第15話
研修も三週間が過ぎ、速人は三回目となるテストを受けていた。研修中は毎週、金曜日にテストがあり補習になるかどうかがそこで決まる。一度目と二度目とも規定の点数には足らなかったが隣の西川由紀のおかげで何とか切り抜けてきた。
しかし今日は隣の席には誰も座っていない。
由紀の母親が病気なのは速人も聞いていたが、三日前の夜に容態が急変し危篤状態だと言うことだった。それで急遽、彼女は家に帰ったのである。もちろん会社の了承は得てのことであった。
研修が始まってからこの三週間で速人たちは由紀や彼女の同室の女性たちとかなり親密になっていた。研修授業の後、駅前のカラオケ店に行ったり、食堂で何時間もみんなで話し続けたりしていた。テストが近くなれば久美子や、意外とテストが得意な仁科が教え役となり一緒に勉強したりもした。
茜も速人が紹介したのでみんなと一緒に過ごすようになった。研修所の一番人気と二番人気の女性が一緒にいるのでそのグループはある意味、男共の注目の的だったようである。
ニコについても最初はみな怖がっていたが、そのうちに慣れてきたようで今ではすっかり馴染んでいた。ある女性などは『ニコちゃん』などと呼び、彼を辟易させてさえいた。
速人自身はと言えば、トラウマに悩まされることは皆無というわけではないが、確実に心が闇に落ち込む頻度が減っていた。あれだけの辛い記憶がたった数週間で癒やされるわけはないと彼にはわかっていて、それ故にそれを受け入れるようになっていたのである。悩んで当然だと。
それは達也などに言わせれば、格段の進歩であるらしい。速人にはまだよくわかっていなかったが心の病などというものは回復していることに本人が気付くことはあまりないと達也は言っていた。大抵は周囲の人間から気付き始めるもので、速人も大多数の例に漏れなかったのだ。
そして茜と速人の関係に表面上の変化はなかった。まだ付き合っているわけではない。だが少しずつ確実にお互いのことを理解し合っていた。少なくとも速人はそう思っている。毎晩のように二人だけで会い、話をしていた。仕事のこと、自分たちの過去の話、もちろん何の意味も無いくだらない話もたくさんした。
その結果、二人の距離は少しずつ縮まっていた。
周りでは達也や仁科、さらには涼子なども加え〝いつ付き合うのか?〟についての賭けさえしていた。速人もそのくだらない企画の存在だけは知っていたが、詳しくは教えられていない。
達也曰く〝不正行為の禁止〟と言うことだった。
そんな風に幸福な時間を過ごしてきたわけだが、ここ数日は何となく雰囲気に寂しさが漂うようになっていた。もちろん由紀の母親のこともあるが、研修の終わりが見えてきたことが一番の要因だと速人は思っている。もちろん研修が終わっても交流は続くとは思うが、この毎日が終わることに寂しさを感じずにはいられなかった。
速人にとっても時間が残っているうちに色々と終わらせておきたいことが幾つかある。そのうちの一つは網谷彩菜に関することであった。
速人は約一週間前に彩菜とした会話を思い出す。
「彩ちゃんさ、親戚とかに高宮って名字ない?」
「えっと、何で知ってるの? 高宮ってお母さんの旧姓なんだけど」
「それじゃあ高宮美咲ってのは?」
「何で美咲ちゃんのことも? もしかして知り合い?」
高宮美咲。速人はその女性のことを知っていた。
大学二年の春のことだった。バスケットサークルに入っていた速人は新入生の入学式で彼女に初めて出会った。サークルの勧誘をしていた時に声を掛けたのが彼女だったのである。髪はショートカットでスーツに長い靴下を履いていたのが妙に速人の頭に残っていた。
彼女は明るくて性格のいい女性だった。写真やプリクラが好きでいつも小さなフォトブックを持って、みんなに見せていた。自分自身が変な顔をして写っているのを見せて笑いをとるような気取らない女性だった。そんなに美人ではなかったが愛嬌があって誰からも好かれていた。ちょうど今の彩菜のように。
その年の夏にあの事故があった。
サークルの夏合宿があり、速人らはバスで山中湖へ向かっていた。美咲は買い物係を引き受けていたので、他の先輩が運転する車に乗っての別行動だった。
その日は大雨が降っていた。
そしてバスが目的地に着いた時、速人らは彼女たちの乗る車が中央道で事故を起こしたことを知ったのだった。
その車には三人が乗っていたが美咲だけが帰らぬ人となった。
美咲の両親は娘を失った悲しみからか、サークルのメンバーには通夜や葬儀の参列を許さなかった。そんな合宿に行かなければ、そんなサークルに入らなければ。どこにも向けられない怒りが彼女の家族にはあったに違いない。
