」


「まあ、それはいいとして嘘をついたのは事実なわけで。どうしてそんな嘘をついたの?」


 速人は茜が何を言わせようとしているのかに気付いていた。正確に言えば自分が今、何を言うべきかがわかっていたのだ。


 何を俺は怖がっているのだろう?


 耳の奥で「大丈夫!」という声が聞こえた気がした。

 それは美咲の声だったのか、彩菜の声だったのか。速人にはどっちでもよかった。銃声やうめき声じゃなければ何でもいい。


「俺は茜のことが好きだから言えなかったんだ」


「じゃあ、許す」


 そう言って茜は笑顔を速人に向けた。


 速人の両手が自然と動き、茜の頬を包んだ。


 何て暖かいんだろう。彼には彼女の頬の暖かさがとても心地よかった。


「あたしもね、速人のこと好きだよ」


 速人はそのまま自分の顔を彼女に近付けた。茜は待つだけでなく自分からも少しだけ速人に近付いた。片方だけじゃなく二人ともお互いに近付き、唇と唇が触れあった。


「俺と付き合って欲しい」


 顔を離し、二人ともお互いの顔を見て笑っている時、速人が言った。


 茜は何も言わずに頷き、速人の首に両手を回した。そしてもう一度顔を近付ける。


 長い、長いキスだった。


「やっぱりこうなった」


 茜の言葉に速人は黙って頷いた。


「もう嘘はついちゃだめだからね」


 速人は再び苦笑交じりに頷く。わかってます。もう決してしません。


「初めて会った時、あたしのバッグを持ってくれたよね。今度はさ、あたしがあなたの重荷を持ってあげる。手伝ってあげる。だから何があってもあたしには正直に話してね」


 確かに速人は戦場からたくさんの重荷を持って帰ってきていた。何度もそれに押し潰されそうになってきた。なので自分が恋人としては面倒な部類に入るだろうことはよくわかっている。トラウマを抱えた帰還兵なんて普通ならなるべく避けて通りたいだろう。


 それでも茜は好きだと言ってくれた。


「よろしく頼むよ。俺には君が必要だから」


 そう言った後、速人はプレゼントを持っているのを思い出した。黙ってそれを茜に差し出す。昼間に彩菜が選んでくれた銀のネックレス。


「あたしに? 何だろう? 開けてもいいよね」


 茜は受け取り、丁寧にリボンを外してそれを開けた。すぐに取り出して、ジッとそれを見つめる。そして嬉しそうな顔でそれを身に付けた。彩菜の見立ては間違っていなかったようでよく似合っていた。


「ありがと。いつも付けてるね」


 速人はそれを聞いて何となく恥ずかしくなり、照れ隠しで窓から外の景色を眺めた。


 何故だがいつもと景色が違って見えた。


『心に強く残る出来事があると、同じ物を見てもそれまでとは違って見えることがあるんだ』


 昔、ある友達がそう言ったことを思い出した。


「何だかいつもと違って見えるね。何でだろう?」


 速人の後ろから同じ景色を見た茜が言う。どうやらあいつの言ったことは本当だったらしい。


「何でだろうね。俺もどこか違って見えるよ」


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