第12話
どのくらい時間がたったか速人にはわからなかった。茜の胸の中で彼は考えていた。
こんなに胸の内を吐き出したのは初めてだった。そして、その相手が今、自分を抱きしめてくれている女性でよかったと思う。まだまだ消化しきれないことはあるし、体だって元のままだろう。夢だって見るに違いない。それでも、ずっと胸に重くのしかかっていたものが少しだけ軽くなった気がしていた。
今はもうそれを考えるのはやめよう。今日はこれで充分だ。
速人はそこから動きたくなかった。暖かくて心地よい。だが、ふとあることに気が付く。
「ごめん」
彼はしっかりとした声で言った。
「うん? どうしたの」
「鼻水、付いちゃった」
「バカ」
茜は腕に力を入れて強く抱きしめ、胸で速人の顔を押し潰した。少しして力を緩める。
もう夜明けになっていた。明かり取りの窓から薄く日の光が差している。
茜は速人から体を離して言った。
「朝になっちゃったね。『ビフォアサンライズ』だとお別れの時間だ」
きっともううんざりだろうなと速人は思った。誰でもこんな問題を抱えているやつはスルーしたいものだろう。それも仕方ない。こんなの受け入れてくれる女性なんてそうはいないはずだ。
それでも速人は茜に感謝していた。彼女でなかったら話す気にはなれなかっただろうとわかっていた。
顔を洗ってくると言ってバスルームに向かう茜を見て、彼はごめんねと心の中で思う。折角、誘ってくれたのに悪いことをした。体は役立たずだし、おまけに泣く始末だ。みっともないったらありゃしない。速人は恥ずかしさで一杯になる。
違う時期に出会っていたらと速人は思った。物事はうまくいかないようにできている。しかしバスルームから戻ってきた茜の言葉は速人の期待をいい意味で裏切った。
「次は『ビフォアサンセット』しようね」
照れたよう笑って彼女は言った。
速人がとっさに何も答えられないでいると、茜は不思議そうに尋ねた。
「もしかして観てないの?」
口調が少しだけ詰問調に変わっている。
もちろん速人は観ていた。DVDだって持っている。前作の九年後を描いた『ビフォアサンライズ』の続編で、同じ二人が夕暮れまでの数時間を過ごす映画だ。
「また俺と一緒に遊んでくれるってこと?」
「当たり前じゃない。何でそんなこと聞くの?」
「いや、だってさ。俺、めんどくさいでしょ。みっともないし」
ああ、そういうことかと茜は納得した表情をする。そしてはっきりと言った。
「めんどくさくないし、みっともなくない。むしろ話してくれて嬉しかったわ。正直、話はびっくりしたけど。でもあたしはそんなの気にしない。もっとたくさん色々話したいよ」
速人は、自分が目の前の女性を過小評価していたのを恥じていた。彼女は自分の最悪の姿を見ても、まだ好意を示してくれている。これ以上ない醜態を晒したと感じていた彼は、それでも自分を受け入れてくれる茜に感謝した。
「でも、それって九年後?」
ありがとう、と素直に感謝の気持ちを表そうとしたが、口から出たのは違う言葉だった。
「数日後でも数時間後でもいいわよ」
何となく気恥ずかしくなった彼は煙草に火をつける。そして昨夜のある会話を思い出した。
「何て呼べばいいの? 上本さんは禁止なんでしょ」
茜はニッコリと満面の笑みを浮かべる。
「茜、でいいよ。呼び捨てにして。年上みたく敬語使ったらダメ」
「じゃあ俺のことも呼び捨てにしてよ。年下だしさ」
からかうように速人は言った。
「言ったな。よし、わかった。じゃあ速人さ、年上のお姉さんが一ついいこと教えてあげようか?」
面白がって茜も乗ってくる。
「今はまだどうなるかわからないけどさ、もしあたしと付きあったら体の問題はなくなると思うよ」
小悪魔的な笑いを口元にたたえた。全然、似合っていないと速人は思ったが口に出さなかった。そんな姿も素敵だったのだ。
「だってあの手、この手で……」
言いながら彼女は笑い始めた。速人もつられて笑った。笑いながら速人ももっとこの女性と話したい、一緒にいたいと思った。
その時、フッと頭の中に何かがよぎった。それは何故か網谷彩菜の姿だった。初めて見た時と同じくスーツに長い靴下を履いている。そう今まで何故だか気になっていた女性だ。
しかし速人は今ではその理由がわかっていた。もう一つの記憶。彼にはもう一つ思い出したくない記憶があったのだ。思い出したくないというか、悲しい記憶と言った方が正しいかもしれない。
戦場へ行った頃からほとんど思い出さなくなっていた。帰ってきてからはこの始末なので、それが入り込む余地がなかった。彩菜を初めて見た時、すぐに思い出してもいいようなものだが、やはり戦場のトラウマが脳の全てを支配していたのだろう。やり残したことがあったのを思い出した。
実際、速人は茜のおかげで少しだけ楽になったことを実感していた。自分のトラウマを話して女の胸で泣く。彼はそういうことを恥ずかしく思う性格だったが、相手が茜だったおかげでさほど恥とは思わなかった。重荷が少しだけ減ったおかげで他の記憶が呼び覚まされたのだ。
「そろそろ始発が動き出すね」
茜の声で現実に呼び戻された。
速人は急いで彩菜の顔を脳裏から打ち消す。こんな素敵な女と一緒にいるのに、他の女のことを考えるなんて失礼な話じゃないか。
「茜さん、いや、茜」
慣れる時が来るのか疑わしいなと速人は思った。
「本当にありがとう」
どういたしましてと笑って応じる茜が彼にはほとんど天使にしか見えなかった。
〜研修所の一室で〜
「研修の準備は進んでいるのか?」
管理棟の一階にある教官たちの部屋で若山が逸見に向かって言った。
「はい。ほとんどの準備は完了しています。リストはほぼ出来ているので、あと何人かを選べば準備万端かと」
「選ぶ際には色々な面を考慮するんだぞ。家族構成はもちろん現在の人間関係もな」
「わかっております。なるべくその後の障害が少ない者を選ぶつもりです」
逸見は書類の束を若山に差し出した。ズラリと並ぶ人名と顔写真。受け取った若山はそれを見て、ボールペンを取り出し幾つかの印をつける。
そして何人かの名前を口にし、それを聞いた逸見がメモをとっていた。
「研修生の方は? ちゃんと秩序を保てるのか?」
「それも大丈夫です。充分な時間的余裕を持って現地入りさせます。ルールをきっちり理解させてから実習に当たらせるつもりです」
「それならいいがな。ああ、そうだ。こないだの事件。あんなことがあっては困るぞ」
「あの四人は予想外でした。まさか講師にまで手を出すとは」
逸見は苦虫を噛みつぶしたかのような表情で言った。全く近頃の若者は、と思わずにはいられない。彼らの無軌道な性欲のせいで逸見の立場も危うくなるところだったのだ。
「あの講師はどうした? 確かに若くて美人だったからな」
「今は中年の女性にかわってます」
しばらく若山はリストを何枚もめくっていたが、ある一枚で彼の手が止まった。
それを見て逸見は思った。やはり、そいつか。そして若山の口からその名前が呟かれ、逸見はそれをメモにとった。やはり容姿が一番なんだな、と思わずにいられない。しかし逸見もその有効性はわかっているので特に異を唱えることはなかった。
「しかし今回は豊作だね。素晴らしいじゃないか」
「はい。人事部がよくやってくれたようです」
「まあ期待しているよ。失敗しないように細心の注意を払って進めてくれたまえ」