速人は美咲のことが気に入っていた。その頃は仲の良い後輩という感じだったが美咲も速人によく懐いていて、ひょっとすると恋愛関係になったかもしれなかった。彼女の死により全て憶測でしかなくなってしまったが。
彩菜によれば母方の従姉妹だという。年も近く美咲と彩菜はよく遊んだという話だった。
速人はそれで全てに気付いたのだった。
何故か彩菜のことは気になっていたのだ。初日から見とれてしまったし、何も知らないのに恋愛感情に近いものすら感じていた。
美咲に似てたんだ。
速人はそういう心の傷を持った人間の例に漏れず、戦場の辛い記憶ばかりを考えるようになり、それ以前のことはほとんど思い出さないようになっていた。そこに多少の心の余裕が生まれたことにより、思い出したのであった。
確かに彩菜は美咲に似ていた。髪型も身長もほとんど同じだったし、全体的な雰囲気はそっくりだった。顔も瓜二つとまではいかないがよく似ていた。速人には他人の空似には思えなかったのである。
しかし、それだけではなかった。決定的なこと。
速人は彩菜の顔を知っていたのだ。美咲はプリクラや写真をよく見せてくれた。よく似ている二人が写っている写真を見て、妹なのかと聞いた気がする。
「違いますよ。それは従姉妹の彩菜ちゃんです」
それを思い出した時、速人の頭の中で美咲の声が聞こえた気がした。そして速人はある頼みを彩菜にしたのだった。
テストの終了を告げる逸見の声が聞こえ、速人はペンを置いた。久美子や仁科に教えてもらったおかげか、何とかなりそうな気がしていた。
隣の席の由紀がいないので、適当に近くの席の人と答案を交換する。今までは由紀と交換していたので安心感があった。どうであろうと補習は免れたのである。速人はメガネの隠れ美少女のことを考えると胸が痛んだ。今頃はきっと悲しみに暮れているに違いない。帰ってくるかはわからないが、帰ってきたとして何と声を掛けていいのか彼にはわからなかった。
そして採点も終わった。初めて速人はインチキせずに補習を逃れていた。
帰り支度をしていると、仁科が近付いてくる。
「八尋さんも今回こそは補習ですか?」
「君らのおかげか何とかセーフだったよ」
「マジっすか。そいつはよかった。と言っても今日は流石に出かける気にはなれませんよね」
「そうだね。由紀ちゃんのことがあるし」
気付くと涼子らや川井も速人のそばに寄ってきていた。
「私たちもみんな大丈夫だったよ。八尋君たちも大丈夫そうね」
いつもと変わらぬ透き通った声で涼子が言う。
「おかげさまで」
速人が答えた時、携帯の画面を見ていた久美子がえっと息を飲んだ。
「由紀のお母さん、今朝亡くなったって。今、携帯見たら連絡入ってた」
速人は一つ溜息をついた。他の者もそれぞれ落胆を表している。
「由紀ってさ、お父さんも小さい頃に亡くなったって言ってたから色々大変だろうね」
彩菜は今にも泣きそうな顔をして言った。
「家族葬ってことだからお通夜とかは行けないけど、何かしてあげられないのかな」
携帯を見ながら久美子が言った。
「今は帰ってくるのを待ってるしかない。みんながそれぞれ自分の思うように彼女に対して接してあげるしかないよ。俺もまだどうしていいかよくわからないし」
速人がそう言うと他のみんなも頷く。個人個人が自分の優しさを与えるしかないのだ。例えば気晴らしにみんなで何か考えても、かえって由紀に気を遣わせるだけだろうと速人は思っていた。みんながそれぞれの人柄にあったやり方で彼女を支えてあげればいいだろう。そのうちの誰かに感情をぶちまけたっていいのだ。それは全て由紀が決めることで、それによって少しでも悲しい出来事を消化できればそれでいい。
そして何となく速人が立ち上がると、机の端にスーツの袖が引っかかったのかコトリという音がした。見ると袖のボタンがちぎれた糸と共に机の上に落ちていた。
「あら、八尋君ボタン取れちゃったね」
彩菜が言い、すぐに自分のバッグの中身を覗く。
「部屋に置いて来ちゃったかあ。一応、小さい裁縫セット持ち歩いてるんだ。そういうの好きでさ。直しといてあげようか?」
速人は頼もうと思ってスーツの上着を脱ぎかけたが、ふと何かを思い出して笑みを漏らした。
「大丈夫かも。少し待ってればあいつが直してくれる」
「あいつって?」
彩菜は不思議そうに尋ねた。
「あいつ」
速人の視線の先でニコと達也が教室に入って来ていた。さあ、みんなサプライズだぜ。これから起こることを想像し速人は口元が緩んでしまうのを感じた。
「ニコ、悪いがボタンが取れちゃったんだ。付けてくれない?」
速人はニヤニヤしながらスーツを脱ぎ、それを渡しながら言う。
「お安い御用だ」
ニコはいつものように短く返事すると自分のバッグから小さな裁縫セットを取り出した。呆気にとられるみんなをよそに素早く糸を針に通し、ボタンを直していく。
ほんの短い時間でニコは仕事を終え、速人にスーツを返した。
「ちょっと待って。今の一体何なの? 今、何が起こったの?」
涼子が驚きと笑いの入り交じった表情で言った。
「ニコはさ、こういうの得意なんだ。人形とか小物も簡単に作っちゃうんだぜ。こんなの朝飯前だよな?」
速人は笑いをこらえながらニコに話を振る。
ニコは少し恥ずかしそうだったが、いつもの口の端を歪めたような笑いをして頷いた。
「へえー意外すぎる。ニコちゃんって本当に面白いね。やばい。ツボかも」
涼子はついに吹き出してしまった。それに呼応してみんなに笑いが広がる。ニコも最初は心外だといった表情だったが、そのうち一緒に笑ってしまった。あくまでも小さな笑いではあったが。
「物真似のレバートリーにニコさんを入れてもいいですかね?」
この数週間で物マネの才能をみんなに認められた川井が尋ねる。彼の物マネは非常によく似ていて、リクエストすれば大抵の人物のマネをしてくれる。速人も食堂などでみんなで話している時に、たくさん笑わされていた。
「俺が許す。存分にやっていいよ」
達也がニコが返事するより速く答えた。ニコはチラリと達也を見たが、面倒だと思ったのか何も言わない。
川井は早速、ニコの無表情な顔を真似、針に糸を通すフリをしだした。よく特徴を掴んでいて、みんなの笑いを誘う。
みんなが川井の物マネで笑っている間に、速人はニコと達也に由紀の母親のことを話した。
「そうか。残念だな」
常に瀟洒な達也もいささか沈痛な面持ちで言った。ニコはいつもより三割増しで眉根を寄せている。
「由紀ちゃんは可哀想だけど、俺たちがここで落ち込んでても仕方ないよな」
達也が気を取り直して速人に言った。
「ああ、そうだな」
全くその通りだと速人は思う。幸いニコの意外な特技と川井のおかげで少しだけ明るい雰囲気になった。お通夜はここでやらなくてもいいはずだった。
ふと涼子が何かを思い出しかのような顔をして言った。
「そう言えば、逸見さんに呼び出されてるんだった。テスト大丈夫だったのに何なんだろ?」
「ポスターガールにでも抜擢するんじゃない?」
達也が間髪入れずに言う。達也は恥ずかしげも無くこういうことをよく言った。容姿に限らず何でも女性に対しては賞賛を惜しまなかった。それがただのヨイショではなく的確な賞賛なので、女性も自然とそれを受け入れることができた。
容姿は端麗で態度は軽妙。そんな達也がモテないはずはなく、この研修所に来てからも女性たちに誘われたことが一度や二度ではない。
しかし速人のみるところ、達也は誰か特定の女性と深い関係になるのは避けているようだった。可愛い女性がいると声を掛けたりはするし、それで仲が良くなったりはする。しかしそこで終わりだった。ここに来た当初は涼子などの人気のある女性に特別な興味を持っている様に言っていたが、友人になれば他と変わらぬ態度を保っているように見える。
茜や彩菜などは達也が涼子に気があるとことあるごとに言っていた。何か確信があって言うのだろうが、速人にはさっぱりそれがわからなかった。確かに二人とも美男美女なのでお似合いだが、それ以上のことは何も言えない。達也は誰に対しても優しいので、誰に特別な好意があるのか速人の眼にはさっぱりわからないのである。
しかし速人は男女の仲や恋愛関係に関して、全く自分の眼を信じていなかった。大体が自分と茜とのことさえわからないことだらけなのである。そんな自分に何がわかる、と速人は思っていた。
それでもごく稀にだが、速人に対してだけは達也も本音をチラリと見せたりすることもある。
少し前に茜のことを色々聞かれていた時、速人は達也に聞き返した時のことだった。
「お前はどうなんだよ? 俺のことばかり世話を焼くけどさ」
達也はいつもの態度を崩さなかったが、少しだけ真顔になってこう言ったのだった。
「俺はさ、今まで色々と付き合ってきたが最終的にはいつも同じ悩みが出てきたんだ。『俺を好きなのか? それとも俺の家柄が好きなのか?』ってね。子供っぽいのもわかってるし、そんなことを考えてしまう自分も嫌いさ。それでもつい考えてしまう。だから今の感じでいいんだ」
速人もニコも達也の家のことについては誰にも何も言っていなかった。だから新しい友人たちは、彼が日本でも有数の資産家である福永家の人間であることを知るものはいないはずだ。速人はそれを聞いた時、それ以上何も聞かなかった。人にはそれぞれ立場があって悩みもあるはずだから。金持ちには金持ちの悩みがあるんだなと些か陳腐な考えに落ち着いてしまう。
速人はふと窓の外を見た。
雨が降り出しているのを見て顔をしかめる。明日は彩菜と一緒にある場所へ出かける約束をしていた。
もう邪魔するなよな、と何に向かってでもなく速人は心の中で呟いた。




